小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/08/16 13:34:19|先週の礼拝から
恵みを忘れないで
芳賀 富子 師のお話から   主要テキスト:詩篇103篇1〜14節

2節、 「・・・・主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」 この言葉から、今朝のテーマを学びます。

T.神をほめたたえる
私たちはとかく神様から何か目に見える祝福をいただいたとき、祈りを答えられた、神は生きておられ、全能の方と崇めます。
しかし、何よりも先ず恵みの与えぬしなる主をほめたたえることが大切です。
そのためには1節、 「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
と促し自覚させることです。

U.神の恵みの豊かさを知る
3〜5節に、咎の赦し、いやしの力、いのちのみ守り(贖い)、すべての必要の備え、将来に対する約束など全てが、良くしてくださった神の恵みに含まれています。
つまり 「人の心を最も重くする罪・病・死・財(生活の必要)」 のことが記されています。
6〜12節では、イスラエル人になされた過去の祝福を思い起こすことによって 「主の良くしてくださったこと」 を明らかにしています。
哀歌3章22〜23節には、神の恵みは 「朝ごとに新しい」 と記されています。
神の恵みの豊かさをもっと知る者でありたいと思います。
その恵みの中に生かされているのだという事を、神との交わりの歩みの中で深めて行きたいものです。

V.神の恵みを忘れないために
私たちの在り方はどのようにあるべきでしょうか。
(1) 「恵みに慣れてしまわないように」 
申命記6章10〜12節で、イスラエル人は約束の地カナンで、労せずして備えられたものを与えられました。
やがて満ち足りると、恵みに慣れ、傲慢になり、神を忘れてしまわないよう注意を与えられています。
(2) 「恵みを思い起こす」 
申命記2章7節、8章2節、40年という荒野の旅路 「何一つ欠けたものはなかった」 神の大いなる恵み、その全行程を覚えていることの大切さです。
私たちも、失ったもの、ないものを数えるのではなく、与えられている神の恵みを数え、思い起こすとき、感謝に満ちるでしょう。
(3) 「ひたすら慎み・用心深く」 
申命記4章7節、9節、神ご自身から目を離さないで、ひたすら慎み・用心深くある様にということです。恵みを忘れ易い者なのに、申命記4章31節、神は契約を忘れないと約束して下さいます。
(4) 「忘れません」 
最後に詩篇119篇15〜16節、 「私は、あなたの戒めに思いを潜め、あなたの道に私の目を留めます。私は、あなたのおきてを喜びとし、あなたのことばを忘れません。」 
この神の大きな愛に、私たちも信仰をもって祈りつつ、主を信頼し、みことばを心に留めて、恵みを忘れないよう歩む者とさせていただきましょう。







2010/08/08 16:17:28|先週の礼拝から
真実の礼拝
芳賀 功 師のお話から   主要テキスト:ヨハネ4章17〜26節

今朝はサマリヤの女の三回目です。
サマリヤの女が、イエス・キリストとことばを交わし、驚きをもって主を拝するまでの物語です。

T.神をあがめる思い 
「その水を私に下さい」 と言ったのに 「・・・・行って、あなたの夫をここに呼んで・・・・」 と言われて、17節 「私には夫がありません。」 とだけ答えたのに、イエスから五人の夫と六人目の男について言われました。
女は自分の事をすべて知った人、イエスを知るのです。
驚きをもって主を拝しながら 「先生。あなたは預言者だと思います。20節、私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがた(ユダヤ人)は、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」 と礼拝する場所に関する意見の違いを口走りました。
女の心の内に、神をあがめる思いが生まれていたようですが、冷静さを失うほどに驚いたのでしょう。

U.へりくだった魂 
自分の事をすべて知っているお方に、隠しておきたいみじめな生活と自分の罪深さをえぐり出され、恥ずかしいところをさらけ出され、魂はへりくだり、導いた男に対して、かしこまる思い(畏れ)の中で、礼拝する場所に関する意見の違いを持ち出したのです。

V.礼拝する場所 
それで21節、イエスは 「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。」 と教えられます。
ユダヤとサマリヤが対立して、礼拝の場所も別な所を主張していますが、イエスは、そのどちらでもなく、どこででも、まことの神に対し、真実の礼拝をささげるようになると言われたのです(マラキ書1章11節、ゼパニヤ2章11節の成就)。
場所や形式ではなく、真実な心こそ重要。

W.神の御計画 
続く22節の言葉は、女にとって理解困難であったでしょう。
「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」 救い主キリストは、旧約聖書に預言された通りユダヤ人から出るのでした。
23節 「・・・・真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」 
イエスは、目の前の女が真の礼拝者になることを御存知でした。
父なる神が求めておられる魂だというのです。
ですから、今まさに礼拝しようとしている魂に告げたのです。

X.神は霊ですから 
24節 「 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」神は霊ですから、目には見えないお方です。
いつでも、どこにでも、臨在してくださり、信じる者の心深く住まわれるお方です。
神を礼拝する者は、ありのままの真実をもって(疑いや不信を抱かず信頼して)御前に留まり、お言葉を待ち、導きを待ち、主の栄光を喜び・・・・ほめたたえるのです。

Y.わたしがそれです。 
25節 女は、 「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」 とイエスに言います。
聞いて大切に記憶していた知識を思い出したのでしょう。
26節、イエスは 「あなたと話しているこのわたしがそれです。」 と女の言葉を待っていたかのように答えられました。
女は、どれ程おどろき、どれほど喜んだことでしょう。
受肉されたキリストが、やがて十字架の死による罪の赦し(贖い)を完成されます。
イエス様は、その時を自覚しながら、わたしがそれですと言われたのではあるまいか。

Z.生ける水をいただく 
パウロは、ローマ12章1節で 「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」 と勧めています。
イエスは、マタイ18章20節で 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。」(臨在の主)と語られました。







2010/08/01 23:03:45|先週の礼拝から
そのままの姿で
芳賀 功 師のお話から    主要テキスト:ヨハネ4章15〜16節

T.三部作
 先々週 「サマリヤの女」 と題して、 「永遠のいのち」 であるイエス様ご自身こそ、 「生ける水」 の本質であることを学びました。
今日はその続き、今日の続きをもう一回にまとめて、三部作で完結させる予定です。

U.不思議な問答 
今日はヨハネ4章15〜16節、 「女はイエスに言った。 『先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。』 イエスは彼女に言われた。 『行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。』 」 という不思議な問答が課題です。
 サマリヤの女が、 「その水を私に下さい」 と言ったのに、イエス様は 「あなたの夫をここに呼んできなさい。」 と言われました。
不思議なことばです。
この時の女が何を思ったか、聖書は何も語らないが、女は 「渇くことがない、生ける水」 を与えるというユダヤ人教師の言葉に、引き付けられるように聞いた事でしょう。

V.他の人を避ける生活
さて、 「渇くことがない、生ける水」 とは何かということを、前回学びました。
しかし、現代の私は、イエス・キリストというお方が、一体何を教えたかったのだろうかと考えさせられます。
ですから、あとに続く問答も繰り返し読んでいます。
そして気付く事は、その頃の女の結婚生活が、<女から自由を奪っているようだ>ということです。
昼の12時を越えてしばらくは、太陽の暑さが厳しい地方です。
普通の人達が井戸に来て水を汲む時刻は、朝方か夕方なのに、女が井戸に来た時刻は、普通の人が誰も来ない時刻です。
結婚生活に起因する何かを、他の人から非難されたかもしれないが、女は他の人から避けるようにしていたのであろうと推察できよう。

W.水を取りにいらっしゃい 
イエスというお方は、人の心に思うことさえ知っておられ、遠く離れていても苦しむ魂の存在を見つけて、出かけていくお方です。
サマリヤの女の苦しみを、他の人の苦しみも、その原因を含めて御存知だった。
それで、あなたの心が渇くことがない様に、わたし自身をあなたにあげようと近づいたことでしょう。
サマリヤの女に対して 「・・・・あなたの夫をここに呼んで・・・」 と言われました。
他の人には、別の不思議な言葉を用意されているでしょうが、今のあなた自身と、今の状況を携えて、かっこうつけないで、包み隠さず、そのままの姿で、水を取りにいらっしゃいと言っておられるのではないか。

X.邪魔をする者 
女は、イエスを汲む物を持っていないと、評価する者でした。
私たちは、自分が罪人だとは思いたくないし、そう思えない者です。
自分こそ正しいと思っています。
多少の悪さは、他の人に比べて私のほうがまだ良い方だと思うのです。
プライドを傷つけられるなら烈火のごとく怒るか、誰とも話したくないほどに、落ち込むのです。
更に、女がそうしたように、何事も上から目線で人を評価したいのです。
それでも、あなたが心から求めるなら、主は、何かを示して下さいます。
その時に理解できなくても、不思議に思えても、与えられる信仰によって、イエスの導きに従っていく事が、恵みにあずかる秘訣でしょう。

Y.へりくだった魂 
イエスはそのあなたの為に、命を捨ててまでも救うのです。
従って悔い改めこそが、古い自分に死んで、いのちの水によって新しく生まれるので、新しい人生のスタートなのです。
へりくだった魂だけが、その人の内に泉を受け入れ、永遠のいのちへの水を受け入れる事ができるのではないでしょうか。

へりくだった魂とは、自分の無力さ、罪深さを知り、悲しみ、そのままのみじめな姿や格好で、イエスの十字架だけを頼りにしつつ、主の前に出る者です。その魂を、イエス様が 「来なさい」 とやさしく招いて下さるからです。







2010/07/26 19:19:43|先週の礼拝から
神の恵みによって
芳賀 富子 師のお話から    主要テキスト:エペソ2章1〜10節

このエペソ書から、神の恵みに与った者が、その恵みに生きる者として成長していけるよう、学んでみたいと思います。

T.神の恵みを知らなかった私たち
 その生き方は、1〜3節、 「自分の罪過と罪の中に死んでいた者・・・・この世の流れに従い・・・・自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い・・・・・」 とあります。
肉体は生きているのに、死んでいるというのです。
創世記2章16〜17節、神のことばに背いたアダムは、善悪の知識の実を食べてしまいました。
神は 「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」 と言われたのですが、アダムの肉体は死ななかったのです。
けれども霊的には、神から離れた時から死んだ状態になったのです。
ローマ7章19〜20節、神と分離した者は、自分の肉の欲の中に生き、自分の中に住む罪との戦いに苦悩するのです。
神はそんな私たち人間をそのままにされるお方ではありません。

U.神の恵みに与った私たち 
<神の計画>エペソ1章4〜5節、 「神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、・・・・・・イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。」、
<神の愛は人を生かす>エペソ2章4〜5節、神の愛は罪の中に死んでいた者を、救い・生かして下さるのです。5〜7節、神の恵みは、キリストによって、キリストと共に、キリストにおいてとあるように、イエス・キリストなしに、神の恵みは考えられないということです。
<イエス・キリストによって現わされた>ヨハネ1章17節、 「恵みとまことはイエス・キリストによって実現した・・・・」 と示されています。
2章8節、それは一方的な神の恵みです。行いによるのではありません。

私たちは神の大きな愛のみ手の中にあるという事を信じているでしょうか。神の恵みの中に生かされているという事を感謝しているでしょうか。

V.神の恵みは私たちを主の働きに 
2章10節、神は人間を神のかたちに似せて造られました。人間を創造された神の目的は、人間が良い行いに歩むためでありました。
「良い行ないをもあらかじめ備えてくださった」 とあります。それは私たちが何か特別な事をすることではありません。
神の一方的な恵みによって救われ、神の子とされました。
主は神の子とされた者たちを、マタイ5章13〜16節、 「あなたがたは、地の塩です。」、 「あなたがたは、世界の光です。・・・・・あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 と語っています。
世に染まって、世に流されてしまうのではなく、塩としての役割を果たしていく。
光を覆って、隠してしまうのではなく、輝かすとき周りを明るくできます。

W.終わりに 
置かれている生活の中で、周りの人々との関わりの中で、神の恵みを思い起こし、恵みによって自分が生かされると共に、周りの方々をもうるおし、生かす者とさせていただきましょう。







2010/07/21 14:21:35|先週の礼拝から
サマリヤの女
芳賀 功 師のお話から   主要テキスト:ヨハネ4章1〜15節

T.永遠のいのちへの水
ヨハネ4章13〜14節、 「イエスは答えて言われた。 『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」
これが今日のお話の結びですが、これはイエスとサマリヤの女の出会いによって、この様に導かれました。
人生はイエス・キリストとの出会いによって生き方が一変してしまうという素晴らしい物語です。

U.掟のように守られた差別習慣
先ず3〜4節、 「主はユダヤを去って、またガリラヤへ行かれた。しかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。」
つまり、イエスはユダヤでの伝道からガリラヤへ向かっていく途中の出来事です。
当時のユダヤ人は、サマリヤ人を混血民族としてさげすみ、交際をせず、声もかけず、その地方の道を通ることさえ嫌うほどに、掟のように差別習慣が守られていたのですが、イエス様自身はサマリヤのスカルという町を目指したのです。
それは今日の主人公であるサマリヤの女に会って声をかけ、ご自身を現す計画があったからです。
そしていよいよイエスはサマリヤのスカルに着いて、昼の12時頃からヤコブの井戸という所で座り、のどの渇きを覚えながら、一人の魂を待ったのです。

V.差別習慣を破る男
そして、暑さを避けるため、普通の人なら外出を控える時刻になって、一人の“わけあり”女性が水を汲みに来たのです。
イエスは、7節、 「わたしに水を飲ませてください。」 と声をかけました。
ユダヤ人が、サマリヤ人に対して声をかけたり、何か頼んだりするのは、ユダヤ人の差別習慣に反する事柄ですが、イエスはその習慣を破ったのです。
それで9節、 「あなたはユダヤ人なのに、どうしてサマリヤの女の私に、飲み水をお求めになるのですか。」 と質問されてしまいました。

W.真の必要
イエスは旧約聖書の律法やおきてのようなものは、人を救わないことを知っていましたので、10節、 「もしあなたが神の賜物を知り、また、あなたに水を飲ませてくれと言う者がだれであるかを知っていたなら、あなたのほうでその人に求めたことでしょう。そしてその人はあなたに生ける水を与えたことでしょう。」 と言われました。
それで女はこの“常識外れの男”は何者か、“生ける水”とはいったい何か、という疑問がわいたのです。
そうです。今日のポイントはここにあります。
人間の身体は、空気と水がなければ生きていけませんので、女はその生ける水が欲しいと思ったのです。
“くむ物”の心配をしながら、“渇くことがない水”、“永遠のいのちへの水”がわきでると聞いて、15節、 「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」 という告白に到ったのです。

X.イエスが与える水
このサマリヤの女が切に求めた 「生ける水」 の本質は、14節にある 「イエスが与える水」 のことであり(賜物)、そして 「永遠のいのち」 であるイエス・キリストその人であります。
イエスからいただく水は、永遠の救いに到る水であり、ヨハネ7章37〜38節、イエスは・・・・ 「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」 と言われたのです。
皆さんの心に、わき上がって止まず、あふれ出る永遠のいのちの水があるでしょうか。
私たちが心の戸をあけ、イエスご自身に内に入っていただくなら、その方が生ける泉のように、初めて純真な 「いのちの水」 の様に、わきあがって下さるからです。