中島總一郎 先生のお話から 主要テキスト:箴言19章21節
1.人生における三つの「場」 人は誰でも生きている間に三つの 「場」 を迎える。 土壇場、踊り場、正念場である。 土壇場は何の準備もない所へ突然やってきた絶体絶命の危機である。知恵と勇気が問われる。 踊り場は逆境の時である。誤解、妬み、中傷などによる。その人の忍耐力と柔軟性が問われる。切り抜けるポイントは、静かに待つこと。この時を活かして力を蓄えることである。 正念場は実力を発揮する時である。使命を果たす時である。その人の真価が問われ、その後の人生展開も決まる。 以下、N氏が経験した踊り場を題材として、信仰者の決断と神の不思議をみていく。
U.N氏の試練の意義 N氏は踊り場に立たされ、 「全てを捨ててでも主に従うか」 を試みられたが、その試みで、(1)自分の信仰が何かを確認し、深められた。(2)きよめを受けた。
V.試練の発端 N氏は教会開拓伝道の使命が与えられ、母教会からその委員長を任命され、1年5ヶ月後に献堂して、伝道を始めた。 祈りが聞かれた嬉しさから、会堂の写真を撮り勤務先で証詞した。 それから一年後、若くして取締役に選任された。 N氏の働く姿勢は、エペソ6章5〜8節によっていて、キリストの僕として陰日向なく一生懸命働いた。 取り組む心構えは、 @役職の一段階上の仕事をする。 A配属先ごとにその部門のプロになる。 B仕事は与えられるのは待つのではなく、有益な仕事を探し出して創始する。 C会社の財産になる成果を残す―を貫いてきたのである。
役員就任挨拶のため社長宅へ伺ったとき、厳命を受けたのである。 「教会に打ち込んでいるそうだね。教会を建てたというじゃないか。経営は命懸けでやるものだ。それほど教会に熱心と知っていたなら、役員に選ばなかった。二兎を追う者は一兎をも得ずだ。会社をとるのか教会をとるのかどちらかにしてくれ。・・・・」 N氏の心は暗闇の路頭に迷ったかの様であった。 仕事をとれば、仕事を通して神の栄光を現わせとの召命がなくなる。教会をとれば栄光を現わす場がなくなる。愛を知った者に 「わたしを愛するな」 と言われても、それはできない。
W.試練の受け入れ 二者択一の要求は何を意味するのか。 経営を甘く見たら大怪我をする。 現に父親が倒産して、N氏自身も少・青年時代に辛酸をなめてきた。 しかし、N氏には信仰があるからこそ私心を捨てて仕事に熱中してこられた。 仕事も信仰も両方必要である。 アブラハムが一人息子イサクを燔祭として献げよと要求されたことを思い出した。なぜこんな矛盾と残忍性を含んだ試練が自分に与えられるのか。 なぜだ と問うても答えはこない。 ――神は、その人が神第一に生きる信仰を持っているかどうかためされる時がある。――N氏は、これが試みであるならば 「子よ、神みずから燔祭の子羊を備えて下さるであろう」 (口語訳・創世22章8節)し、結末は神が責任を取ってくださるであろう、との信仰に立ち、すべてを神に委ねたのである。
X.試練の経過 その結果は、内・外すべての仕事を干され、電算機械室へ入れられた。 祈りと忍耐の日々が続いた。 N氏はこの試練で二つのことを知った。 @この世では私にはあなた(キリスト)以外にはない。A自分はキリストとのかかわりを通してのみ存在する。 @については、マタイ15章21〜28節、カナンの女の必死の叫びに、冷酷と思えるほどのイエスの拒絶。 これは、苦しみの中へ放置して、自分が何者なのかを見直し、真の礼拝へ導くためであった。 彼女は言う。 「(そうは言っても)しかし」 、 「主よ私をお助け下さい(私にはあなた以外にはないのです。)」 Aについて、マグダラのマリヤは、葬られたイエスの死体がなくても墓から帰れない。 なぜなら、今までイエスに対する愛とかかわりによって生きてきたからで、イエスなしの自分というのはあり得ない。 N氏も同じだった。 イエスと共に歩んできた自分を否定したら、N氏はN氏でなくなってしまうのです。 暗黒の中に主は現れて言われる 「なぜ泣いているのか。(私はここにいるのに)誰を捜しているのか」 と。 捜す方向を変えて振り返ったら、イエスはそこにおられたではないか。 N氏は強要する社長のために祈った。 「私へのこの仕打ちによって審きが下りませんように」 と。 一番苦しんでいるのは迫害されている人ではなく、迫害している人だから。 イエスも言われた、 「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」 (マタイ5章44節)と。 キリスト者に委ねられていることは、善悪を明確にすることではない。 「善をもって悪に勝つ」 (ローマ12章21節)ことである。
Y.奇跡と復活 二者択一を迫られてから苦しい日々の8ヶ月が過ぎていた。 役員昼食会の席上で、社長が 「机の引き出しを整理していたら、こんなものが出てきた」 と、21年前の社内報を見せた。 入社間もなくのN氏の証詞が載っていた。 総務部から、なぜ働くのか書いてくれと乞われてのものであった。 そこには、 「生きるとはいかに愛するかということ、愛するとはいかに生きるかということ」 で始まりコリント前書13章(口語訳) 「・・・・もし愛がなければ、いっさいは無益である。愛は寛容であり、・・・・・愛はいつまでもたえることがない。」 で終わっていた。 それから三日ほどたって、N氏は社長室に呼ばれた。 用件は 「君にはもっと大きいことをしてもらわねばならないね」 であった。 品質管理担当役員を命ぜられ、社外活動にも戻った。 N氏は奇跡だと思った。 なぜなら @最大の試練の最中に出てきた資料だ。 A社長自らの手によって、目に留まった。 B21年も前の証詞である。 Cみことばが真実を伝え、心を動かしたからである。
Z.結び この事を通してN氏は多くのことを学んだ。 神に忠実に従う者へは、神が全責任をもってくださる。 神はきよさにあずからせるために、試練を与えられる。 信じない者には何の不思議も起らない。しかし信じる者には、御言葉が事件となり、その人の上に成就する。 例えば(箴言19章21節→口語訳) 「人の心には多くの計画がある。しかし、ただ主のみ旨だけが堅く立つ」 などである。
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