安息日に病気を直すことの是非について、イエスが教えられたのは、ルカによる福音書について調べると、6章1節~、6章6節~、13章10節~、今回の14章1節~、4回も書かれている。 読む立場の感想では、 「また出てきた」 なのだが、実際はどうだったのだろうか。
私の推理に過ぎないのだが、宗教家たちの指導は、 「安息日に働いてはいけません。 会堂にきて、聖書の話を聞きなさい。 神が、あなた方の先祖に素晴らしいことをして下さった事と、 神が律法を与えてくださったのだから、それを聞いて学びなさい。」 という様な事だろうと思う。
その内容は、彼らが旧約聖書を細かく調べていたので、一見正しかったのだろう。 では、安息日の労働問題に関して、イエスと宗教家達の違いは何か。
宗教家たちの態度は、 「働いてはいけないと書いてあります」 「聞きに来なさい。」 であったのではないか。 だから、来ることができない人は、対象外なのだ。
同時に、彼らの教えを各地に徹底していたのだろう。 それを、イエスによって否定されることは、簡単に容認したくないかなぁ。
一方イエスは、 自分から会堂に来ることもできない病人、 目や足が不自由な人、 悪い霊に拘束されている人、 「汚れている」 と叫ばねばならない人、 人々から嫌われて会堂に入れない人など、 「失われた人」 に目を注いでおられる。
そして、イエスご自身が旅をして、 一人ひとりに近付き、 癒しを行い、 その都度罪の赦しを宣言しておられたのだ。 その日が安息日であっても、普通の日であっても。
さて、今日の記事の特徴は何でしょう。 パリサイ派の 「指導者の家」 だろう。
過去の 「安息日労働論争」 は、別々の地域で起きたことだが、その情報はパリサイ派の人々によって短期間で伝わったと考えられる。
この記事の指導者は、イエスの行動を予測していただろう。 病人はイエスの真正面にいるように指導されたと考えてもいいでしょう。
これも推理に過ぎないが、この指導者は、冷静で慎重で論理的に物事を考えるタイプの方であったろうと感じる。 おそらく自分の目と耳で、イエスの癒しの実際と指導内容を確認したかったので、イエスを食事に招いて、病気を癒すときの細かい行動までじっと見つめていたのであろう。
お手持ちの聖書を直接読んでくださるようお願します。 ルカによる福音書14章です。
(安息日に、パリサイ派のある指導者の家で)1節
(イエスの真正面に水腫をわずらっている人がいた。)2節
(イエスの問いかけ : 安息日に病気を直すことは、正しい、良くない)3節
(律法の専門家、パリサイ人たちは黙っていた。イエスは抱いて直し帰された。)4節
(自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日なら、引き上げてやらないのですかとたずねた。)5節
(彼らは答えられなかった)6節
(私が持つ聖書の補足欄から) 1節、 「食事をしようとして」 : ルカの第5番目の宴席記事 「指導者」 : 「役人」 と同語で、サンヘドリン議員のこと。通常エルサレムに住んだ。
2節、 「水腫」 : 体内にリンパ液が多量にたまって、むくむ状態。神から呪われた結果とみなされ(民5章21,22節)、ラビ達は不品行の結果の性病と考えた。
3~5節、律法の専門家やパリサイ人にとって、安息日に病気を直すことの是非を巡る議論と、自分の息子や牛の問題とは別であった。イエスは彼らの利己主義を取り上げて、7節以下の説話を続けられる。
(私の思索) ある程度は冒頭で述べた。 「みんながじっとイエスを見つめて」 いたことについて、私は、信仰を持ちたいと願う人にとって、イエスをよく見続ける事が大切だと思っている。
しかし、批判材料を見つけようとして見ている限り信仰を持つことはもちろん、その成長などありえないと思う。 ただ、それが無駄になるかといえばそうでもないようだ。 何かのきっかけで、疑問、迷い、誤解などが解けたときに、深い信仰に導かれるケースがあるようです。 あのパウロのように。
(私の感想) 傍目から見たとき、客人をじっと観察する宗教家たちの異常さを強く感じる。 しかし、一歩間違うと自分自身もそうなるかもしれない。
今回、イエスの行動が 「失われた人々」 に目を注いでおられたという理解の仕方をさせていただいたことは、私にとって大きい。 |