いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/06/21 17:18:41|聖書
私は群衆の一人かな
イエスは、歩いている途中で、ついてくる群衆に話を始めます。
ルカによる福音書 14章です。

(歩いていたイエスは、群衆に向かって話を始める。)25節

(自分の親族や自分のいのちを、わたしより大切とおもうなら、私の弟子になれません。)26節

(自分の十字架を負ってついてこないものは、私の弟子になれません。)27節

(塔を築くとき、費用の計算をして、準備しないと、完成できない恐れがありますね。)28〜30節

(他の王と戦うときは、戦力の評価をして、負けそうなら講和を結ぶでしょう。)31〜32節

(ちょっとした財産が、イエスの弟子となることをちゅうちょさせます。)33節

(イエスの例え : 塩気のない塩は何の役にも立たず、外に捨てられます。)34〜35節



(私が持つ聖書の補足欄から)
25節 : 先の盛大な宴会の例えで宴会出席者の拡大が語られたのち、35節まで、弟子としての道に必要な犠牲が示される。
その覚悟の無い、塩気を失った弟子は、 「外に投げ捨てられてしまう」 (35節)。
イエスの弟子には、家族と決別し(26節)、財産全部を捨てるほどに(33節)、自分を完全に神に明け渡すことが求められる(27節)。


(私の思索)
26節 : イエス様に従おうとするとき、足かせとなるようなもの(親族や自分のいのちなどさえも)を憎むようでないと途中で脱落するでしょう。(主よ、溺れそうです。助けて下さい。)

27節、 「自分の十字架」 : この記事を書いたのは、聖書の記者がパウロなどの使徒と共に伝道旅行中であったはずだ。
だから、記者は、イエスの十字架とよみがえりを意識しながら、 「自分の十字架」 と言っている。
その十字架は、自分や自分の親族を優先的に意識するものではなく、全ての人を意識したものだろう。


(私の脳裏をかすめる言葉)
黙示3章20節 :  見よ。わたしは、戸の外に立って叩く。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。


(私の感想)
私は、自分で塩気を保つ能力が無いと感じています。
主が私の内にお入りになるのなら、お入りくださいと祈ろう。
誰かを受け入れなさいというのなら、具体的な誰かを教えてくださいと祈ろう。







2007/06/15 17:34:33|聖書
指導者の家で : 神の国の宴会招待を断わった
パリサイ派のある指導者の家であったエピソードが続きます。
ルカによる福音書14章です。

(客の一人が、「神の国で食事する人は、幸いだ。」と言った。)15節

(イエスの例話 : ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いた。)16節

(イエスの例話 : 宴会の時刻になって、用意ができたと僕に告げさせたら、みな同じように都合が悪いと断った)17〜20節

(イエスの例話 : 怒った主人は、大通りなどに行って貧しい人や足が動かない人などを連れて来させたが、席があまり、街道などに行って無理に人々を連れて来させた)21〜23節

(イエスの宣言 : 招待されていた人たちで、私の食事を味わう者はいません。)24節



(私が持つ聖書の補足欄から)
16〜17節 : オリエントの正式招待は二度繰り返される。それだけに、二度目の招待を断わるのは大変な侮辱で、宣戦布告にも等しい。
この例えでは、先の招待は旧約聖書、二度目のしもべによる招きは、バプテスマのヨハネや使徒、伝道者による招きであろう。

18〜20節 : 三人の客に代表されるユダヤ教は形式的な戒律主義や偽善的善行の下に隠された世俗性のゆえに、イエスの招きに応じることができない。

21〜23節 : 結局、招きに応じて宴席に着くのは、パリサイ派から招いてもらえないイスラエル人や異邦人である。
「無理にでも人々を連れてきなさい」 とは、主の招きの熱心によって進められる異邦人伝道を指す。

24節 : 神の宴への招きは、今すぐ応答すべき、緊急の現実的な招きであるから。


(私の思索)
イエスがいう 「私の食事」 とは何だろう。
「救いにあずかる」 ことと理解してよいか。
黙示録の21〜22章の、都でのことか。

答えが出ないが、答えが出たとしても私の信仰に影響が無い内容なら、意味がない。


(私の脳裏をかすめる言葉)
私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。ピリピ3章16節


(私の感想)
旧約聖書を現実のものとして受け入れる生活習慣が無いに等しい私が、イエスの例え話をきいてそれを理解することなど、無理なのだが、 「そのような者でもいいから連れて来なさい。」 と言われたのかもしれない。







2007/06/12 23:42:37|聖書
指導者の家で : 招いた指導者は発言不能
パリサイ派のある指導者の家であったエピソードが続きます。イエスは、食事に招いてくれた指導者にもてなしの心がけについて語ります。
ルカによる福音書14章です。

(昼食や夕食に友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼ぶな)12節

(祝宴を催すなら、貧しい人、身体の一部を失った人、足が動かない人、盲人たちを招きなさい。)13節

(経済的に貧しい人たちは、祝宴のお返しが出来ないから幸いです。)14節

(別の客が「神の国で食事する人は、何と幸いでしょう。」と言う。)15節



(私が持つ聖書の補足欄から)
12〜14節 : ここの招待主への教訓は、真のもてなしと親しさとは何であるかを教える。
平素の昼食や夕食のふるまいに、特定の階層の者だけ呼ぶのは、他の階層の者を排除するエゴイズムに他ならない。
義人の復活の時に受ける予期せざる報酬こそ、真の栄誉である。


(私の感想)
自分の結婚式以外に思い出せないほど、他人を食事に招く経験が少ない私には、遠い世界と感じてしまう。







2007/06/12 8:49:15|聖書
指導者の家で : 上座を選んでいる
パリサイ派のある指導者の家であったエピソードが続きます。
ルカによる福音書14章です。

(人々が上座を選んでいる)7節

(例え話:婚礼の披露宴に招かれたときには、末席に着きなさい。)8〜10節

(高くする者は低くされ、低くする者は高くされる)11節



(私が持つ聖書の補足欄から)
3〜5節 : イエスは彼らの利己主義を取り上げて、7節以下の説話を続けられる。(前回の範囲)
7〜11節、 「婚礼の披露宴」 : 最も席次のうるさい場面で、招待者の方で席順を決めてあるのが普通。
この例えは、真の謙遜を教える。
要は、神の評価にすべてをゆだねて、自らは末席を選ぶこと。


(私の思索)
この記事は、平素の安息日での出来事だが、イエスが披露宴に例えていることが気がかりになった。
マタイによる福音書22章1〜14節で、天の御国の例えとして結婚の披露宴が取り上げられている。
黙示録19章7節に子羊の婚姻のときの記事もある。

座席が決まってない披露宴で、上座を選ぶ心理は何だろう。
私は、有名な役人だし、新郎の面倒を見たこともある。
私は、新郎といつも一緒にいたし、親しい仲間だ。
私は、こんなことが出来るし、こんなことをやってきた。
私はという思い上がりか。 たんなる無神経か。


(私の脳裏をかすめる言葉)
ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。


(私の感想)
最近、礼儀作法に関心を持つ人が増えているのだろうか。
TV番組で作法の形を教えている。
イエスは、作法の形ではなく、真の謙遜を教えようとされている。







2007/06/10 20:51:40|聖書
指導者の家で : じっとイエスを見つめていた。
安息日に病気を直すことの是非について、イエスが教えられたのは、ルカによる福音書について調べると、6章1節〜、6章6節〜、13章10節〜、今回の14章1節〜、4回も書かれている。
読む立場の感想では、 「また出てきた」 なのだが、実際はどうだったのだろうか。

私の推理に過ぎないのだが、宗教家たちの指導は、
「安息日に働いてはいけません。
会堂にきて、聖書の話を聞きなさい。
神が、あなた方の先祖に素晴らしいことをして下さった事と、
神が律法を与えてくださったのだから、それを聞いて学びなさい。」 
という様な事だろうと思う。

その内容は、彼らが旧約聖書を細かく調べていたので、一見正しかったのだろう。
では、安息日の労働問題に関して、イエスと宗教家達の違いは何か。

宗教家たちの態度は、 「働いてはいけないと書いてあります」 「聞きに来なさい。」 であったのではないか。
だから、来ることができない人は、対象外なのだ。

同時に、彼らの教えを各地に徹底していたのだろう。
それを、イエスによって否定されることは、簡単に容認したくないかなぁ。

一方イエスは、
自分から会堂に来ることもできない病人、
目や足が不自由な人、
悪い霊に拘束されている人、
「汚れている」 と叫ばねばならない人、
人々から嫌われて会堂に入れない人など、
「失われた人」 に目を注いでおられる。

そして、イエスご自身が旅をして、
一人ひとりに近付き、
癒しを行い、
その都度罪の赦しを宣言しておられたのだ。
その日が安息日であっても、普通の日であっても。

さて、今日の記事の特徴は何でしょう。
パリサイ派の 「指導者の家」 だろう。

過去の 「安息日労働論争」 は、別々の地域で起きたことだが、その情報はパリサイ派の人々によって短期間で伝わったと考えられる。

この記事の指導者は、イエスの行動を予測していただろう。
病人はイエスの真正面にいるように指導されたと考えてもいいでしょう。

これも推理に過ぎないが、この指導者は、冷静で慎重で論理的に物事を考えるタイプの方であったろうと感じる。
おそらく自分の目と耳で、イエスの癒しの実際と指導内容を確認したかったので、イエスを食事に招いて、病気を癒すときの細かい行動までじっと見つめていたのであろう。

お手持ちの聖書を直接読んでくださるようお願します。
ルカによる福音書14章です。

(安息日に、パリサイ派のある指導者の家で)1節

(イエスの真正面に水腫をわずらっている人がいた。)2節

(イエスの問いかけ : 安息日に病気を直すことは、正しい、良くない)3節

(律法の専門家、パリサイ人たちは黙っていた。イエスは抱いて直し帰された。)4節

(自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日なら、引き上げてやらないのですかとたずねた。)5節

(彼らは答えられなかった)6節



(私が持つ聖書の補足欄から)
1節、 「食事をしようとして」 : ルカの第5番目の宴席記事
「指導者」 : 「役人」 と同語で、サンヘドリン議員のこと。通常エルサレムに住んだ。

2節、 「水腫」 : 体内にリンパ液が多量にたまって、むくむ状態。神から呪われた結果とみなされ(民5章21,22節)、ラビ達は不品行の結果の性病と考えた。

3〜5節、律法の専門家やパリサイ人にとって、安息日に病気を直すことの是非を巡る議論と、自分の息子や牛の問題とは別であった。イエスは彼らの利己主義を取り上げて、7節以下の説話を続けられる。


(私の思索)
ある程度は冒頭で述べた。
「みんながじっとイエスを見つめて」 いたことについて、私は、信仰を持ちたいと願う人にとって、イエスをよく見続ける事が大切だと思っている。

しかし、批判材料を見つけようとして見ている限り信仰を持つことはもちろん、その成長などありえないと思う。
ただ、それが無駄になるかといえばそうでもないようだ。
何かのきっかけで、疑問、迷い、誤解などが解けたときに、深い信仰に導かれるケースがあるようです。
あのパウロのように。

(私の感想)
傍目から見たとき、客人をじっと観察する宗教家たちの異常さを強く感じる。
しかし、一歩間違うと自分自身もそうなるかもしれない。

今回、イエスの行動が 「失われた人々」 に目を注いでおられたという理解の仕方をさせていただいたことは、私にとって大きい。