イエスは、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられている(22節)のだが、そのエルサレムは、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者(34節)、だとイエスは言う。
エルサレムの神殿は、列王記第一 8章29節に 「わたしの名をそこに置く」 とか 「この所に向かってささげる祈りを聞いてください。」 と書いてあるとおり、神との霊の交流をするために建てられたものであったのに、神を現したイエスを、拒否する場所に変質していたのです。 ルカによる福音書 13章です。
(パリサイ人の情報。 「ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」 )31節 (イエスの回答。 「わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行く。なぜなら、エルサレム以外の所で死ぬことはありえない」 )32〜33節
(エルサレム。自分に遣わされた人たちを石で打つ者、あなたの子らを集めようとしたが、あなた方は好まなかった。)34節
(『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」
(私が持つ聖書の補足欄から) 31節、 「何人かのパリサイ人は、」 : ヘロデ・アンテパスからの命令を受けて、イエス追い出しの片棒をかつがされていたらしい。
32節、 「狐」 : 欺く者の意。ラビたちのヘロデ・アンテパス観を示す。
34〜35節、 「幾たび集めようとしたことか」 : エルサレムの罪は、イエスを殺したことよりも、幾度もメシアの招きを拒否したことにある。その罰として、メシアに 「祝福あれ」 という巡礼歌を心から歌うようになるまで、エルサレム神殿は荒れ果てたままであろう。
(私の思索) 32節、過越しの三日目にあがないを完了します。 34節、この時代のエルサレム神殿は、宗教家たちの権力と欲望の象徴のようだ。
35節、 「わたしを見ることができません」 とは、イエスの本質が見えない、理解できないという意味だろう。 「主の御名によって来られる」 という賛美は、19章38節にも出てくるが、弟子たちの群れが神を賛美し始めたのである。 パリサイ人によって代表されるエルサレム神殿の回復は、更に先送りされる。
(私の感想) エルサレムに向かうイエスの思いは、私が想像できる範囲をはるかに超えて重苦しいだろうと私は感じている。
父なるお方の励ましが、イエスを支え続けていたのだろうか。
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