イエスによるパリサイ人や律法学者に対する批判は、その都度書かれているが、この辺りからは抑え切れないかのように批判が強くなっている。 私の気のせいか。
この批判記事の論述は、37節に始まって54節まで続く。 あまりにも長いので、無理を承知でコマギレにする。 ルカによる福音書 11章です。
(イエスはパリサイ人の家で食卓に着く)37節 (食事前に――手を――洗わないので驚くパリサイ人)38節
(イエスの批判:皿の外側はきよめるが、内側は強奪と邪悪)39節
(イエスの批判:神は身体も心も作られたのを知らないのですか)40節
(内側をきよめなさい。そうすれば、いっさいがきよいものとなる。)41節
(御参考) 41節の うちのものを施しに用いなさい について、私の聖書に次の補足がある。 アラム語 「ダッキー」 を 「ザッキー」 と読み違えたギリシャ語訳と考えられるので、「きよめなさい」と修正して読むほうがよい。
「きよめの洗い」について、私の聖書に次の補足がある。 当時のパリサイ派、エッセネ派で厳守されていた「言い伝え」に属する。
(私が見たイエスの視点) その人の心の内側にあるものが 「強奪と邪悪」 なら、水や湯を使って丁寧に洗っても、その人の生活は神を愛するものにならないでしょう。 内側に “神の御心” を迎え入れなさい。 そうすれば、いっさいが、あなたがたにとってきよいものとなりますから。
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