小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/12/01 20:18:59|先週の礼拝から
生き方上手
芳賀  功 師のお話から   主要テキスト:ルカ7章18〜28節

今年もクリスマスの時期になってまいりました。
クリスマス商戦も始まっていますが、教会ではキリストの降誕の準備を致します。

T.マクドナルド司祭が残した
11月7日にアフリカ・マラウィ共和国のマクドナルド司祭が、メッセージを残していきました。
それは 「私の教会で教えている事は、天国に行くことだけが大切であるとは言いません。自分自身の生き方の答えを見つけるために、正しい生き方を聖書から教えます。」 と。
帰る途中の車中で、ルカ7章27〜28節を示して下さいました。
それはバプテスマのヨハネ(以下B・ヨハネと記す)の生き方であります。これを少し詳しく見たい。

U.B・ヨハネへの賛辞
ルカ7章24〜26節で、イエスは、群衆に、ヨハネについて話しだされ 「あなたがたは、何を見に荒野に出て行ったのですか。・・・・。」と三つの回答例を列挙しながらくりかえし質問し、最後に 「・・・・ 預言者よりもすぐれた者を・・・・」 と告げています。
更に27〜28で 「その人こそ、 『見よ、わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を、あなたの前に備えさせよう。』 と書かれているその人です。  あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。しかし、神の国で一番小さい者でも、彼よりすぐれています。」 と説明されました。(マタイ3章2節も参照)
B・ヨハネは、福音のため、神の国のために生きた人です。

V.賛辞の理由
イエスが、女から生まれた者の中で、B・ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいませんと言ったが、何を指しているのだろうか。
彼の生涯での二つの行動。
マタイ3章2節 「・・・・天の御国が近づいた・・・・」 と叫んでいること。
ヨハネ1章36節 「見よ、神の小羊。」 と言って、自分の弟子がイエスについて行くように仕向けていること。
この中に現れているのではないか。
即ち、あとから来る方、神から遣わされ方を指し示すかのように叫び、自分の弟子でさえも、自分の近くに留めようとしなかったという生き方を貫いたからである。
彼は、イエスを知らなかったころから、それまでの預言者たちが、経験も考えもしなかった福音宣教の準備に、生涯をかけたのである。
こうした心のあり方と生き方を、救い主(御子イエス)を遣わされた父なる神の視点からごらんになると、B・ヨハネよりもすぐれた人はいないのでしょう。

W.神の国で一番小さい者
ところが、これに続くことばに驚きます。
静かに思いめぐらしますと、イエスによって完成された十字架の贖いと復活の事実を、自分のものとして受け入れた魂は、深い静けさと平安の中にくつろぐという宝物を得ているので、その日常生活がおのずと十字架の贖いと復活の事実を喜ぶでしょう。
だから、神の国で一番小さい者でも、B・ヨハネより明確に、神による福音を喜びながら指し示し続けられるので、すぐれていると言われたのではないか。
だとすれば、地上生活において、何のために生きるのかということを、しっかりと持っていたB・ヨハネの生き方を私たちの模範とするのが望ましいと言えます。
多くのクリスチャンは天国のために一生懸命生きるのですが、福音の伝達という視点を忘れやすいのでしょうか。
この事に気付いて、悔い改めることができた人は、正しい生き方を見つけた人ではないでしょうか。
自分の心の中にしまいこんで、黙っていないでしょうか。

X.流されないように
この時代は、乱れた時代ですから、神に従う生き方をしなかったら、共に流されてしまうでしょう。
B・ヨハネもそういう時代に生き、救い主の道備えをしたのです。
生きる方法はいろいろあるでしょうが、あなたがたを生かしてくださっているのは誰なのか、たえず心にとどめつつ、B・ヨハネの生き方にならいたいものです。







2010/11/22 17:58:52|先週の礼拝から
神が望んでおられること
芳賀 富子 師のお話から   主要テキスト:Tテサロニケ5章16〜18節

私たちは自分が係わる人々に対して、こうあって欲しい・あの人が変わってくれたならと、自分のことよりも人に要求してしまうことが少なくありません。
神様は私たちに何を期待しているのでしょうか。
何を望んでいるのでしょうか。

T.いつも喜んでいなさい
16節、私たちは、嬉しいとき、感動を覚えたとき喜びます。
けれどもそうした状況は長く続くわけではありません。
英語のalways は、いつでも、いつまでも、永遠になどの意味があります。
ですから 「いつも喜ぶ」 この喜びはどのような状況にあっても周りのことに左右されない、人の言葉に一喜一憂しないもの、神様が共にいてくださることの喜び、神様が与えてくださる喜びです。

U.絶えず祈りなさい
ルカ18章1節 「いつでも祈るべきであり、失望してはならない・・・・」 と主は譬えを話されました。
ひとりのやもめが、神を恐れず人を人とも思わない裁判官の元に行き裁判を願ったのです。
取り合ってくれなかった裁判官ですが、やもめがうるさがられるほど、ひっきりなしに彼のもとにいき裁判を願い続けたのです。
そしてとうとう裁判官を動かし裁判をしてもらいました。
ルカ18章7節 「まして神は、・・・・いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか」 と求め続けることの大切さを示しています。
ですから祈りをやめないで、祈り続けることが必要です。
17節 「絶えず」 とありますが、祈りを聞かれるお方とどのような関係に自分自身を置くかが大切です。
私たちの心・思い・気持ちを、イエス様に、折りあるごとに向けること、み言葉の約束を手離さないことが、鍵ではないでしょうか。

V.すべての事を感謝しなさい
「すべての事について、感謝しなさい。」 と18節に記されています。
私たちは受けること、要求することは熱心であっても、感謝することは案外忘れてしまいます。
コロサイ3章15〜16節 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。・・・・また、感謝の心を持つ人になりなさい。
キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、・・・・感謝にあふれて心から神に向かって歌い・・・・。」 呟きや不平不満が多くなるとき、心はどのようになっているのでしょうか。
自分にないもの・足りないものを数え、失われてしまったものに思いが支配されるときではないでしょうか。
「キリスの平和」」 ・ 「キリストのことば」 が私たちの心を支配しているとき、自分に与えられているものと自分ができることに気づき、感謝の思いが与えられるでしょう。

W.キリスト・イエスにあって
神が望んでおられることを、私たちができるのは、自分の力ではありません。
イエス様によって・主にあってなのです。







2010/11/17 13:40:42|先週の礼拝から
キリストの平和
マラウィ共和国マクドナルド司祭  主要テキスト:ヨハネ14章27節

T.挨拶
私はアフリカ・マラウィ共和国・ゾンバという町の聖公会司祭です。
本名はジャラ・バンダと申します。
私には三人の子供がおります。
来日して9月に三人目の子供が生まれました。名前は日本語でノリコをつけました。

U.来日の目的
マラウィを代表して、日本の有機農業を学ぶためにやってまいりました。
それは母国にその農業を伝えるためであります。
私の国の問題は貧困です。
私の教会に教えていることは天国に行く事だけが大切であるとは言っていません。
教会というのは、自分自身の問題に対する答えを見つけるところであると教えています。
私はHIV感染患者や農業で悩んでいる人と交わりをもっています。
従って日本の農業を学べる事に深く感謝しています。

V.キリストの平和(平安)
今日のメッセージは、キリストからくる平和(平安)についてお話します。
イエスは言います。
「私があなた方に与える平和(平安)とはこの世が与えるものではない。私の平和(平安)をあなた方に与えます。」
イエスはなぜこのように言ったのでしょうか。考えて見ましょう。
私たちは平和(平安)を求めますが、それはどこにあるのでしょうか。
私の教会では 「平和があるように」 と互いに挨拶を交わします。
アジア学院で日本の方との挨拶は 「いってらっしゃい」 と言い、それは平和のうちに、また安全があるようにとの意味が含まれています。

W.マラウィの歴史と平和
私の国では、人々が奴隷状態という時期がありました。
そのころアラブ人が来て人々を捕らえて外国に売り飛ばしたので、苦しんだのち平和(平安)をさけび求めました。
そののちイギリス人がやってきてアラブ人に代わり植民地として支配を致しました。
平和(平安)が来ると思いましたが、差別問題が発生して平和(平安)ではありませんでした。
私たちは独立を求めました。
そしてようやく独立したとき、これで平和(平安)が来ると思いましたが、平和になりませんでした。
人々が民主主義を求めたからです。
そして多くの人が逮捕され殺されました。
そして平和(平安)を求めて叫びました。
民主主義の政治になったときでも平和(平安)にならず問題が起きました。
政治腐敗がでてきたからです。
エイズと貧困が今もあります。
学校も足りないために、野外のクラスを持っています。
食料(パン)を提供したらどうかと言い、事実そのように致しました。
でも平和(平安)はありませんでした。

X.日本の姿
私が初めて日本に来た時に豊かな状況を見て、ものすごく興奮しました。
こんな豊かな国では苦しんでいる人はいないだろうと思いました。
そして日本はこんな美しい国だから貧しい人はいないだろうし、平和(平安)だろうと思いました。
しかし、日本では自殺者が年間で3万人もいるということです。
物質的には豊かであったとしても、心が病んでいる人々が多くいることを知らされました。
ですから日本にも平和(平安)はありませんでした。
それは人々の間に争いがあるからです。

Y.イエス・キリストによって
イエス様は、 「あなたがたに私の平和(平安)を与える」 と言いました。
お金でもパンでも与えられなかった平和(平安)です。
民主主義も独立制も与えられなかった平和(平安)です。
富裕な人が与えられなかった平和(平安)です。
ですから 「私の平和(平安)を与える」 と言いました。
私の魂(心)のあるところに心の平和(平安)があるといいました。
イエス・キリストのいるところに心の平和(平安)があります。
その心の平和(平安)はイエス・キリストを楽しんでいるのです。
イエス・キリストによって平和(平安)を受け取りましょう。







2010/11/15 14:39:47|先週の礼拝から
主のことばを喜ぶ
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:使徒13章48節

アフリカ、マラウィ共和国から10月4日に帰国して第二回目の報告とメッセージになります。
涙と感動の場面がありましたので、それをお話させていただいてメッセージに代えさせて頂きたいと思います。

T.私に与えられたことば
一日目の聖書贈呈活動を終えたあとのミーティングのおり、黙想中の私に与えられたみことばは、使徒13章47〜48 「 『わたしはあなたを立てて、異邦人の光とした。あなたが地の果てまでも救いをもたらすためである。』 異邦人たちは、それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。そして、永遠のいのちに定められていた人たちは、みな、信仰にはいった。」 でした。
アフリカにおける活動は、先に米国で起きた“コーラン焼き捨て事件”にまつわる精神的負担と肉体的負担が厳しく、辛い18日間でしたが、ケガや病気に遭うことなく、無事帰国できて、本当に感謝でした。
あれから1ヶ月が経ちましたが、あの地での神様の御業と学んだ事を先ず教会に伝えたいのです。

U.奪い合うかのように
第一は、学校での贈呈を済ませたのち、聖書を背負って町に出かけたとき、一人びとりに手渡しする予定でしたが、持っている聖書を奪い合うように持って行かれるのです。
喜びながら受け取った少年が別の人にとられたらしく、再び両手を差し出してくるという具合です。
だから準備した聖書はすぐになくなります。
しかし、イスラムのねたみを買ったようで、“聖書の焼き捨て”がおきたことを、帰国後届いた現地のギデオン・メンバーからのメールで知らされました。
48節のように喜んで聖書を受け入れる人々が多くなると、その陰で、45節のように、いつの時代でもねたむ人々が起きてくるのでしょう。

V.一人の夫人の証詞
牧師愛餐会の席上で、ある現地夫人の証詞を伺いました。
その夫人の友人が、教会だと思って聖書を求めに行ったら、そこはべつの宗教でした。
入信を条件に聖書ではなくパンを提供されました。
でもパンを受け取らずに聖書を要求したそうですが、口汚なくののしられたそうです。
友人から聞いたのは、耳を疑うようなことばで悲しかったようですが、愛餐会席上で語られたTコリ13章3〜4節のことばでいやされたそうです。
この夫人は真実の愛がほしかったのでしょう。
イエス様は荒野でサタンによって試みにあわれたとき、40日間何も食べずに、これ以上続くと死ぬという極限状態でした。
マタイ4章4節は、「イエスは答えて言われた。『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』と書いてある。」と伝えています。このことばで夫人はさらに慰められたそうです。

W.認識の変化
前述のことばについて、私はアフリカに行くまでと帰国してからでは認識が変わっていました。
“人が生きるのはパンも必要だが、神のみことばも必要だ”と理解していましたが、この時、イエス様ご自身は 「人はたとえパンがなくなったとしても神を信じて生きるんですよ。」 と言っていると思えるのです。
「人はパンがなくても神のことばで喜んで生きられる。」 という夫人の証詞とその友人の行動が、そう言っているのです。
これがアフリカでの体験で言いたかった事の1つです。

X.私が受けた恵み
第二は、使徒13章45〜46節で、ユダヤ人のねたみに因るつまづきが、48節では 「・・・・・それを聞いて喜び、主のみことばを賛美した。」 と賛美があります。
マラウィの新しく信仰をもった人々のように、みことばを信じ受け入れるか、富んでいる日本にいてみことばを退けるのか、選択と決断を問われているような気が致しました。

X.結び
人は荒野に置かれた時に神に出会い、神は(心の)荒野さえ恵みの場所に変えられます。
エレミヤ31章2節に 「・・・・・・民は荒野で恵みを得た。(与えられた)」 とありますが、あの貧しい国マラウィのどこに希望があるのでしょうか。
聖書の神は、私たちに生きる希望と喜びを与えます。
荒野という人生の過程で、聖霊の助けによって、みことばは私たちを造りあげてくださり、信仰を成熟させて下さるからです。







2010/11/01 20:28:32|先週の礼拝から
あわれみ深い者
中林篤朗師のお話から    主要テキスト:マタイ5章7節

T.私は「あわれみ深い者」でしょうか。
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」(マタイ5:7 新改訳3)
そうおっしゃったのはイエス・キリスト。
主イエスがおっしゃる 「あわれみ深い者」 とはどういう人のことでしょうか。
最近の明るいニュース。
8月5日に南米チリのサンホセ鉱山落盤事故で地下700メートルに閉じ込められた33人の救出。私たちは鉱山に閉じ込められたニュースを聞き、その人たちが早く救出されるように願います。けれども、だから私は「あわれみ深い者」でしょうか。

U.自分に敵対する人にもあわれみ深い人
主イエスのおっしゃる 「あわれみ深い者」とは。
良きサマリヤ人の例え話。 「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。彼は言った。 「その人にあわれみをかけてやった人です。」 (ルカ10:36、37)
強盗に襲われ、虫の息になっていたユダヤ人の旅人を助けるのは、ユダヤ人と敵対関係にあるサマリヤ人。
義務も義理もないのに、自分の危険も顧みず介抱する。
宿屋に運んでお金を出して、宿の主人に世話を頼む。
ただ  「かわいそう」  に留まらずに行動に出ています。
この例え話、それは律法の専門家の問いへの答え 「私が愛するべき隣人とはだれ」 という問いへの答え。
それは 「あなたの敵をも含めた人のことです。」 が主イエスのお答え。
主イエスがおっしゃる  「あわれみ深い者」。
それは自分の敵である人にもあわれみ深い人のことです。
私たちはどうでしょうか。

V.自分に罪を犯した人を赦す人
主イエスのおっしゃる 「あわれみ深い者」 とは。
無慈悲なしもべの例え話。
「悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。」
(マタイ18:32、33)
王様に返しきれない負債を負うしもべ。
借金返済の猶予を懇願する彼に、王様はかわいそうに思い、赦し、借金を免除する。
その借金を免除された彼は王宮を出ると、いくらか貸しのある仲間に会う。
たった今、巨額の負債を赦してもった彼なのに、仲間の借金を免除するどころか、捕まえて牢に。王様は悲しみ、怒り、無慈悲なしもべも牢に入る。
この主イエスの例え話、それはペテロの質問への答え。
「あわれみ深い者」 、それは自分に罪を犯した人、自分に不利益をもたらした人を赦す人のことです。
私たちはどうでしょうか。

W.あわれみ深いキリスト
私たちは歴史上、もっとも 「あわれみ深い者」 を知っています。
それは 「あわれみ深い者は・・・」 とおっしゃった主イエス・キリストご自身です。
苦しみ、悩み、悲しむ人々・・・、主イエスは、その人たちの問題を他人事となさらなかった。
それはあなたのせいだ、あながたが悪いからだ、そうではなかった。愛された。
ご自分に求める人たちを癒し、励まし、真実を語られた。
主イエスの私たちへのあわれみの究極は十字架。
神の御子キリストは、神に敵対する私たちの背きの罪の身代わりとなられた。
私たち一人ひとりの苦しみを、悩みを、悲しみを、ご自分の問題とされ、それを負われた。
そして天国に続く永遠のいのちの救いをもたらしてくださった。
主イエス・キリストは、私たち一人ひとりに本当にあわれみ深いお方。
キリストのあわれみを知り、それを受けた私たちは、神様の子です。
私たちも聖霊なるお方によってあわれみ深い者に変えていただきましょう。
神様の恵みとあわれみの福音を、まだそれを知らない人たちと共に分かち合う私たちでありましょう。
私たちはこれからもずっと神様の恵みとあわれみを、ずっと受け続けるのですから。
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」 (マタイ5:7 新改訳3)