昨日 「対極語」 という話を聞いた。 「反義語」 あるいは 「反意語」 ともいうようですが、右に対し左、上に対し下、などはわかり易い。出席に対し欠席、入り口に対し出口、親に対し子、明るいに対し暗い、暖に対し寒、強に対し弱、硬いに対し軟らかい等々。少し抽象的になると有に対し無、苦に対し楽、生に対し死。 さて、その方は 「愛」 の現実的対極語はなんだと思いますかという。直感で憎しみを思い浮かべたが、その方は 「無関心」 だという。
いま、学校内の 「いじめ」 が社会問題となっていますが、 「いじめ」 を受けている生徒が誰か他の人に訴えて、解決しようとしたケースは一割程度だという報道を聞いたことがあり、重大性を考えさせられた。 ――以下考えたこと――
社会的経験の少ない子供は、先ず両親に目を向けて、喜び・悲しみ・怒り・憐れみ・楽しみ・悩み等々、何かを訴えるでしょう。しかし、大人の都合で子供の声・訴えに関心が向かない。否、親自身が、経済活動・諸問題・悩み・苦悩などを抱えている場合が多いから、子供の問題を正面で取り組もうとする動機が湧いてこないのかも知れない。子供にとってこうしたことが2回3回4回と続けば、親をそのような人なのだと固定化する可能性がある。子供の環境は順次、近所のお友達、近所の大人、学校の先生、学校のお友達・・・・経験を積み重ねていく訳だが、無関心という人間関係に馴れてしまうとどうなるのだろう。
コミュニケーションが不慣れな状態。
興味が湧かない学校の授業で教師の話が頭に入ってこない時に、その生徒はどうするのであろう。教師に向かって 「授業がわかりません」 とは言わないだろう。校庭で運動をしているクラスがあれば、耳が校庭の声に引き付けられ目は校庭に向くでしょう。絵が好きなら教科書に漫画を書くかもしれない。筆箱をわざと落として教師の注意を引こうとするかもしれない。
教師は、授業計画を時間内に消化したいから、理解できていそうな生徒を相手に質疑をして、形を整える(教師の無関心を仮定)。教師だって生徒全員のハートを掴むコミュニケーションができるわけじゃないですよね。
このままなら、校庭を見ている生徒のハートに取り残された挫折感が残るでしょう。挫折感が積もっていけばいつか暴走の時がくることになる。他の原因でも挫折感や人間不信は起こるし、負の心理を共有する生徒が意気投合すれば、いじめが起きそうだし、ひとりだけで取り残されていれば、或いは、ひとりだけ優秀で歩いていれば、いじめのターゲットになりそうです。
最近、校長先生の自殺が2件発生したことが報道されており、校長先生でさえ絶命するほどのコミュニケーション不足を起こす環境となっているのなら、子供達のコミュニケーション環境が極めて悪くなっていると容易に想像できよう。
お母さん・お父さん、おじいちゃん、おばあちゃんどうやったら挽回できるかだと思う。だから、校庭を見ている生徒のハートに関心が持てれば挽回のチャンスがあると思いますがどうですか。
「神は・・・・・に引き渡され」 たのです。 「自分の欲求」 の奴隷になっている状態から抜け出す必要がありませんか。 「大切な何かを、忘れたままにしないで下さい。」 とお子さん達が言っていないのでしょうか。 いや、あなた自身の魂が言っているかもしれない。
聖書は 「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」 (コリント人への第一の手紙 12章22節) と言っています。
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