イエスの話は、あえて抽象的で分かりにくい言い方をしているようだ。 私の文章を読むに方も疲れるのではないでしょうか。 ルカによる福音書 12章です。
(パリサイ人のパン種――偽善――に気をつけなさい)1節
(隠されているものは、知られる様になる。)2,3節
(人間達を恐れるな。 ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい)4,5節。
(私が持つ聖書の補足欄から) 2節、3節の隠されているもの、暗闇で言ったこと とは : イエスが話すなと命じられた「メシヤの秘密」9章21節(「神のキリストです。」)および9章45節(彼らから隠されていた)参照
4節、「わたしの友であるあなたがたに言います」 : 四つの福音書で、イエスが弟子を 「友」 と呼ばれる唯一の例。
ゲヘナとは : マタイ5章22節。エルサレムの南西にあるヒノムの谷のことで、 かつては人間が生贄として、殺された場所を言う。 当時の人々に理解され易い言葉だったのだろう。 エレミヤ書7章31節〜32節参照
また、私が調べたところでは、死後の裁きの場所としてこの言葉が使われる。 「殺したあとで」 と言っているのだから、この意味することを言っている。 マタイによる福音書の例 : 5章22、30節、23章15節、33節
(私の思索) イエスが指摘するパリサイ人の偽善とは何だろう。 手元の 「岩波」 の国語辞典で “偽善” を調べて見る。 「本心からでなく、うわべをつくろってする善行」 と書いてあった。
聖書時代のパリサイ人は、うわべをつくろうために、何らかの行動をとったのだろう。 例えば11章37節で 「食事をいっしょにしてください」 と言ったときに、イエスを尊敬したので御馳走を振舞いたいのではなく、何か不純な動機があったというのでしょう。
それが、38節の 「食事前のきよめの洗い」 問答に現れており、53節、54節にも現れていると読めないだろうか。 しかし、12章2節、3節に対する聖書の補足欄では、 「メシアの秘密」 として補足してある。
従って、善であれ悪であれ、 「隠されていることは、いつか顕わになる」 と捕らえておきたい。
ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方とは : 聖書がいうところの 「神」 であり 「主」 であろう。
(私の感想) 自分自身の偽善から逃れるのは難しい。しかし、偽善は自分自身を偽ることにつながるので、どうしても避けたい。
「隠されているものは、知られる様になる。」 を前提に考えると、自分の悪、自分の罪から熱心に避けねばならない。 しかし、それでは恐ろしいほどの消極的人生になりそうだ。 「人間達を恐れるな。」 ということも簡単ではない。
だから積極的に、イエスの要求に応答したい。 だから “私” ではなく、 “聖霊” の助けが必要だ。
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