小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/10/30 17:24:15|先週の礼拝から
主の試みに会って
中島總一郎 先生のお話から  主要テキスト:箴言19章21節

1.人生における三つの「場」
人は誰でも生きている間に三つの 「場」 を迎える。
土壇場、踊り場、正念場である。
土壇場は何の準備もない所へ突然やってきた絶体絶命の危機である。知恵と勇気が問われる。
踊り場は逆境の時である。誤解、妬み、中傷などによる。その人の忍耐力と柔軟性が問われる。切り抜けるポイントは、静かに待つこと。この時を活かして力を蓄えることである。
正念場は実力を発揮する時である。使命を果たす時である。その人の真価が問われ、その後の人生展開も決まる。
以下、N氏が経験した踊り場を題材として、信仰者の決断と神の不思議をみていく。

U.N氏の試練の意義
N氏は踊り場に立たされ、 「全てを捨ててでも主に従うか」 を試みられたが、その試みで、(1)自分の信仰が何かを確認し、深められた。(2)きよめを受けた。

V.試練の発端
N氏は教会開拓伝道の使命が与えられ、母教会からその委員長を任命され、1年5ヶ月後に献堂して、伝道を始めた。
祈りが聞かれた嬉しさから、会堂の写真を撮り勤務先で証詞した。
それから一年後、若くして取締役に選任された。
N氏の働く姿勢は、エペソ6章5〜8節によっていて、キリストの僕として陰日向なく一生懸命働いた。
取り組む心構えは、
@役職の一段階上の仕事をする。
A配属先ごとにその部門のプロになる。
B仕事は与えられるのは待つのではなく、有益な仕事を探し出して創始する。
C会社の財産になる成果を残す―を貫いてきたのである。

役員就任挨拶のため社長宅へ伺ったとき、厳命を受けたのである。
「教会に打ち込んでいるそうだね。教会を建てたというじゃないか。経営は命懸けでやるものだ。それほど教会に熱心と知っていたなら、役員に選ばなかった。二兎を追う者は一兎をも得ずだ。会社をとるのか教会をとるのかどちらかにしてくれ。・・・・」
N氏の心は暗闇の路頭に迷ったかの様であった。
仕事をとれば、仕事を通して神の栄光を現わせとの召命がなくなる。教会をとれば栄光を現わす場がなくなる。愛を知った者に 「わたしを愛するな」 と言われても、それはできない。

W.試練の受け入れ
二者択一の要求は何を意味するのか。
経営を甘く見たら大怪我をする。
現に父親が倒産して、N氏自身も少・青年時代に辛酸をなめてきた。
しかし、N氏には信仰があるからこそ私心を捨てて仕事に熱中してこられた。
仕事も信仰も両方必要である。
アブラハムが一人息子イサクを燔祭として献げよと要求されたことを思い出した。なぜこんな矛盾と残忍性を含んだ試練が自分に与えられるのか。
なぜだ と問うても答えはこない。
――神は、その人が神第一に生きる信仰を持っているかどうかためされる時がある。――N氏は、これが試みであるならば 「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えて下さるであろう」 (口語訳・創世22章8節)し、結末は神が責任を取ってくださるであろう、との信仰に立ち、すべてを神に委ねたのである。

X.試練の経過
その結果は、内・外すべての仕事を干され、電算機械室へ入れられた。
祈りと忍耐の日々が続いた。
N氏はこの試練で二つのことを知った。
@この世では私にはあなた(キリスト)以外にはない。A自分はキリストとのかかわりを通してのみ存在する。
@については、マタイ15章21〜28節、カナンの女の必死の叫びに、冷酷と思えるほどのイエスの拒絶。
これは、苦しみの中へ放置して、自分が何者なのかを見直し、真の礼拝へ導くためであった。
彼女は言う。 「(そうは言っても)しかし」 、 「主よ私をお助け下さい(私にはあなた以外にはないのです。)」 
Aについて、マグダラのマリヤは、葬られたイエスの死体がなくても墓から帰れない。
なぜなら、今までイエスに対する愛とかかわりによって生きてきたからで、イエスなしの自分というのはあり得ない。
N氏も同じだった。
イエスと共に歩んできた自分を否定したら、N氏はN氏でなくなってしまうのです。
暗黒の中に主は現れて言われる 「なぜ泣いているのか。(私はここにいるのに)誰を捜しているのか」 と。
捜す方向を変えて振り返ったら、イエスはそこにおられたではないか。
N氏は強要する社長のために祈った。
「私へのこの仕打ちによって審きが下りませんように」 と。
一番苦しんでいるのは迫害されている人ではなく、迫害している人だから。
イエスも言われた、 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」 (マタイ5章44節)と。
キリスト者に委ねられていることは、善悪を明確にすることではない。
「善をもって悪に勝つ」 (ローマ12章21節)ことである。

Y.奇跡と復活
二者択一を迫られてから苦しい日々の8ヶ月が過ぎていた。
役員昼食会の席上で、社長が 「机の引き出しを整理していたら、こんなものが出てきた」 と、21年前の社内報を見せた。
入社間もなくのN氏の証詞が載っていた。
総務部から、なぜ働くのか書いてくれと乞われてのものであった。
そこには、 「生きるとはいかに愛するかということ、愛するとはいかに生きるかということ」 で始まりコリント前書13章(口語訳) 「・・・・もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、・・・・・愛はいつまでもたえることがない。」 で終わっていた。
それから三日ほどたって、N氏は社長室に呼ばれた。
用件は 「君にはもっと大きいことをしてもらわねばならないね」 であった。
品質管理担当役員を命ぜられ、社外活動にも戻った。
N氏は奇跡だと思った。
なぜなら
@最大の試練の最中に出てきた資料だ。
A社長自らの手によって、目に留まった。
B21年も前の証詞である。
Cみことばが真実を伝え、心を動かしたからである。

Z.結び
この事を通してN氏は多くのことを学んだ。
神に忠実に従う者へは、神が全責任をもってくださる。
神はきよさにあずからせるために、試練を与えられる。
信じない者には何の不思議も起らない。しかし信じる者には、御言葉が事件となり、その人の上に成就する。
例えば(箴言19章21節→口語訳) 「人の心には多くの計画がある。しかし、ただ主のみ旨だけが堅く立つ」 などである。







2010/10/19 20:47:26|先週の礼拝から
福音宣教の責任
芳賀  功 師のお話から   主要テキスト: ローマ1章13〜15節

私は国際ギデオン協会の主催で行なわれたアフリカのマラウィ共和国への聖書の共働贈呈による宣教活動に行ってまいりました。9月16日から19日間です。

T.国際ギデオン協会の要請と宣教の責任 
目標はマラウィの国内約120〜150の町や村、そして主要都市に聖書を配布して、人々をイエス・キリストの救いに導くことの一翼を担うことです。
私は、アメリカの国際本部からこの活動に参加するようにとの依頼をうけたとき、気がすすみきませんでした。
それは、南米のコロンビアで類似の奉仕をしたときの労苦を思い出したこと、マラウィの感染症や治安状況のこと、71歳という自分の年齢のことなど、不安要因があったからですし、アフリカのマラウィという国を知らなかったからです。
こんなあるとき、ローマ14節 「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、・・・・・・負債を負っています。」 (口語訳では 「果たすべき責任」 )が、心をよぎるのです。
少し位の苦しさがあったとしても、私には返さなければならない愛の負債を、いつも心に感じるのです。

U.経済的貧しさ 
成田空港を出発し、翌日アフリカの地、マラウィに到着しました。
アメリカをはじめ、カナダやドイツ、フィンランド、オーストラリヤなど、私を含め23人のギデオンを乗せたバスの窓から見える光景は、どこまでも除草剤でもまいたかのような茫漠とした荒野でした。
かんばつ(水がれ)だったからです。
行く先々で出会う子供達は裸足で、握手をする手はつめたく、栄養不足児のようにおなかが膨らんでいる。
ひどいインフレで食料さえも満足に手に入らないからだそうです。

V.返すべき負債 
ところで私のいでたちは、英文字の入ったリックサックとギデオンキャップです。
団長のジャック・ルデイさんは、
「特にねらわれて命をおとすかも知らんですよ」 と言われます。
しかし、どんな危険があろうともパウロが言うように、私にとって 「返すべき負債のため」 の行動にほかならないし、私には、恵みの何分の一程にも責任をはたしているとは感じられないからです。
私はキリストによって、今は亡きS兄から、あの借金をめぐんでいただいたのですから、キリストに在って返済しなければならないのです。
そのつもりでアフリカまで来ているという思いが強かったのであります。

W.聖書を求める人々 
福音宣教に国境はありません。
どんなに未開人であろうが、肌の色が違おうが、福音に与った者の責任は変わりありません。
全世界でまれに見る貧しい国マラウィ共和国。
おもに貧しい人々を対象に活動を拡大しているイスラム。
競争するかのように活動するカトリックの努力が現地の建物に見られる。
しかし、経済的貧困ゆえ聖書がない。
聖書を渡しながら、なぜこんなに聖書を求める人が多いのかといぶかる程だ。
老若男女を問わず、我もわれもと手を伸ばしてくる。
その顔は一様に喜々として人なつこい。

X.神のあわれみ 
膝を付いてうやうやしく聖書を受け取る姿に接したとき、感動を覚えました。
マタイ4章4節 『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。』 を、その背後に見せていただいたのです。
神は全ての人々を愛して救われることを望みます。
そのために御子イエス・キリストをこの世に与え、私たちの罪を贖われました。
この神の愛を全ての人に知らせなければなりません。
それを知らせることが負債を負うというものです。
短い期間ではありますが、軽いストレスをかかえながら、福音宣教の働きの一端に参加できたことは神のあわれみでした。
日本において飽食の国にもかかわらず、みことばが生きるためのエネルギーになっていないことが残念ですが、アフリカの爆発的人口増加という環境で、貧困の苦しみを超えた明るい人々に出会えたのは、神のあわれみでした。







2010/10/11 20:49:02|先週の礼拝から
かけがえのないあなた
久保昌子 師のおはなしから  主要テキスト: マルコ10章46〜52節

私たちの人生は、人と人との出会い、相互関係で成り立っています。
それがいわゆる社会です。
その社会から際立って孤立している人について、マルコ10章46〜52節をもとにお話します。

T.バルテマイの孤独
46節、彼は盲人で道端にすわり、物乞いをしていました。
道端は彼の生活のベースです。
成り行き任せの人生、世の中に目的もなく蠢いているいわばドンジリの人生。
心の痛みも悲しみも、もう当たり前になっているような毎日。
疲れた心を引き摺って生きている彼の顔。
どこに慰めがあるでもなく、誰も知らない心の悲しみをかかえて道端にすわるバルテマイ。
彼の孤独がこの一行に凝縮されています。

U.バルテマイの求め
47〜48節、ある日、いつもとは違う人の流れを感じた。
ルカ18章36〜37節、ナザレのイエスがお通りになるんだよ。
今、お通りになる!この今を逃したら二度と再びチャンスはめぐってこない。
人生はたった一度のチャンスというものがある。
バルテマイのこの時がそれである。
「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」心の深いところに眠っていたバルテマイの求めが、多くの者の厳しく咎めて非難される中で、ますます叫びたてた(求めた)のです。

V.バルテマイの救い
マルコ10章49〜52節、群衆のざわめきの中でイエス様はバルテマイの声を決して聞き逃されなかった。
「あの人を呼んで来なさい。」 といわれたのです。

さて、彼がイエス様のもとに行ったステップを辿ってみましょう。
(a)上着を脱ぎ捨て 自分の生きざまの全部をそこにおいて、人生のさみしさ・悲しさ・辛さの一切を捨てた。
(b)すぐ立ち上がって(躍り上がって)バルテマイがこれまで生きて来た人生で一番嬉しい瞬間。
イエス様にありのまま投げ出す時、道が開かれる。
(c)イエスのところに来た。50節、自分は救われなければならないという強い思いが、イエス様と叫ぶ彼の姿の中に見える。
「私に何をしてほしいのか」 イエス様は彼に迫ったのです。
「先生。目が見えるようになることです。」 と、初めて本当の心の求めを言葉にしました。
その真実でひたむきな求めの故に、肉眼が開かれたと同時に、霊の目が開かれ、イエス様を正しく見ることが出来る最高の恵みに与ったのです。
イエス様はあなたの信仰だと言われ、主の力を引き出す鍵は信仰であることを明確にされた。

W.結び
ヨハネ3章16節、ひとりとして失われていい人はいない。
一人として滅びていい人はいない。
人の人生は無駄になっていいはずがない。
ひとり子をこの世に遣わされた目的、十字架で 「完了した」 と言われ、よみがえって下さった。
主イエス様を信じるだけで救われる道が開かれた。
バルテマイは、暗闇の人生から一転し、光の人生へと移された。バルテマイを変えてくださるイエス様は、どんな罪でも赦すことができるのです。
赦したく願っておられます。
バルテマイのように、ありのままにイエス様のところへ行く。
その瞬間に新しい喜びの人生が始まるのです。
何と驚くような恵みでしょう。







2010/10/07 7:26:11|先週の礼拝から
主は生きておられる
戸川偕生 師のお話から  主要テキスト: 箴言19章21節

今朝は、なぜ自分が牧師となったかについて証を致します。
それは自分が願っていたことではなく、神様が導かれたこと、主の不思議な御計画が父と私の上に示されたのです。
教会は創立60周年になります。

T.父のこと
父は小学校の時、有島武朗の息子の一人と同級生で、大変仲良しでした。
有島武朗の人物に触れ尊敬していました。
その人が愛人と心中した事件でショックを受け、人間とは、人生とは、一体何なのかと悩みだしました。
母親は心配して華厳の滝で自殺した藤村操のことを話し、自殺に追い込まれないようにと思いました。
ところが父は、藤村の 「厳頭之感」 を読み共感し、自殺を決意したのです。
華厳の滝の近くまでいったが警察官に止められました。
その後親戚のクリスチャンによって淀橋教会の集会に導かれました。
説教は分からなかったが、 「大いなる喜び」 という讃美歌に心が留められ、そのような人生があるのかと教会に通うようになり、やがて洗礼を受けたのです。
事業家として志を持っていたが、献身の道に導かれ、神学校を卒業し、淀橋教会で奉仕をしました。
戦後、不思議な主の導きで、今の鎌倉の地で開拓をすることになりました。

U.私のこと
私は、将来牧師だけはなりたくないと決心し、サラリーマンになりました。
22歳のとき受洗、仕事は順調でした。
14年前、教会に導かれてきた方に 「信じているだけではだめだ、きよめを体験している人が本当の信仰者だ」 と言われました。
自分の中に時々信仰者らしくないところがあり、聖書の通りに生活していく事の、苦しさ、厳しさを、思い知らされました。それから 「私をきよめて下さい」 と祈り始めました。
1998年6月の礼拝、ヨハネ18章25〜27節を示され 「おまえも私を裏切っているではないか」 との声が心に響いたのです。
心からの悔い改め、心の底にへばりついていたヘドロみたいのものがはがれて、水面に浮いたようなすっきりした体験をしました。
祈りは答えられ平安と開放感が与えられました。それまで父を批判していましたが、父のために祈れる者に変えられました。
自分の人生も神におまかせしますと告白できました。

V.献身への道
 仕事のことで係わっていたクリスチャンでない方が 「君は神学校にいって牧師になりなさい」 と会うたびに1年以上も同じことを言われました。
この方の背後に神様の働きを示され、働きながら学べる神学校へ2001年4月に入学しました。
2003年3月、会社の倒産、整理、卒業後教会の牧師に任命されました。
その年の5月9日聖日、主任牧師の父は体調をくずし天に召されたのです。

W.神のなさることは人の思いを越えています

父も私も神に召され牧師になりました。
かつて私はセールスマンとして金を儲けるため、自分のために生きて来ました。
今は、キリストのセールスマンとして、一人でも多くの人に永遠のいのちをもって頂くためにと願っています。
箴言19章21節 「主のはかりごと・・・・」 とは神のご計画です。
救いの計画です。
一人でも多くの人の救われることを願って父を召し、私を召しました。
神のご計画のために、今ここにいるのです。
それぞれに役目があります。
やがて神の前に出て、マタイ25章21節 「よくやった。良い忠実なしもべだ・・・・」 そのようなことばを頂きたいと思います。







2010/09/27 15:21:35|先週の礼拝から
見えないものにこそ目を留めて
芳賀富子 師のお話から  主要テキスト:Uコリント4章16〜18節

第2コリント4章18節のみことばは、私たちの目をどこに向けるべきかを示してくれます。

T.見えるもの
私たちの毎日の生活は、物質的な豊かさの中で見えるものに囲まれています。
ともすると見えるものの魅力に翻弄されてしまうこともあります。
目から入る刺激、誘惑も少なくありません。
マタイ7章3〜4節のように、肉眼は開いていても、自分自身の本当の姿が見えないのです。
Uコリント4章18節は、 「見えるものは一時的であり・・・・」 と断言します。
一時的であるとは、長続きしないという事です。
見えるものは変わっていき、変質していきます。
ですから見えるものを求め、そこに拠りどころを見いだそうとしていると、やがて失望させられます。

U.見えないもの
見えないからという事で、何もないとは言えません。
「星の王子さま」 という本に“大切なことは目には見えないんだよ”と記した一文があります。
また、コロサイ1章15節には 「・・・・御子は、見えない神のかたち・・・・」 とあります。
私たちの目は、罪の故に歪み、おおいがかかってしまったわけです。
本当に見るべきものを見るためには、神様の目を与えて頂かなければならないのです。
マタイ5章8節 「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るから」 とあるように、罪赦されたものは、新しいいのちを与えられます。
それは神の目を与えられた事でもあります。
神様が喜ばれるいのちの使いかた、生き方が見えるようになるのだということです。
みことばの中に神を見る事ができるとき、大切なことは何かを知らされます。

V.この宝
第2コリント4章7節 「私たちは、この宝を、土の器の中に入れている・・・・測り知れない力が神のもの・・・・」 私たちはとかく外側の器を問題にします。
器が大きいか、立派か、価値があるかと。
コロサイ2章3節、 「キリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されている・・・・」 とある様に、 「この宝」 とはキリストのことです。
ですから、外側ではなく内側になにがあるのかが問題です。
傷つきやすく壊れやすい土の器に目を向けるか、それとも宝に目を向けているかということです。
外側の現実にのみ目を向けると宝を見失ってしまいます。
私たちはどのような状況にあっても、与えられている宝、いつまでも変わらないキリストに、目を向けましょう。
向け続けましょう。
この方に希望をおきましょう。
測り知れない力が神から注がれることを知ることが出きるのではないでしょうか。