いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/05/11 22:50:19|聖書
投げ込む火で分裂する
聖書の中に天軍賛歌という有名な部分があります。
いと高きところに、栄光が・・・・
地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。

ルカによる福音書によれば、2章14節ですが、この部分があまりに有名なために、今日の部分が影を潜めている。

何故分裂を起こすのかという考察は、大きすぎるテーマですから扱いませんが、分裂という言葉が穏やかではないので、チョットだけ補足したい。

最初に誰もが経験することは 「神はおられる」 という聖書の立場と、 「神なぞ思い込みに過ぎない」 という非聖書の立場があります。
ここですでに分裂しています。

聖書の立場でも、 「神が与えてくれた律法を守り抜きたい」 という立場と 「神の恵みの中で生活したい」 という立場とでは、行動パターンが異なるので、遠くかけ離れてしまう。

さて、この部分は、41節のペテロの質問から始まっているので、弟子たちに語られえていると考えられます。
だから、家族が分裂するような兆候が現われても、恐れないでいなさいという事前警告の可能性があります。
ルカによる福音書 12章です。

(わたしは、地に火を投げ込むために来た。)49節

(わたしが受けるバプテスマがある。その完了まで苦しむ。)50節

(地に平和の前に、家族にさえ分裂がある)51〜53節

(私が持つ聖書の補足欄から)
49節、 「火」 : 聖霊の終末的降臨(使徒2章34節を表す)。
すでに教会の時代に、聖霊は審判ときよめを行い始められた。(使徒5章9節・ほか)

50節、 「バプテスマ」 : イエスが 「とこしえの御霊によって神におささげになった」 注ぎの血(ヘブル9章13〜14節)、贖いの死のこと(マルコ10章38、45節)

51〜53節、 地に平和が 「御心にかなう人々に」臨む(ルカ2章4節)前に、ふるい分けときよめの 「火」 による分裂がある。
→(マタイ10章34節の補足欄から) キリストの宣教は、緊迫した空気や迫害、それに死をもたらす。
イエスは 「平和の君」 として来られたが、その語られる言葉は人間社会の内側、家族関係を刺し通す。

(私の思索)
イエスの言葉を、私流で表現すれば、人生のY字路です。
Y字路に示された案内通りに進むのか、案内を拒否して自分の好む道を選択するのか、絶えず、分離・分裂が起きる可能性があります。それでも、分裂後に合流・合体する可能性だってあるからね。

(私の感想)
わたしは、じっくり考えて見るのだが、消化不良状態のようだ。
理解しているつもりだが、なんとなく曖昧だ。
「火」 と 「バプテスマ」 と 分裂の問題について統合して把握できない。







2007/05/10 22:22:20|聖書
油断してませんか
「腰に帯、心に明かり」 の心がけをコンスタントに持ちたいものだが、緊張するだけでは疲れる。
習慣にするしかないぞ。
ルカによる福音書 12章です。

( 「腰に帯、心に明かり」 の例えは、誰のために話されますか)41節

(思慮深い管理人とは誰か)42節

(主人が来たときに、「腰に帯、心に明かり」で過ごしているしもべは幸いです)43節

(油断しているしもべにとって、主人は思いがけない時に帰ってきます。)45〜46節

(主人の願いを知っていて、それを無視したしもべは、厳しく罰せられます)47節

(主人の願いを知らなかったしもべは、少しだけ罰せられます)48節

すべて、多く与えられた者は多く求められ、多く任された者は多く要求されます。

(私が持つ聖書の補足欄から)
42節、 「しもべたちを任されて」 : ルカは、この点を強調して、 「すべての人」 に当てはまる一般的忠告(マルコ13章37節)から、教会役員として信徒の上に立つ 「管理人」 への警告に変える。

45節、 「主人の帰りはまだだ」 : こう考えるほど再臨が遠い未来であり得るという暗示は、 「神の国がすぐにでも現われるように思っていた」 人々の、誤解を正すために語られた。
王位を受けに 「遠い国に行った」 身分の高い人の ミナ の例え(ルカ19章11〜12節)にもある。
この遠さを不忠実の契機にすることが、罪を助長させる。

(私の思索)
管理人とは、主人(イエス)から、家のしもべたち(複数の信仰者)を任されて、食事時(礼拝式などの集会時)には彼ら(任された信仰者)に食べ物(聖書の真理)を与える(正しく教える)立場にある人と読むことが可能だ。
その場合、この管理人は、主人の心をよく知っているしもべの一人である。

45節の下男や下女とは、指導者によって指導を受けている信仰者であるが、指導者を尊敬し、謙遜に下僕のような思いで主に仕えようとしている、素晴らしい方々と考えることができよう。

しかし、現代日本の世相を見るとき、ずるがしこい指導者に利用されている信仰者と考えることも可能であり、心が重くなる。

(私の感想)
「腰に帯、心に明かり」 をひとり出できるとは思えない。
何人かで、互いに助け合い、教えあい、警告し合い、励ましあう様な仲間が不可欠と思う。
思慮深い管理人がいれば鬼に金棒。

現代の教会にとって、思慮深い管理人とは誰か。
“聖霊”なる御方だろう。







2007/05/09 9:38:37|聖書
思いがけない時に
小さな群れに対して、 「喜んで御国を与える」 と約束の言葉を与え、心構えを教えた。
今日のところも心構えの教えが続きます。
ルカによる福音書 12章です。

(腰に帯、心に明かりを忘れないで)35節

(婚礼に出かけた主人の帰りを待つような心構えで)36節

(主人が帰ってきたときに、腰に帯、心に明かりを忘れなかった人は幸いです。)37〜38節

(人の子は、思いがけない時に、不意打ちするように来るから)39〜40節

(私が持つ聖書の補足欄から)
35節、 「腰に帯を締め」 : オリエントの長い衣は、機敏な動作をする時は、和服を腰にからげるように、腰に巻きつけ、引きからげなければならない。

36節、 「主人が婚礼から帰ってきて」 : ユダヤの婚礼は一週間も続いたから 「主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰ってもというという可能性があった。

37節、 「目をさましている」 : ただ、眠らないことではなく、再臨に備えるキリスト者のあり方を教える述語(第一テサロニケ5章6節、エペソ5章14節を参照)

(私の思索)
40節、の 「人の子」 について : 私はこれまでに 「イエスご自身」 を指していると聞いている。
キリストの再臨(もう一度来られること)として語り継がれているものです。
それは、ダニエル書7章13節の人の子をイメージしている。
別の機会に自分で確認したいが、手に負えない深さがあるようだ。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。      ダニエル書7章13節

私見だが
「天の雲に乗って」 とは、何か神の移動を粉飾する者の象徴であろう。
また、「年を経た方」 とは、見えない神の象徴であろう。

(私の感想)
このイエスがもう一度こられる記事が、世の終わりを示していることから、多様な預言?と称する喧伝がなされてきた。
それらのいずれの時も、何も起きずに過ぎてきている。

預言書といわれる旧約聖書の中の数値を、あれこれいじりまわせば判るとは書いてない。
40節に書いてあるとおり、 「思いがけない時に」 と書いてあるのみだ。

堕落しないように留意し続けること ( 「腰に帯、心に明かり」 を忘れないでいる) が求められている。
熱狂する必要はない。







2007/05/08 8:30:58|聖書
喜んで・・・与える
財産、飲食及び着る物など生活に関する指導を終えて、信仰生活の心構えについて話を始める。
ルカによる福音書 12章です。

(小さな群れよ。神は喜んであなたがたに御国を与える)32節

(施しをしなさい。宝を天に積みなさい。心を神に向けるためです。)33〜34節

(私が持つ聖書の補足欄から)
32節、 「小さな群れよ。恐れることはありません」 : この励ましは、羊飼いイエスが打たれて散る羊の群れにも、迫害の中にあるルカ時代、それ以後の教会にも当てはまる。

(私の思索)
32節でイエスは、「小さな群れよ。・・・・あなたがたに御国をお与えになるから」 と言っている。
「小さな群れ」 とは、人数が少ない集まりであり、現代で言えば各地方にある教会を指し、「御国」 とは、 「神の国」 を示唆している。
これは大変な言葉である。
神の支配を求める者が、少ない人数でも集うところに、力を顕してくださるというのだから。
しかも、 「喜んで」 与えるという。

(私の感想)
これを語られた時、イエスは、ご自身が人々の手に渡され、パリサイ人や律法学者達のねたみによる論評によって、十字架刑に追いやられ、弟子たちも共に苦しむことを知っていた。
その死を見届けていく時、使徒達でさえバラバラになり、たった二人だけで思い悩むようになることも、御存知だったのだろう。

よみがえられた後でも、弟子(信徒たち)が律法やしきたりを重んじる人たちから迫害されることを御存知であって、事前に話されたものと思われる。

更に、迫害を通して使徒達が各地に散らされて、小さい集まりができたでしょう。
十字架刑のあとで、イエスに出会ったと言う人々が大勢出てきて、エルサレム中に混乱が起きそうな時に旅にきていた人びとが、郷里に帰って小さい集まりをはじめるなど、小さい群れが多数できるのを御存知であったろう。

それに加えて聖書記者は、各地の小さな集まりを意識しながら、大切な言葉として書いていたかもしれない。







2007/05/07 9:31:05|聖書
知っておられる
私は、イエスの話をコマギレにして取り扱っているので、全体との関係が見えなくなってします危険性を、絶えず心配しなければならない。

この話は、群衆の中の一人が、 「遺産分与の調停をしてください」 と言ったことに始まっている。

従って、群衆に向かって話していると考えてよいでしょう。

イエスは、福音宣教が優先課題であることを意識しながら、財産を見たら貪欲に警戒せよと教えた。
また、財産を畑の豊作に置き換えて、財産も人のたましいも神の所有であることと同じであることを示唆した。

食べるものや着るものに対する言及では、必要なだけ与えられますからと教えてきた。
今日の部分は、それらの結論として、神の国を求めなさいと言う。
ルカによる福音書 12章です。

(着飾ることに心をとらわれるな)27〜28節

(飲食について気をもむな)29節

(生活の必要を、全て御存知の父に任せて、神の国を求めなさい)30〜31節

(私の思索)
私が、心を用いなければならないことは何か。
神の国を求めることだと、イエスが言う。
神の国は、私が求めない限り私のところに来ないようだ。
そして今、私にしかできないことだから。

(私の感想)
私は、ヨロヨロと少しずつですが、既に神の国を求めているようです。
聖書に著されたイエスの魅力に引き寄せられていくようです。