いらっしゃいませ。ここは、聖書を真面目に勉強したい人たちの交流の場です。 まだ、よちよち歩きですがよろしくお願いします。管理者
 
2007/04/28 20:36:56|聖書
恐れなければならない方
イエスの話は、あえて抽象的で分かりにくい言い方をしているようだ。
私の文章を読むに方も疲れるのではないでしょうか。
ルカによる福音書 12章です。

(パリサイ人のパン種――偽善――に気をつけなさい)1節

(隠されているものは、知られる様になる。)2,3節

(人間達を恐れるな。 ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい)4,5節。

(私が持つ聖書の補足欄から)
2節、3節の隠されているもの、暗闇で言ったこと とは : イエスが話すなと命じられた「メシヤの秘密」9章21節(「神のキリストです。」)および9章45節(彼らから隠されていた)参照

4節、「わたしの友であるあなたがたに言います」 : 四つの福音書で、イエスが弟子を 「友」 と呼ばれる唯一の例。

ゲヘナとは : マタイ5章22節。エルサレムの南西にあるヒノムの谷のことで、
          かつては人間が生贄として、殺された場所を言う。
          当時の人々に理解され易い言葉だったのだろう。
          エレミヤ書7章31節〜32節参照

          また、私が調べたところでは、死後の裁きの場所としてこの言葉が使われる。
          「殺したあとで」 と言っているのだから、この意味することを言っている。
          マタイによる福音書の例 : 5章22、30節、23章15節、33節

(私の思索)
イエスが指摘するパリサイ人の偽善とは何だろう。
手元の 「岩波」 の国語辞典で “偽善” を調べて見る。
  「本心からでなく、うわべをつくろってする善行」 と書いてあった。

聖書時代のパリサイ人は、うわべをつくろうために、何らかの行動をとったのだろう。
例えば11章37節で 「食事をいっしょにしてください」 と言ったときに、イエスを尊敬したので御馳走を振舞いたいのではなく、何か不純な動機があったというのでしょう。

それが、38節の 「食事前のきよめの洗い」 問答に現れており、53節、54節にも現れていると読めないだろうか。
しかし、12章2節、3節に対する聖書の補足欄では、 「メシアの秘密」 として補足してある。

従って、善であれ悪であれ、 「隠されていることは、いつか顕わになる」 と捕らえておきたい。

ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方とは : 聖書がいうところの 「神」 であり 「主」 であろう。

(私の感想)
自分自身の偽善から逃れるのは難しい。しかし、偽善は自分自身を偽ることにつながるので、どうしても避けたい。

「隠されているものは、知られる様になる。」 を前提に考えると、自分の悪、自分の罪から熱心に避けねばならない。
しかし、それでは恐ろしいほどの消極的人生になりそうだ。
「人間達を恐れるな。」 ということも簡単ではない。

だから積極的に、イエスの要求に応答したい。
だから “私” ではなく、 “聖霊” の助けが必要だ。







2007/04/25 23:44:37|聖書
激しい敵対行動
イエスが、パリサイ人や律法の専門家たちに対して厳しい批判をした結果、イエスに対する激しい敵対意識が表面化してくる。

ルカによる福音書 11章です。

(律法の専門家は、細かい規定を大切にして、“なぜその規定があるのか“ を無視した)52節

(律法学者、パリサイ人たちのイエスに対する激しい敵対行動が始まる)53節

(イエスに、言いがかりをつけようと、ひそかにはかった。)54節

(私の聖書の解説欄から)
知識のかぎとは : 知識に至る門戸を開くかぎ、の意味。

(私の感想)
イエスの言葉 (聖書の言葉と言い換えても良いようです) は、人々を分離させるということを聞くことがあります。
言葉を聞く態度によって、人々の人生が別れていくというのです。

聖書の世界を道に例えるなら、絶えず “Y字路” の連続のようです。
一つの道は神に近付く道で、他の道は神から離れる道です。
中途半端な道を用意していないようです。

あえて中途半端を探すなら、その “Y字路” で立ち止まること位か。

右折・直進・左折・右斜め・左斜め等の多様な分岐ではないようです。
私自身について言えば、神に近付いたり離れたり、うろうろしているのかもしれない。

パリサイ人や律法学者は、ひそかに相談してイエスから更に離れる道を選ぶようだ







2007/04/24 16:42:46|聖書
真意はかくれたまま
ここも又、難解だ。
今までに、説明を聞いたことがなかったのも、不思議だ。
書いてあることは読めるのに、イエスの意図が読みにくい。

一つの手がかりは、 「49節の使徒たち」  が殺されるのは、 「使徒の働き」 の時代にならないとありえない。

二つ目の手がかりは、 「ある者を迫害する」 49節 と 「その責任を問われる」 51節 だ。

この二つのとも未来形だから、聖書記者の意図は、過去のことに触れながら、「イエスは、今後のことを論じているのです。」というアドバイスが見え隠れする。

三つ目が 「51節の、この時代」 という用語だ。
2007年も 「この時代」 に含まれる可能性があるということだ。
ルカによる福音書 11章です。

(彼らは、預言者や使徒のうちのある者を殺し、ある者を迫害する。)49節

(すべての預言者の血の責任を、この時代が問われる)50〜51節

(私の聖書の解説から)
アベルの血から・・・ザカリヤの血に至るまでとは : アベルの死は創世記に、ザカリヤの死はヘブル語聖書の最後の書である歴代誌第Uに記されていることから、聖書に出てくる最初の殺人から最後の殺人までとの意味。

アベルの血 : 創世記4章8節
ザカリヤの血 : 歴代誌第U 20〜21節にゼカリヤとして書いてある。

(私の今日の読み方)
49節はほぼそのままで受け取りたい。
即ち、現代から見れば 「神の知恵」 はその時代に言ったのだが、既に 「使徒たちを彼らに遣わし」 ておられ、 「使徒の働き」 の時代にパウロやペテロが殺され、他の使徒や信仰者が迫害されたように、その言われた言葉が現実になっている。

50〜51節は、聖書の中心テーマに関連する重大問題だと思う。

まず、文字通り、世の初めからすべての預言者のいのちを奪った責任を 「この時代」 が問われる。
目の前にいるパリサイ人や律法学者が、責任を問われるという。

自分の行動に関係ない昔の事柄まで、なぜ責任が問われるのか。

おそらく、イエスの視点は、神を愛し隣人を愛する 「愛の実質」 において、あなた方と預言者を殺害した先祖は同じ様に遠く離れていた。

だから「この時代」 の 「愛の実質」 という責任が問われる時が近づいていますよといっているのではないか。

(私の思索)
イエスはこの話をしているとき、人々の責任の全てを御自分のいのちで肩代わりしようとしている。

但し、イエスによる肩代わり (正しくは “贖い” ) を信じる者に対してだけ肩代わりが実現するのだ。

イエスの人々に対する愛が激しいゆえ、人々が神から離れた状態 (罪) に対する批判も激しいのだと思う。







2007/04/23 14:17:26|聖書
論旨がさっぱりだぁ〜
あぁ〜
書いてある文字は読める。
しかし、論旨がさっぱりわからなぁ〜い。
ムゥ〜。ふぅ〜。
ルカによる福音書 11章です。

(墓を建てている者の先祖が、その人を殺した。・・・・?)47節

(先祖が殺した人の墓を、子孫が建てる・・・・・・?)48節

(私の感想)
正直、私には理解できない部分ですが、おぼろげに感じるままを書いておく。
イエスは、墓を 「汚れと絶望の象徴」 として捉えて、発言しているのではないだろうか。

もし、墓を「汚れと絶望の象徴」として捉えるなら、イエスの発言は次のようになる。

あなたがたの先祖は、神に立ち返っていのちを得るようにと預言者たちを送ったのに、その心が汚れと欲望に満ちたままであったため、預言者たちを殺したのです。

それで、あなた方の先祖は、内側が絶望のまま過ごし、ますます、見えるところだけを繕ったのです。

そして今は、あなた方が「汚れと絶望の象徴」を大切な記念として建てているのです。

しかも 「預言者の」 という名目によって見えるところを繕うのです。

ですから、あなたがたは、自分の先祖のしたことの証人となり、それを認めていることになります。

(少し、補足)
当時の埋葬は、横穴のような墓に、死体を布でぐるぐる巻いて寝かせるように置くものである。
それは、死後4日もすれば腐敗が進みくさくなる。

少し、つじつま合わせのような文章ですし、聖書の文章を別の文章に置き換えると基本的な誤りに陥る危険があるのですが、何らかの理解をしたいと思い、表現してみた。

ここも、先輩の指導が不可欠です。







2007/04/21 11:13:03|聖書
忌まわしいもの
イエスによる、パリサイ人への批判が続きますが、内容が難しい。
ルカによる福音書 11章です。

(十分の一を納めているが、公義と神への愛とはなおざりに)42節

(あなたがたは、会堂の上席や、市場であいさつされることが好きだが、内側は墓のようだ。)43節

(律法の専門家たち、あなたがたは、人々に負わせるが、自分は、さわろうとしない。)45〜46節

(御参考)
42節の 「十分の一」 について、私の聖書に次の補足がある。
地の産物の十分の一を納めることは、レビ記27章30節による。
律法では、穀物、果物、ぶどう酒、油の十分の一を納めることが要求された(申命記14章22節、民数記18章12節)が、律法学者はその範囲を越え、庭の小さな草木に至まで十分の一献納を要求した。

43節の 「会堂の上席」 について、私の聖書に次の補足がある。
会堂の前列または一般席と向かい合った役員席。その席に会堂管理者、来訪の祭司やレビ人、ラビなどが着席した。

44節の 「人目につかぬ墓」 について、私の聖書に次の補足がある。
たとい知らずにでも、墓の上を歩くと、その人は汚れる(民数記19章16節)。
パリサイ人は、人々が気付かないうちに律法に違反し、汚れるように仕向ける。

では、 「汚れる」 とはどういうことか。
衛生面の意味ではなく霊の視点から見たとき、好ましくない状態を指すのであろう。

(私の疑問と想像)
「これこそ、実行しなければならない事がら」 という「公義と神への愛とは」具体的に何を指しているのだろう。
この記事以前のパリサイ人が採った態度の中に、イエスに指摘される何かがあったと見るべきでしょう。
だとすれば、イエスによって 「不思議」 が行なわれたとき、素直に神を喜べなかった彼らの心が、神から離れている、即ち神を愛していないことを現しているというのかも知れない。

「公義」 とは何: 新共同訳聖書では 「正義の実行」 と訳している。
隣人に対する愛の行動を指しているのだろうか。
難しい。

(私の個人的感想)
パリサイ人に対する批判を、私が感じるイメージとして書くと、次のような内容だ。
彼らの外側は 「十分の一献納」 など立派に見えるのだが、その心や霊のレベルから見ると、神の愛から遠く離れています。
だから、実行しなければならないことが実行できないでいるのです。

律法の専門家に対する批判も、ほぼ同じ様に感じます。
律法を細かく調べて人々に教えるので、すばらしい人に見えますが、その心や霊のレベルから見ると、神の愛が分からないようです。
だから、実行しなければならないことが実行できないでいるのです。

私自身に対して、あなたもパリサイ人や律法学者のようになる性質を持っています。彼らではなく、私を見るようにしなさい。