いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/06/08 13:29:59|聖書
あなたがたはそれを好まなかった
イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられている(22節)のだが、そのエルサレムは、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者(34節)、だとイエスは言う。

エルサレムの神殿は、列王記第一 8章29節に 「わたしの名をそこに置く」 とか 「この所に向かってささげる祈りを聞いてください。」 と書いてあるとおり、神との霊の交流をするために建てられたものであったのに、神を現したイエスを、拒否する場所に変質していたのです。
ルカによる福音書 13章です。

(パリサイ人の情報。 「ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」 )31節

(イエスの回答。 「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行く。なぜなら、エルサレム以外の所で死ぬことはありえない」 )32〜33節

(エルサレム。自分に遣わされた人たちを石で打つ者、あなたの子らを集めようとしたが、あなた方は好まなかった。)34節

(『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」



(私が持つ聖書の補足欄から)
31節、 「何人かのパリサイ人は、」 : ヘロデ・アンテパスからの命令を受けて、イエス追い出しの片棒をかつがされていたらしい。

32節、 「狐」 : 欺く者の意。ラビたちのヘロデ・アンテパス観を示す。

34〜35節、 「幾たび集めようとしたことか」 : エルサレムの罪は、イエスを殺したことよりも、幾度もメシアの招きを拒否したことにある。その罰として、メシアに 「祝福あれ」 という巡礼歌を心から歌うようになるまで、エルサレム神殿は荒れ果てたままであろう。


(私の思索)
32節、過越しの三日目にあがないを完了します。
34節、この時代のエルサレム神殿は、宗教家たちの権力と欲望の象徴のようだ。

35節、 「わたしを見ることができません」 とは、イエスの本質が見えない、理解できないという意味だろう。
 「主の御名によって来られる」 という賛美は、19章38節にも出てくるが、弟子たちの群れが神を賛美し始めたのである。
 パリサイ人によって代表されるエルサレム神殿の回復は、更に先送りされる。


(私の感想)
エルサレムに向かうイエスの思いは、私が想像できる範囲をはるかに超えて重苦しいだろうと私は感じている。

父なるお方の励ましが、イエスを支え続けていたのだろうか。







2007/06/01 14:48:06|聖書
はいろうとしても、はいれない
小さいようで大きい 「神の国」 と 「御霊の実」 を求めるように教えられたが、語られる内容がいよいよ思考の領域から離れていくように感じる。
ルカによる福音書 13章です。

(イエスが、教えながら旅を続ける途中。 「主よ。救われる者は少ないのですか。」 と言う人があった)22〜23節

(努力して狭い門から入りなさい)24節

(例え話 : 家の主人が戸を閉めてしまってからでは、入れない)25節

(例え話 : 何を言っても、不正を行なう者たち、みな出て行きなさいと言われる。)26〜27節

(例え話 : あなたがたはそこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです)28節

(例え話 : 人々は、いろいろな所から来て、神の食卓に着きます)29節

(例え話 : しんがりの者と先頭の者が、あとで逆転します。)30節



(私が持つ聖書の補足欄から)
24節、 「狭い門」 : 「入ろうとしても、入れなくなる人が多い」 という意味の狭さである。好奇心や批判的態度を捨て、自ら 「努力して狭い門からはいる」 ように精進することが肝要である。

25節、 「戸」 : 24節の 「門」 と同語。

27節、 「どこの者だか」 宗教的本質を問う語で、神からきたものか生まれながらの人か、の意

30節、救いの達成に努力しようとしないすべてのキリスト者への警告。



(私の思考)
25節の、 「主人が戸を閉めて」 という言葉には、時間的制限があることを示唆している。

個人にとっては、 「死」 という時間制限であり、人類にとっては、 「世の終わり」 という時間制限であろう。
ここでは、遅くならないように努めなさいという。

27節で、 「不正を行なう者たち」 とは、神の不思議を見ても認めず、教えようとしても聞こうとせず、 「御霊の実」 を結ぼうとしない人々を指すのだろう。

なぜなら、神はその個人の能力を良く知っており、できないことまで求められないお方であると、信じるからである。
神は、憐れみ深いお方である。



(私の感想)
好奇心や批判的態度で、聖書に接することを捨てたとしても、自ら 「努力して狭い門からはいる」 事ができるとは思えない。
どの方向、どんな手段等を、ふさわしいコーチが必要だ。

「御霊の実」 を結ぶには、聖霊を受け入れ続ける以外に手段がないだろう。
「今、心の貧しい者は、幸いです。」を学んでいる。







2007/05/26 17:09:35|聖書
ちいさい様に見えるが大きくなる
安息日の労働論争のあと、またもや苦手な例え話があります。
ルカによる福音書 13章です。

(安息日の会堂に十八年も病の霊につかれ、腰が曲がったままの女が出席していた。)10〜11節

(イエスが、病気の癒しを宣言し、手を置くと女の腰が伸びて、神をあがめた)12〜13節

(会堂管理者は、イエスが安息日にいやされたのを憤って、群衆に安息日には、いけないと言う)14節

(イエスの反論、安息日でも家畜の世話をするでしょう)15節

(サタンの束縛から人々を解放するのは、安息日でも良いのです)16節

(反対者は恥じ入り、群衆はイエスの業を喜んだ)17節

(神の国を、何に例えたら良いだろうか)18節

(神の国の例え : からし種のようだ。庭に蒔くと生長して木になり、鳥が巣を作る)19節

(神の国の例え : パン種のようだ。粉に混ぜると全体が膨らみました)20〜21節



(私が持つ聖書の補足欄から)
10〜17節 : 安息日におけるいやしの記事は、安息日が神の国の勝利と平安を表す事を強調する。

14節 安息日には、いけない : このような一般的戒律が当時のユダヤ教にあったという証拠はないので、自己流の戒律とみなされる。

15〜16節 : 安息日に家畜に水を飲ませてよいのなら、安息日に不幸な女を、サタンの束縛から解いてやるのは当然のことである。



(私の思索)
安息日の労働論争について、安息日の目的は何か。
ルカによる福音書の他の記事を参照する。

6章1〜5節 : 「人の子は安息日の主です。」 と言っている。(私の理解⇒安息日であるがゆえに、主である人の子が苦しむ必要はない)

6章6〜10節 : 「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」 と言っている。

13章16節 : 「サタンの束縛から解いてやるのは当然なのです。」 と言っている。

個人的まとめ
安息日は、労働という束縛から解放され、神の栄光を拝しつつ、神とともに平安を喜ぶ日として与えられたものであろう。

従って、 「18年間も平安を喜んでいなかった娘は、安息日だからこそ、サタンの束縛から解かれるべきではないか。」 という結論になる。

安息日の労働論争に続いて、神の国の例えが語られる。
イエスが教えたかった事と聖書記者が伝えたいことが、この間に詰まっていると考えるべきだろう。

「律法という束縛からの解放」 というイメージが伝わってくるのだが、どうですか。

18節〜21節でイエスは、 「神の国は、ちいさい様に見えるが極めて大きい。」 と言っている。



(私の感想)
「神とともに平安を喜ぶ」 ためには、前回の投稿記事で触れた 「御霊の実」 に注目することが不可欠だ。

「神の国は、ちいさい様に見えるが極めて大きい。」 という示唆は、私の今後の学びに勇気を与えてくれそうだ。







2007/05/23 8:09:56|聖書
いちじくの実
ピラトによる、殺人と宗教儀式の破壊という残酷な事件が報告されます。
それに対し、イエスは悔い改めないなら、みな同じように滅びると言います。
何故かに関して、得意の例えで応える。
ルカによる福音書 13章です。


(ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた)1節

(イエスは、悔い改めないなら、みな同じように滅びますと言う)2〜3節

(シロアムの塔が倒れ落ちて、十八人が死んだ。悔い改めないなら、みな同じように滅びますと言う)4〜5節


(例え話 : いちじくの木を植えておいたが、三年もの間、実がならない。)6節

(例え話 : ぶどう園の持ち主は番人に対して、実がならないいちじくの木を切るように命じる)7節

(例え話 : 番人は主人に対して、執行猶予一年を提案する)8〜9節


(私が持つ聖書の補足欄から)
1節、 : このガリラヤ人たちは、エルサレム巡礼の祭りに乗じて不穏な挙に出て、総督ピラトに虐殺されたのであろう。

2〜5節 : イエスは、特定の罪を持っていたガリラヤ人や18人のシロアムの塔事故犠牲者に限らず、どのガリラヤ人も、どのエルサレム市民も、あなた方も・・・・みな同じ滅びを受ける罪びとだ、と宣言される。

6節、 : ぶどう園にいちじくの木を植えておくことは珍しくない。この、実を結ばぬいちじくの例えは、本来はユダヤ人への警告であったが、ここでは異邦人にも適用される。

7節、 「土地をふさいでいる」 : いちじくは根を張るので。

8〜9節、 神の裁きは確実に進むが、今は神の忍耐の年である。(第2ペテロ 3章9節)


(私の思索)
6節、 「実」 とは何か : ルカの福音書の用法を確認しておくべきだろう。
  悔い改めにふさわしい実  ルカ 3章8節

  良い実を結ばない木は、みな切り倒されて  ルカ 3章9節
  悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません  ルカ 6章43節
  木はどれでも、その実によってわかる  ルカ  6章44節

  別の種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ  ルカ 8章8節
  世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならない  ルカ 8章14節
  正しい、良い心でみことばを聞くと、・・・・よく耐えて、実を結ばせる  ルカ 8章15節

  実りは多いが、働き手が少ない。  ルカ 10章2節

  ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。  22章18節
  
「実」 とは、神の言葉によって人間の内側が変えられ、神が期待する性質として現われてくるものを指している。
後に、使徒パウロが、手紙の中で 「御霊の実」 と呼んだものだろう。
  しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
  このようなものを禁ずる律法はありません。   ガラテヤ書 5章22〜23節

7節、 「三年もの間」」 : イエスが公に 「不思議」 を行いながら宣教活動を進めてきた期間が、三年である。
この三年を意識しながら、例えを語られたと考えることができよう。

8節、番人はイエスでありその肥やしは、イエスご自身の十字架の死とよみがえりの予定であろう。
1年という期間にはあまり重要な意味を持たせているとは思えないが、実がなるのは年に一度だと考えると、 「もう一度だけチャンスを下さい。」 程度の短期間と考えてよいだろう。

9節、私は、歴史家ではないが、 「ユダヤ戦争(紀元66年〜70年)」 でパリサイ派などの律法主義を中心としたユダヤの指導体制が 「切り倒された」 と解説する説教者がいる。
もし、そうだとすれば、この部分は私と関係がなくなるのだが、律法的な考え方を基にした指導体制は、現代社会において利用され続けている。


(私の感想)
神の言葉(旧約聖書)は、イスラエル民族に最初に届けられたが、イスラエル民族は長い間に 「神」 を抽象的なものとして実生活から消してしまったような感じを受ける。
ことば 「聖書」 だけが残ったが、それを律法学者達が自分流に解釈して、本質を見失った結果、神に対する信仰が形骸化し、観念だけが残ってしまったのではないだろうか。

現在、聖書を読んでいる私たちも、同じ危険の中にいるのかも知れない。

イエスは、次のように言うだろう。
「不思議」 な記録の中に、あなた方は何を見ましたか。
私が語った言葉は、あなた方の内側に、何を聞かせましたか。

それらのことから、 「御霊の実」 が与えられましたか。

先輩諸氏の具体的指導を仰がねばならない。







2007/05/16 18:20:12|聖書
なぜ自分から進んで・・・判断しないの
この部分は群衆に向かって話を始めます。
群衆の中には、パリサイ人や律法学者もいたであろう。
旧約聖書を詳しく知っている人を意識しながら、話をしていたのかも知れない。
ルカによる福音書 12章です。

(あなた方は、にわか雨や暑い日になるのを予想できます)54〜55節

(気象現象を見分けられるのに、どうして時代を見分けないのですか)56〜57節

(告訴する者と・・・・熱心に彼と和解に努めなさい。)58節

(最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られない)59節

(私が持つ聖書の補足欄から)
54節、 「西」 地中海上。
55節、 「南風」 ネゲブの荒野からの熱風。
56節、 「偽善者」 仮面をつけて役者を演ずる役者、の意味。 
宗教的仮面をつけ、形式は守るが、真の宗教的生命に生きようとしない人を指す。

(私の思索)
非常に難しい。
56節、 「時代を見分ける」 とは何なのか。
旧約聖書の知識を総動員しても、わたしには糸口がつかめない。

(時代を見分けるための糸口らしき言葉の例)
それゆえ、知れ。悟れ。引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令が出てから、油そそがれた者、君主の来るまでが七週。また六十二週の間、その苦しみの時代に再び広場とほりが建て直される。
                        ダニエル9章25節

見よ。その日が来る。――神である主の御告げ。――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである。
                        アモス8章11節

(告訴する者との和解に関して)
58節、 「告訴する者」 とは、旧約聖書の律法を意味するという理解である。
パリサイ人や律法学者達は、律法を熱心に守り通すことによって、神の前に正しいという審判を頂きたいと考えたグループであろう。
しかし、神を愛し、隣人を愛することは、難しい課題であり、どこかでチョットした過失や自惚れからの罪を免れない。

そこで律法は、「あなたは、あの時、こんな罪を犯した」 とその人の心にささやくようになり、それを隠蔽しようとしていると、愛するどころか冷たいものに変わり、憎しみにさえ変質するのである。

では、「熱心に彼と和解するように」 とは、何を意味するだろうか。
相手が人間なら、贈り物を持って出かけ、謝罪し、赦しを乞うのであろうが、相手が律法であれば律法を遵守することによって詫びなければならないでしょう。

その具体的方法として聖書が述べている内容は、種々の 「いけにえ」 として表現されている。
全焼のいけにえ、和解のいけにえ、罪のためのいけにえ、過越しのいけにえ等、出エジプト記から申命記にかけて、書かれているが、私の手に負えない。

58節、 「役人の前」 とは、単純に 「神の前」 でよいかな。

59節、 「最後の一レプタを支払うまで」 とは、・・・私はつかれたので、ギブアップします。
どうしても何らかの答えが欲しい方は、専門的に聖書の勉強をした方にたずねてください。

(私の脳裏をかすめる言葉)
「あなたがたに、神の国の奥義を知ることが許されているが、ほかの者には、たとえで話します。彼らが見ていても見えず、聞いていても悟らないためです。
ルカによる福音書 8章10節

『神の国が、あなたがたに近づいた。』と言いなさい。
ルカによる福音書 10章9節

神の国はあなたがたに来ているのです。
ルカによる福音書 11章20節

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。 
                   ヨハネによる福音書1章29節

(私の感想)
ここを纏めながら、永遠の裁きの話を思い出した。
しかし、 「最後の1レプタを支払うまで」 と言って解決の可能性を残しているので、最後の審判ではない。

50節の 「わたしには受けるバプテスマがある」 を意識した言葉と解釈する方法がある。
その場合、 「最後の1レプタ」 とは、十字架による人類の贖いのために流されるご自身の血汐の最後の一滴を、意識しておられた可能性が高い。

この推理は、58節の 「告訴する者」 の理解に影響する。
イエスが、過越の祭りの期間中に十字架に架かるので、当然、過越しの子羊を意識されていたはずだ。

その過越しは、本人に罪の意識があろうとなかろうと、過去に過ちがあろうとなかろうと、血塗られた門の中に居る者は、神の裁きを免れるので、害を受けない。
イスラエルの人々は、それを教えられて続けて育ってきた。

イエスが、 「私は門です。」と言われたとき、血塗られた門を意識したであろう。
人類の罪を、最後の一滴に相当するものまで、拭い去ろうと意識されていたということだ。