集会後の楽しそうな高校生の存在は、私を聖書に向かわせました。合唱活動も十分に楽しかったのですが、知らない何かを知りたいという探究心が勝っていたのでしょう。そんな私が自分だけの思いで聖書を知ろうとしたのですから、間違ってしまいます。
私は文章全体を読まずに 「あなたがたを選び」 の部分だけを抜き出して考えをめぐらしてしまったのです。若い彼らの喜々とした姿の原因を聖書に求めたのは特別な間違いでないのですが、文章全体からその意味を知ろうと考えなかったのです。
「彼らは選ばれていて喜んでいるようだが、私はどうなのかな」 と勝手に考え、 「私も選ばれていた」 と思いたいのでした。そして、そのように 「思い込んで」 しまったのでした。文章の後半を読めば単純な内容でないことがわかるのですが、 「何かちがうかな」 程度の感覚でやり過ごしていたのです。
キリスト教を知識として見れば、「十字架が付いた建物でありイエス様を拝む宗教」 であると小学生でも知っていると思います。なのに、自分とのかかわりとしてそれを経験するのは、単純でないですネ。
十字架で現された神の愛を知るようになるまで、「思い込み」 という間違いから、抜けられませんでした。私は誰の話にも耳を閉ざし、信仰の先輩の生き方を見ないで、遠回りの道を選んだのです。
注)聖書全体にからこの部分を読みますと、神のご計画の大きさや確実さその緻密さなどが現されているそうです。
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