小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/09/22 9:36:25|先週の礼拝から
私の弱さを誇る
芳賀富子 師のお話から  主要テキスト:Uコリント12章7〜10節

T.パウロの回心とあかし
イエスに出会う前のパウロは、使徒9章、クリスチャンを迫害するためダマスコに向っていました。
そのパウロの回心は、ダマスコの近くまで来たとき、復活のキリストに出会ったからです。
その出会いは、彼の生き方を根底から変えることになりました。
彼の恵まれた生い立ち、受けた高い教育、パリサイ人として、エリートの道を歩いていたのに、キリストに出会い、ピリピ3章6〜8節、 「・・・・・キリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。・・・・・」 と言い、今日のテキスト9節では 「・・・・私の弱さを誇り・・・・」 、とあかししています。

U.弱さを誇る
7節、パウロは肉体に1つのとげが与えられていました。
8節、それは自分が高ぶることがないためにと言っています。
このとげを去らせて下さいと3度も主に求めています。
しかし主からの答えは、9節、“私の恵みはあなたに十分である”でした。
彼は神の恵みを知り、恵みに生きていた器です。
肉体のとげに固執せず、主の言葉を受け入れ“私の弱さを誇る”と言い切ったのです。

V.キリストの力が現わされる
“その力は弱さのうちに完全に現わされる”力です。
キリストの力が私をおおうために、大いに喜んで私の弱さを誇るとも言っています。
その弱さは、弱さで終わらない弱さです。
10節、 侮辱や苦痛、迫害、困難を甘んじることができるもの、弱い時にこそ私は強いと言えるものです。
肉体のとげを与えられながら、それを苦しみ、重荷としてではなく、“キリストのため、神の栄光のため”に、恵みに変えられるという喜びです。
ですから、肉体のとげをもったまま主にゆだねることができたのです。
キリストは肉体のとげをもったままのパウロの内側に、力強く働かれたのです。

W.キリストのために
私たちは何を誇っているのでしょうか。
自分の強さや能力・賜物を誇ることをしても“私の弱さを誇る”と言えるでしょうか。
弱さを恥じ、嘆き、隠そうとしても空しいのです。
キリストに自分自身をゆだねていくときに、そこに現わされるキリストの力を体験できるのです。
弱さが強くされる恵みです。
この恵みにより私たちもキリストの歩みに倣う者とさせていただきましょう。







2010/09/13 8:41:32|先週の礼拝から
大いなる愛に迫られて
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:Tコリント6章20節

今日は、特別な集会に何度かお見えになりました親しい方で、通常の聖日礼拝出席は初めてという方が四名おられます。

T.なぜ伝道者に 
それで、普段お会いしても説明しきれない事柄、私がなぜ伝道者になったのか、そして何のために伝道者になったのかを、お話したいと思います。

先ず、私がなぜ教会に行くようになったのか。
それは営業マンになって三年目、昭和39年に妻春子(故人)に結婚を申し込んで、その年の5月に紆余曲折の末(理由は彼女がクリスチャンであったため)結婚したことに始まります。
そして45年間の結婚生活を経て定年を迎え、その後Tコリント6章20節 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」 のみことばに従いフルタイムの伝道者として、自分自身を献げました。

U.愛の神がおられる 
それは、次の二つの事をどうしても伝えたいという思いがあるからです。
第一は、使徒14章15節 「天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている・・・・・・」 と書かれているように、神は人生すべての面に生きて働いて、この世界を支配されているということを伝えたいのです。
つまり神の存在を伝えるためです。
第二は、天地の全てを創造した神は、愛の方であるということです。
Tヨハネ3章16節に、 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。・・・・・」 とヨハネが知らせているようにです。

V.既に話したこと
既に話したことですが、わたしがどんな営業マンより自分の強さを誇っていた頃、巨額の不良債権という事件に直面したのです。
生か死かを選択せざるを得ないときに、私は死を選びました。
でも、未遂に終わって死ぬ勇気さえ失われてしまったのです。
私はそれまで、他の人がどんなに苦しんでも、悲しんでも、自分中心に判断し、決断していました。
汚い自分、みにくい自分に気付いて悔いて謝罪しました。
そんな時、ひとりのクリスチャンを通して、私が負うはずの巨額の不良債権を買い取って下さったのです。
神は、生きて働かれたのです。
こんな自分を、優しく救い、愛して止まない神がおられたのです。
神が、前述のクリスチャンを動かされたのです。
Tコリント6章20節の文字通り 「・・・代価を払って買い取られたのです。」

W.神の愛が示された 
それだけではありませんでした。
不品行を行ない、人をさばき、自分だけの繁栄、自分中心の生き方しかできない者、罪という主人の奴隷、それが私でした。
しかし神は、ひとり子イエスを十字架につけるという代価を払って、私を買い取ってくださいました。
「・・・・代価を払って買い取られた・・・」のです。
ですから、私は神のものであって自分のものではありません。
そうして、Tコリント6章20節 「・・・・自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」 と言ってくださっているのです。
先に述べましたように、神がおられることと、神は愛の方であることを宣べ伝えることを通して、神の栄光を現わしなさいといってくださるのです。
Tヨハネ4章9節 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」 と書かれているように、わたしにもそれを示して下さいました。
何となく聞いていたことを、はっきり見させて下さいました。

X.私の生活
そういう訳で、こんな私を神のものとしてくださいましたので、伝道者にならせていただきました。 神は、その愛によってTヨハネ4章9節、 「・・・・その方によって私たちに、いのちを得させて・・・・」 くださったのです。
神の愛を、いのちをもって伝えるためです。
このことを伝えるために、神は栃木いこいの泉チャーチの開拓をわたしに担わせて下さったと信じ、役に立つのであれば、アフリカにも出かける者です。
神の栄光をあらわすことができる様にねがいつつ。







2010/09/06 13:39:33|先週の礼拝から
みことばに従って
島田 房子 師のお話から    主要テキスト:詩篇119篇105〜112節

詩篇119篇105節を中心にみことばに導かれた生涯を証しします。

T.みことばとの出会い
めまぐるしく変化する戦後の時代に社会人となった私は、一度しかない人生の確かな基準が知りたいとの思いで、友人に誘われてキリスト教会に行きました。
真面目だと自負していた自分は、偽善者そのもの(マタイ7章1〜5節)であることが分かり、その罪を悔い改めてイエス・キリストを主と信じました。
そこから私と聖書のみことばとの活きた関係が始まりました。
詩篇119篇は、一貫して 「みことば」 をテーマとして記されています。
F,Bマイヤーは、 「神のみことば」 の代わりに 「神のみこころ」 としても、誤りではないと語っています。
聖書は 「神のみこころ」 の啓示の書です。
聖書66巻を誤りのない神のみことばと信じ、みことばを土台とし、かつ道標とし、魂の糧として、信仰生活を送る者とされています。
素晴らしい恵みです。
私の生涯を振り返るとき、若い時に求めた人生の確かな基準は聖書にあると確信をもって証することが出来ます。

U.道の光となったみことば道-人生の光、導きとなった聖句は、
(1)Tコリント6章20節、 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」 とある。
主のいのちの代価に、どのようにお報いしたらよいのか、人生の用い方を考えるきっかけとなった。

(2)創世記12章1節、その後、主はアブラムに仰せられた。 「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・・・」
ヨハネ15章16節、 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
直接、伝道者として生涯を献げるようにと示され、励まされて従った。

(3)ガラテヤ2章20節、 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」
ヘブル4章10節、(文語訳)「己が業を休めり」 、 (新改訳参考) 「神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。」
生涯、神に従う事の鍵となった。また 「きよめ」 の経験とともに、 「キリストが私の全ての支配者」 であると、自分を明け渡す祈りに導かれた。

(4)イザヤ55章8節 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――」、9節 「天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」 は、49年間の伝道者生涯で、7つの教会に順次仕えたが、その転任に際して与えられた聖句、神のみこころが最善との信仰に立つことができた。

(5)創世記46章3節、 「すると仰せられた。 『わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから、4節、わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。』 」

2008年に伝道職を引退、その決断に導かれたみことばです。詩篇138章8節 「主は私にかかわるすべてのことを、成し遂げてくださいます。主よ。あなたの恵みはとこしえにあります。あなたの御手のわざを捨てないでください。」 とともに、優柔不断で迷い易い者を、主は的確なみことばをもってみこころを示し、導いてくださったことを感謝している。

V.足のともしび としてのみことば
日毎の奉仕や生活の中で、暗闇の中のともしびの如く、教え、導き、励まされた代表的聖句をあげておきます。

(1)マタイ14章22節(文語訳) 「イエス自ら・・・・・群衆を・・・・・」 、(新改訳)「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。」
経済の必要や教会の牧会のことで思い煩っていたとき、 「イエス様は教会の大牧者」 であられることに目覚めさせてくださり、経済も満たして下さった。貴重な経験。

(2)詩篇102篇12〜17節
12節、 しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。
13節、 あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。
14節、 まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。
15節、 こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。
16節、 なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現われ、
17節、 窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。
特に13節、牧師がいなくなっていた教会に遣わされたときのこと、会堂や周辺が荒れたままになっていた状態に、憤りさえ覚えて祈っていた中で、主はみことばによって立ち上がってくださることを示され、その後の伝道活動を祝してくださった。

(3)詩篇51章17節、 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」
開拓教会でのこと。
出席している求道者を救いに導けない無力に陥った時、主は問題点を示し、私自身を扱ってくださった。
主は砕かれたたましいをあわれみ、聖霊の働きによって救われる人々をおこし、受洗者が与えられて教会の土台が据えられた。

W.確かなもの
最後に119篇の作者とともに 「みことばこそ、私の心の喜び」 であると告白しつつ、 「みことば」 に生かされて、終わりまで従わせていただきたく願っています。
聖書のみことばに従う道ほど確かなものはないと確信しているからです。







2010/08/29 20:42:28|先週の礼拝から
真実の救い主
芳賀  功 師のお話から   主要テキスト:ヨハネ4章39〜42節

T.私たちの救い主

あと4ヶ月もすれば降誕の日を待ちわびるクリスマス。
その日に御使いは羊飼いたちに告げるのです。
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2章11節)。
私たちのために救い主が生まれる。
これを信じるのがクリスマスであり、この方こそが真実の世の救い主です。
しかし、何も知らないサマリヤ人は42節 「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」 と女に告げるようになったのです。

U.心をつかむ知恵
イエスに会ったサマリヤ人たちはどのようにしてイエスを真実の救い主だと信じるようになったのでしょうか。
女に対するイエスは、7節、 「わたしに水を飲ませてください。」 と言って近づきました。弱い者の立場におられて低姿勢です。
ここにイエスの人間の心を引き付ける優しさがにじんでいます。
女が、サマリヤとユダヤの対立を持ち出したのに、10節 「・・・・あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。・・・・・生ける水を与えたことでしょう。」 といわれました。
ここにも、イエスの人間の心を引き付ける優しさが隠れています。
人の心をつかむときの知恵です。
こうして女の全ての罪を赦そうとしておられた主イエスは、夫の話題で不思議を現わされ、礼拝する場所を答え、真の礼拝者へと話を進めたのです。

V.サマリヤ人の予備知識
ですから、女は、25節の“キリスト”を感じ、 「その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 と言っただろうと思われます。
29節や39節も含めますと、おそらくサマリヤでは、何もかも知らせて下さること自体が、キリストのしるしなのだと信じられていたのではないでしょうか。
イエスはサマリヤ人の予備知識もご存知で、それに応える形で、ご自身を現わされたことになります。

W.女の信仰
そこで28・29節 「女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」 と自分の仕事(水汲み)を投げ捨ててキリストを紹介しようとしたのです。
しかし、女は、キリスト(メシア)に会ったと信じているのですが、本当にキリストかどうか 「あなた自身で判断して下さい」 と控えめに伝えているのです。
ふしだらな女でしたからという思いが強かったのでしょう。
でもイエスは、この名もないサマリヤの女を最大限に愛し、用いて、真実の救い主というものを証ししようとなさったのであります。
29節 「私のしたこと全部を私に言った」 と5人の夫を、入れ替わり立ち代り手玉に取ってきたと言って、彼女自身が認めている。
このような自分の罪深さの悔い改めは、女にとっての救い主を信じたという証しです。

X.お会いして、体験して、
サマリヤ人は、女の話やイエスのことばによって信じるようになりましたが、ユダヤ人はヨハネ2章23節 「イエスの行なわれたしるしを見て、御名を信じた。」 とあるように、しるしを見てびっくりした信仰です。
40節 「自分たちのところに滞在してくださるように願った。」 ので、二日間そこに滞在されました。
こうしてサマリヤ人は、イエスと直接お会いして、体験して、イエスが分かったので、 「この人こそ真実の救い主である」 とあかししたのであります。

Y.信仰を強めていただく
今までのサマリヤ人たちは、その時の世の権力者によって、民族的差別にほんろうされてきましたが、サマリヤの女の小さな事件によって、この地の人々はキリストを信じ、強い確信を持ち、ここにリバイバルが起ったのです。
34節 「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」 と言われました。
サマリヤにリバイバルを起した神は、今日も同じ神です。
私たちもリバイバルを求めていきましょう。
そのために神のみこころを行なう者となるため、真実の救い主に信仰を強めていただきましょう。







2010/08/24 20:42:00|先週の礼拝から
目を上げて畑を見よ
芳賀  功 師のお話から   主要テキスト:ヨハネ4章27〜38節

T.井戸端伝道と波紋
ヨハネの福音書4章は4回目ですが、今日は35節 「目を上げて畑を見なさい」 を中心に、イエス様のお心を学びたい。
先ず畑とはこの世界を指しています(マタイ13章38節参照)。
サマリヤの女はイエスとの出会いによって、人生が劇的に一変し、町(スカル)の人々も大きく変化していこうとしています。
それは女が言った29節 「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」 という言葉によって、イエスのところに続々と出かけて来るようになるのです(30節)。

U.イエスの食物
少し時刻を戻そう。
井戸端での会話が終わったところに、弟子たちが食事を持って帰ってきました。
これを見たイエスは、32節 「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」 と言うのです。
34節 「わたしを遣わした方のみこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」 と言われる。
人体生理的に見れば、食物は空腹を満たし、人の活動を支えるものですが、イエスを動かしているのは、“この世に神様から遣わされているという使命感に集中しているのです。
「そのみわざを成し遂げる」 という生き方は、苦しみというよりも、ご馳走のようにして、その働きを楽しむという意識なのでしょう。
ですから歯をくいしばって、頑張っていくというものではなく、喜んで 「そのみわざを成し遂げる」 という召命の実が食物でもあるのです。

V.刈り入れどき
従って、私たちを遣わされるのは 「神の国を来たらす」 という大きなみ心です。
イエスはそのような生活の実現に 「二つの諺」 で説明しています。
第一は35節 『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある。』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。」
実際に植物の種を蒔いて刈り取るまでの期間は、4〜6ヶ月あります。
しかし、イエスの言う神の国の収穫というのは、4ヶ月の期間はありません。
種を蒔いたら、すぐに色づくという畑です。
イエスが先程から、サマリヤの女と話をして、ちょっと伝道をしただけで、サマリヤのスカルの町の人達がどんどん色づいて、刈り入れを待っています。

W.ほかの者が刈り取る
第二は37節
「『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る。』ということわざは、ほんとうなのです。とイエスは言われました。
不思議なことばです。
スカルの町の人々はどうなるのでしょう。
イエスを信じ、新しいいのちをいただいたサマリヤの女によって、サマリヤの地にリバイバルが起されたのです。(やがて、十字架の死からよみがえったイエスによって、全世界へ送り出される弟子たちが刈り取る。)
この世における神の業は、誰かが蒔いた種、蒔かれて色づいたものを、私たちが刈り取っているに過ぎないのです。
ですから目を上げて畑を見たときには、すでに誰かが蒔いた場所なのです。
日本は今年宣教百五十年の記念する年です。
其処此処に、それまで多くの先輩クリスチャン達が、苦労と憐みの涙をもって蒔いたからこそ、今の教会の収穫があります。

X.終わりに
その事実を忘れないで、刈り入れの時は謙遜と感謝を収穫の主にささげなければならないのです。
また、私たちも置かれた持ち場・立場にあって、みことばの種を蒔く者とならせていただきましょう。