小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/07/13 17:09:29|先週の礼拝から
私は主の証人
芳賀 功師のお話から   主要テキスト:使徒1章8節

T.二つの人生と分岐点
使徒1章8節、「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」
私たちクリスチャンの人生には、二つの人生があるということです。
第一の人生は、生まれた時からキリストに出会い救われる迄です。
第二の人生は、イエス様を信じ救われたのち、どのような生き方をしたのかということです。
前者は普通の人生で、後者はキリストの証人という人生です。
パウロの言葉を借りるなら、肉に従う人生と霊に従う人生です。肉の人間と聖霊によるイエス様の証人ということで、この境目を人生の分岐点といいます。
この分岐点は、イエス・キリストとの出会いと私たちの中に生まれた信仰によって決定するということです。

U.キリストの証人として
後の人生は、キリストの証人として生きる(証し人)ということですが、証人とは何かといいますと、 「聖霊があなた方の上に臨む時」 に、 「イエスは主である」 、 「イエスは私を救いに導いた」 と証しする生き方です。
聖霊の助けなくして証言できないのです。
イエス様の十字架の贖いとよみがえりにより、生れ変った自分が今ここに生きているという証しです。
それは私のような虫にも等しい肉欲の人間のために、神の一人子であるイエスを十字架で殺してまでも、私を助けて、生かしてくださった。
私はこの福音の証人なのです。(詳しく知りたい方は、コロサイ1章12〜23をお読み下さい。)

V.キリストが私のうちに
私の内側をみことばで証言すれば、ガラテヤ2章20節、 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」であろうと感じております。

私は牧師になって、毎週説教の準備は大変ですが、ある時、悟らせていただきました。
それは 「キリストの福音の証人」 として、語らせていただけば良いのです。
何も困難なことはありません。
イエス・キリストは、聖霊によって誕生し、苦しみの生活をし、十字架の上で死んで、神の力によってよみがえった御子に関する事を大衆(異邦人)に向かって、語るのです。
こうして、永遠を悟り、永遠の証人になりたいのです。
このねじれ曲がった現代社会にあって、現在も働き続けてくださる方、聖く真実なる神ご自身の証人になることに誇りを持って、祈りつつ一人の魂の救いのために励みたいと思います。







2010/07/07 11:40:03|先週の礼拝から
求める者に聖霊を
芳賀富子師のお話から  主要テキスト:ルカ11章1〜13節

上半期を締めくくる礼拝です。ルカ11章13節 「・・・・天の父が、求める人たちに、・・・・聖霊を・・・」 のみことばから聖霊と私たちの関係について学びます。


T.聖霊は私たちに必要不可欠なお方

3節、 「私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。」 と主の祈りにあります。
肉体が食物によって養われて成長していくように、聖霊は主を信じる者の心に住まわれて、罪のゆえに歪んでしまった者を新しく変えて、実を結ぶ者にして下さる方です。
ですからあってもなくてもよいものではなく、必要不可欠な方なのです。

U.聖霊を求めているでしょうか。
11〜12節、――父親が魚の代わりに蛇を、卵の代わりにさそりを子供に与えるでしょうか――と記されています。
蛇はうなぎのことで、ユダヤの律法で、うなぎは汚れた魚とされています。
さそりはからだを折り曲げると卵のように見えるのですが、危険な生物です。
私たちはともすると魚や卵でなく、蛇やさそりを求めてしまうことがないでしょうか。
自分をけがすもの、自分を傷つけ、苦しめてしまうものを求める愚かをしていないでしょうか。
ヨハネ14章26節では、 「助け主、すなわち・・・・・聖霊は」 と記しています。
聖霊は 「助けるために呼ばれた者」、 「私たちの側にいて弁護する者」、 「カウンセラー」、 「強め、力を与える者」 等と訳されます。
聖霊は優れた助言者、導き手です。この聖霊こそ、クリスチャンにとりなくてならないお方なのです。
この聖霊を私の心に迎えているでしょうか。

V.聖霊は求める者に与えられる。
ここでどの様に聖霊を求めるべきか、求め方を譬えの中にみます。
5〜10節、パンを求めて友人のところにやってきた人は、常識を超えた求めをしています。
真夜中という時、戸が閉まって静まりかえっている家の戸を叩き求めたのでしょう。
友人を起こさせたのは、あくまでも頼み続けるあつかましさ、そのずぶとさの故であったのです。
私たちはこの人のようにあくまで求め続ける求め、与えられる事を信じ期待して、あきらめないで聖霊を求めましょう。
その求め方こそ祝福なのです。

W.終わりに
すべての与え主ご自身を求めないで、問題・課題の解決のみに心が向いていることがないでしょうか。
けれども、聖霊を求めるならば、私たちの求めの内容も変わっていくのです。
本当に求めるべきもの、神のみこころを求めるようになるのです。
聖霊に聞き聖霊に導かれていく下半期でありたいと思います。







2010/06/27 23:20:36|先週の礼拝から
神の息により
芳賀理恵子師のお話から  主要テキスト:エゼキエル37章1〜10節

T.生き返る枯れ骨
イスラエルの預言者エゼキエルは、神様によって枯れた骨で満ちている谷を見せられました。
この時代は、イスラエルがバビロン捕囚となっていました。
神が見せた枯れ骨は、神に背き、神に頼らず、従わず、堕落したイスラエルの人々の姿でした。
神の民として選ばれたイスラエルなのに、こんなにもひどい姿であることを見せられたのです。
神から 「人の子よ。これらの骨は生き返ることができようか。」 と問われ、エゼキエルは 「神、主よ。あなたがご存じです。」 と答えます。
神様次第で生きることもできる。
いや神様ならばこの骨を生かすことができる、と言っているようです。
枯れ骨が、神の息(聖霊)によって生きた者になりますが、この聖霊によるイスラエルの回復は、新約時代に生きる私たちへと続いて実現されていくのです。

U.枯れた骨に働く聖霊
私たちも、信仰において、神を愛し人を愛することにおいて、問題や試練、自らの弱さや罪によって枯れ骨となっているところ、癒されていない傷など、自分の枯れ骨を確認し、神様に 「生き返るかどうか、あなたがご存知です。神様ならば生かすことができる」 ともっていきましょう。
枯れ骨にこそ聖霊が働きます。
以前、副牧師として牧師夫妻と会堂に住んでいた頃、その牧師夫妻との関係がうまくいかず、任命移動になることばかりを願って祈ったことがありました。
そんな状態の中、説教の途中でメッセージが教会の方々に届いていかないのがわかり、くらくらしてきて倒れてしまいました。
「神が私を打たれた」 と気づき、牧師との関係を思い起こし、それを解決出来ないまま逃げる事ばかり考えていた私の枯れ骨を見せられました。
悔い改めている中で、不思議な事に神様にすべてお任せする気持ちが与えられ、 「あゝ、ここは神様が私を遣わされた場所だ。ここでやっていこう」 と心から思うことができたのです。
その後、ある教会で副牧師が必要だということで、年度末を待たずに、11月での異例の任命移動となり、神様は不思議な事をする方だと思いました。
聖霊によって枯れたところを見せていただき、回復の一歩としましょう。

V.導かれて生かされて
エゼキエルの予言によって、骨がつながり、筋ができ、肉ができ、皮で覆われましたが、息はなく、神の息が入った時、彼らは生きたものとなりました。
私たちは、人としての姿かたちを持って生活をしています。
しかし、神に造られた者として、聖霊によって生かされ、神様との回復があって初めて本当に生きた人間としての歩みができます。
普段、私たちは聖霊をあまり意識しないものですが、クリスチャンになった時から、いやその前から、聖霊に導かれ、生かされているのです。
そのことを感謝し、“これからもこの方に導かれる人生にしよう”、“み言葉に従う歩みにしよう”と決断していきましょう。
そこでは、枯れ骨を生かしたような神様のみ業がなされていくことでしょう。

W.教会を生かすのは聖霊
教会を生かすのも聖霊です。
枯れ骨は生き返り、非常に多くの集団になりました。
英語ではこの多くの集団を 「ザ・グレイト・アーミー」 と訳しているそうです。
偉大な神の軍隊です。
ただ生きただけでない、神のために用いられる軍隊となったのです。
ペンテコステの日、弟子たちは聖霊により、神の言葉を力強く語り、多くの人が救われ、教会が誕生しました。
枯れ骨のように恐れがあり、逃げたり裏切ったり、バラバラの弟子たちがグレイト・アーミーとして教会誕生に用いられて、世界宣教の出発点となりました。
教会は聖霊によって前進していきます。
枯れ骨にさえ働きかけ、人を生かし、教会を生かすのは聖霊です。
その聖霊に信頼していきましょう。







2010/06/22 15:52:01|先週の礼拝から
失望しないで祈れ
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:ルカ18章1〜8節

T.みことばの要約
中心のみことばは1節です。
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」 とありますので、どのようなたとえなのか確認したくて、取り上げました。
神をも恐れない裁判官と一人のやもめが登場します。
言うまでもなく、このやもめとは、何らかの事情で夫がいなくなってしまった婦人のことです。
その婦人が、この神をも恐れない裁判官に訴えたのは、たぶん別れた夫の事で、3節 「・・・・私を守ってください。」 という事です。
しかし、この裁判官は取り合わないのです。
何故なら不正な裁判官だからです。
弱い者を無視し、もうかる案件を優先するようなするような人物だからです。
にもかかわらず、この婦人は真剣に 「うるさい」 ほどに、繰り返してたのんだというのです。
7節 「まして神は、夜昼、神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。」 8節 「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」 というたとえです。
つまりそのような一生懸命な祈りは必ず聞かれるというのです。

U.祈りの原則
次に、その祈りはどの様にすれば良いのでしょうか。
先ず原則は、 「イエスの名」 によって求めるのです。
元来の私たちには、求める資格さえもないからです。
そして、大切なことは、ローマ書8章26節 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」という事です。
日常生活の過程で、祈りの必要を感じさせられる事があります。
歩きながらでも求め、主を賛美しましょう。
悲しみ、苦しみ、苦労などの渦中にある人を覚えるときは、関連するみことばや讃美歌の歌詞を思い出してみよう。
祈りの助けになります。
どの様に求めるのが良いか解らない様な時は、ただうめくように祈ろう。
そして聖霊が一緒にうめいて下さったことを感謝しよう。
牧師の祈りは、うめくような祈りが非常に多いのです。
ただゝゞ、みことばにすがりつくしかありません。

V.回答がない
祈っても得られない場合があります。
自分の都合に合うように求めていないかどうか、自問自答しよう。
神のご計画について、御心を求めていきましょう。
予想しなかった解決が与えられる可能性があります。
後になって、自分自身が強められ、成長するための課題であったと気付く場合が多いのです。

W.失望しないために
多くの課題は、私たちが期待するタイミングより、後になって解決したことに気付きます。
これが今日の中心テーマです。
今日のみことばを注意深く見よう。
「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるため・・・・・」と記されています。
主は 「いつも祈る」 ことを求めているのです。
祈ることを通して、主に近づき、主とつながり、主と交わり、わたしたちが主の不思議な業に関与し、喜ぶことを求めておられるのです。
もし、祈りの課題がなくなるなら――無くなりませんが――イスラエルの歴史を見ると分かるように、わたしたちは、主を忘れてしまう愚かにおちいり、8節の 「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」 という主の心配が、現実のものになってしまうでしょう。主が再び来られる時まで 「失望してはならない」 のです。

X.第一歩
だから、私たちの願い通りになる必要もないのですが、あきらめて、投げ出して、神のみ顔が見えなくなってはならないのです。失望しないで祈ることが第一歩です。
困難の中にある方々に対して、自分は何をしてあげられるのか、祈って教えられて、行動していく事を期待されているのではないだろうか。
主は最善をなされるお方だからです。
教会の祈りは、少人数ですが、たとえ一人になったとしても、“祈って欲しいと願っている方々を覚えながら、失望せずに祈る”これが 「とりなしの祈り」 であり、それを消さないようにという警告なのです。
マタイ26章41節、主は 「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」 と言われ、パウロはローマ12章12節「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。」 と勧めています。







2010/06/14 16:51:34|先週の礼拝から
イエス・キリストの名によって
芳賀富子 師のお話から  主要テキスト:使徒3章1〜16節

ペンテコステの恵みをいただいた弟子たちの働きは、聖霊の働きでもあります。その事をこの箇所から学びたいと思います。

T.祈りの中に働く聖霊
(使徒2章42節)聖霊の恵みをいただいた弟子たちは、弟子に加えられた人々と共に祈っていました。
(使徒3章1〜2節)ペテロとヨハネは祈りのため宮にやってきた時、生まれつきの足のなえた男が運ばれてきたのです。
これは偶然ではなく、弟子たちの祈りの背後に聖霊が働いておられた事を見ます。
私たちが祈る時も(ローマ8章26〜27節)聖霊の助けと、とりなしがあるのです。

U.奉仕の中に働く聖霊
ペテロたちが宮に来た時、足のなえた男の人に施しを求められたのです。もし、この男の求めに、ペテロ達が心を向けることなく、通り過ぎてしまったらどうでしたでしょうか。この男はいやされたでしょうか。ローマ5章5節に 「聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれ・・・・」 とあります。彼らの奉仕の中に働く聖霊は、この男に対する愛という姿でした。
愛は相手の必要を洞察する事ができます。
(使徒3章4節)ペテロが男に 「私たちを見なさい。」 と言ったとき、男は何かもらえると思って、二人に目を注いだのです。
ところが全く意外な言葉を聞かされます。
(6節)――金銀は私にはない――この男にとって最も必要なものは金銀ではなく、自分の足で立って歩ける事です。
「イエス・キリストの名によって、歩きなさい。」 と言い、彼の右手を取って立たせたのです。 
弟子たちの奉仕は(12節)自分たちの力とか信仰深さとかではなく、イエスの御名の力であり、イエスご自身によるみ業であると証ししています。
聖霊はいつもキリストの素晴らしさを現わし、イエスの名による奉仕に働かれるのです。

V.人を新しく造りかえる聖霊
男は、毎日 「美しの門」 という名の宮の門まで運ばれて、置いてもらっていました。
誰かに依存しないと生きられない毎日でした。
聖霊はペテロたちを彼のもとに遣わしてくださったのです。
(7〜8節)男がイエスの御名を信じていやされ、立ち、歩き出す様子は、彼の上に聖霊のいのちの業が見事になされているのを見ます。
彼が歩けるという外側の問題に留まらず、彼の内側が新しくされたのです。
不満や不平ではなく、神に感謝し神を賛美する者に、依存ではなく自分の足で立って宮に入り、祈りと礼拝を捧げる者にと変えられたのです。

W.結び
御名を信じる信仰のゆえに、16節、
「イエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。」
主を信じる者として、聖霊が私たちを自由に用いてくださるように、主を信じる信仰を強めて頂き、成長できるように、主にしっかりとつながっていきましょう。