いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/05/06 9:45:19|聖書
鳥よりもはるかにすぐれたもの
ルカによる福音書 12章です。

(食べ物や着るものの心配をするな)22節

(いのちは大切、からだは大切だから)23節

(あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものだから)24節

(無駄な心配をやめなさい)25節

(私が持つ聖書の補足欄から)
24節、投稿記事 「だれのもの」 で出てきた例え話 「金持ちと豊作」 との対比。
イエスの一行は、 「財布も旅行袋も持たず、靴も履かずに」 (10章4節参照) 宣教に専念するという厳しい現実の中で、その最低限の必要を神の養いに信頼することを学んだ。

(私の思索)
22節、23節、24節が一つのまとまりですね。
神は、 「あなたがたが、鳥よりも、はるかにすぐれたものなのです。
だから、あなた方のいのちやからだの健康は大切なのです。
ですから、必要な食べ物や着るものも、必要なだけ神から与えられますから、心配するのをやめなさい。」 と言っている。

25節、26節は同じ事を、別の視点から言っている。
あなたがたは、自分のいのちを少しでも延ばすことが出来ませんね。
こんな小さなことさえ出来ないのですから、余分な心配をやめなさい。

自分のいのちを延ばすことを 「こんな小さなこと」 と言うお方が、語っている。

(私の感想)
26節で、主は 「あなたが心を用いなければならないことは何なのか、良く考えなさい。それは、今のあなたにしかできないことなのですよ。」 と言われているように思う。

ここも、先輩の指導を受けねばならない。







2007/05/05 4:19:33|聖書
だれのもの
何度も読んでいる部分でも、こんなことが書いてあったのかと、初めて気付くような経験をすることがありますね。
ルカによる福音書 12章です。

(例え話 : 畑が豊作)16節

(例え話続き : 作物の貯蔵場所が足りないから、あの倉をこわして大きいのを建てよう)17〜18節

(例え話続き : 物が貯まった。安心して飲み食いを楽しめ)19節

(例え話続き : 愚か者。お前のたましいは、今夜おまえから取り去られる。)20節

(神の前に富まない者は、空しい)21節

(私が持つ聖書の補足欄から)
この例えで金持ちが愚か者とされるのは、財を積む事が、たましいの何年分もの食料になるという基本的人生哲学の愚かさによる。

たましいが神の所有であるように、財もまた神の所有である。
神の前に富まない者は愚かである。

(私の感想)
聖書の補足欄に書いてある 「たましいが神の所有であるように、財もまた神の所有である。」 という文章に驚いた。
聖書全体から読んでいくと、前述の結論に到達するのかもしれない。







2007/05/03 12:19:50|植物と花
警戒せよ! 警戒せよ!
13節の遺産調停願いをきっかけに、財産と日常生活 (衣・食・住) の経済的必要に関する話が31節まで続きます。
ここも長いので、無理を承知でコマギレにします。
ルカによる福音書 12章です。

(遺産の調停願いを拒否するイエス)13〜14節

(貪欲に警戒せよ。財産の中にいのちはないから)15節

(私が持つ聖書の補足欄から)
だれが、わたしを・・・任命したのですか : 遺産分配法は 申命記21章15〜17節に規定されている。

イエスが拒絶したのは、ご自身の使命が神の国の宣教に集中していることを示すため。
イエスは社会改革者ではなく宣教者である。

(私の思索)
「貪欲」 を岩波の国語辞典で調べてみた : 非常に欲が深いこと。
                             むさぼって飽くことを知らないこと。

貪欲に警戒せよと言われたのは、財産 (遺産) が多いと、何かと 「先行きが安心」 とか、 「日々の経済的心配が要らない」 というようなことが考えられるが、その人のいのちは財産の中にあるのではないという。

イエスが言われる 「いのち」 とは何かというテーマに行き着く。
医学上の 「生命」 ではない。

やはり、イエスが 「不思議」 を行なったときの、人々の驚きや当事者の喜びの中に含まれているダイナミックなものであろうと思う。







2007/05/01 20:58:36|聖書
言うべきこと
ルカによる福音書 12章です。

(世の権力の前でも、心配するな。)11〜12節

(言うべきことは、教えていただける)12節

(私が持つ聖書の補足欄から)
役人や権力者など とは : 異邦の権力者(この時代では、ローマの権力者と考えてよいと思う)

(私の思索)
10節で 「聖霊をけがす者は赦されません。」 と書かれているのを思い出す。
12節では、「聖霊が教えてくださる」と書かれているので、聖霊を汚す者には、神の赦しが理解できないのかもしれないと連想してしまった。
飛躍しすぎかな。

言うべきことは・・・教えてくださる。
今の私は、言いたいことを言ってしまうかもしれない。







2007/04/30 20:46:02|聖書
雀よりもすぐれた者
ルカによる福音書 12章です。

(あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。)6〜7節

(わたしを人の前で認める者は、人の子もまた、その人を神の御使いたちの前で認めます。)8〜9節

(聖霊をけがす者は赦されません。)10節

(私が持つ聖書の補足欄から)
8節にある 「人の子」 とは : ダニエル書7章13節に示された最後の審判に登場する人物であることが分かる。

10節の 「“聖霊”」 を汚す者」 に関して : マタイ12章31節では 「人はどんな罪も冒涜も赦していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒涜は赦されません。」 と出てくる。

(私の思索)
神は、私に関して、私以上に詳しく御存知だという。
その私にイエスは、 「人の前で私を認めるか」 と言われる。
私は、イエスを認めないなら、自分自身の理性をあざむくことになると感じる。

人の前とは何処だろうか。
日々の生活の中で、イエスを見上げていきたい。

更に神は、弟子たちを筆頭に、従っていこうとする人に対して 「恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」 と励まし、8節の冒頭部分を経由して、10節の 「聖霊をけがす者は赦されません。」 と続け、注意を促しているように感じる。

そうでないと、10節の警告が、降って沸いたような、付け足したような感じになる。

イエスは、弟子たちが、『イエスは 「神のキリスト」 だ』 と告白し宣教を続けることが、苦しみといのちの危険をともなうものであることを既に御存知であって、励ましと注意を事前に与えたのではないだろうか。
ペテロは逆さ十字架刑で、殺害されたそうです。

(私の感想)
ダニエル書は、今日の朝方少し読んだが、わからないことが多すぎて疲れる。
“聖霊”を汚すとはどういうことなのか学んでおく必要がある。

雀は、多くの能力を持っている。
しかし、イエスは 「たくさんの雀よりもすぐれた者です。」という表現で、私たちが大切な者であると言っている。