小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/06/07 7:49:43|先週の礼拝から
聖霊による恵み
国光幾代子 師のお話から  主要テキスト:14章27節、ヨハネ15章5節、16章33節

T.恵みに満ちた人生
私が救われたのは16歳の時でした。
それまで教会とは無縁で外国の宗教くらいに思っていました。
その頃は、ホーリネスの群れでしたので、御教会にまいりましても身近に感じます。
戦中の弾圧により教会を離れてしまい、終戦後30歳の時に、インマヌエル教団に導かれ献身致しました。
そして60年間牧師として歩み、これは素晴らしい恵みの人生でした。
残された年月(現在91歳)を神がさせようとしている仕事があれば百%全うしていきたいと思っています。

U.聖霊降臨と教会誕生
今日は聖霊についてのお話ですが、分かったようではっきりしない、もどかしいところから、神様が1つひとつ教え導いて下さいました。
聖霊については、旧約のヨエル2章28節において 「わたしの霊をすべての人に注ぐ」 という預言があるが、イエスが召されて、復活して、40日後に天に帰られました。更に10日目にイエスの約束された聖霊がおいで下さったのです。
ヨハネ伝14章〜16章で、イエスが十字架に架かられる前に、弟子たちとの晩餐の席上で、遺言的なメッセージを致しました。
ご自分が去っていかれると寂しくなるでしょうと 「あなたがたを捨てて孤児にはしません」 また 「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」 と、約束して天に帰られました。
その約束が実現したのが、このペンテコステ(聖霊降臨)です。
それまで弟子たちの信仰は浮き沈みの多い不安定な人達でしたが、聖霊をいただいて、地の果てにまで主の証人になる力をいただいたのです。
こうして教会が誕生し、この福音が全世界に伝えられたのです。
教会はペンテコステからはじまりました。
この教会はイエスのみ体であり、教会の頭はキリストです。
ですから栃木いこいの泉もこの地域の灯台なのです。
ペンテコステは一般的に知られていませんが、この出来事によって今の教会が存在しているのです。

V.いつも内におられるお方
次に聖霊についてですが、わたしにとって、父なる神は全宇宙を創造し、治めているお方だというと分かり易い。
イエス様は十字架に架かった方で歴史上のお方ですから分かりやすい。
でも聖霊は分かったと言えないような存在でした。
それが、ここに富子先生がおられると認められることと同じように、ここにいるわたしの内にいてくださるということが、次第しだいに認められるようになりました。
そのきっかけは、あるときメッセージを聞きながら、苦しみも、悲しみも、喜びも、分かってくださるお方だ。
ヨハネ14章17節のように、その方は人格を持っているお方だ。
何でも分かってくださるお方だ。
すべての良きことを私たちの内に持ち運んでくださる。
私たちが信仰者として成長するために、なにくれとなくお世話をして下さるお方でいらっしゃる。
イエスは聖霊によって私たちの心に(内に)宿ってくださる。
世界中どこにいても神が共にいて下さるというのは、聖霊によって共におられるからです。

W.聖霊の実
次に聖霊はどんな恵みを与えるのでしょうか。
ヨハネ14章27節には 「平安を与えます」 とあります。
私は週に二度、介護ヘルパーさんに来ていただきますが、いつも心休まるといわれます。
悩みはありますが、心配してくださる神にお話しします。
神が共に悩んで下さるとおっしゃいます。
ヨハネ14章27節 「・・・・わたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。・・・・・」 どんな時にも平安が心を支配しているのです。
そしてヨハネ15章5節 「・・・・・・人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。・・・・・・・」 とありますが、とどまるとは、イエス様にとどまることです。
私たちの人生の中でどのような実が結ばれるのでしょうか。
聖書には先ず “悔い改めの実” とあります。
イエス様につながるときに罪が示され、お詫びするということが大切です。
聖霊につながるときに、今までの汚いものを持ってふたをしたまま迎えるということはできないのです。
私たちは、アダムとエバ以来、神中心ではなく自分中心になってしまいました。
この罪をイエス様が十字架で全ての責任を負ってくださった。
それで罪が赦され義としてくださる。
これが聖書の大きなメッセージなのです。
第二は “奉仕の実” です。
奉仕をする力の実が与えられます。
神が力をくださり人の前で大胆に福音を語るのです。
第三は “人格的な実” が結ばれます。
その実とはガラテヤ5章23節〜 「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」 これは自分の努力やガンバリではなく、聖霊の力によって、みことばのミルクによって人格が成長し、その人自身が変わって行くのです。

そして最後に勝利です。
ヨハネ16章33節 「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」







2010/06/05 9:15:10|先週の礼拝から
立派な信仰
芳賀 功 師のお話から  主要テキスト:ルカ7章1〜10節

T.ほめられた人
9節、人間にとって 「あなたは立派です」 と言われるゆえんとしては何が一番嬉しいでしょうか。
いろいろな論功・行賞でしょうか。
聖書によるなら信仰でしょう。
しかし、新約聖書で権威ある方から立派だといわれた人は、二人しかいません。
今日はそのうちの一人である百人隊長の物語です。
9節 「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」

U.謙虚な態度
先ずこの隊長の事ですが、9節にありますようにイエスを驚かせてしまう程の信仰だったいうのです。
信仰は信じる対象(イエス様)となるお方を信頼し、その背後にあることば(聖書)を信じ、その方と人格的に交わり、その方に委ねることです。
それをこの百人隊長の物語から学ぶことができるのです。

ある時、この百人隊長の部下が急に病にかかり重症になってしまいました。
この部下は隊長がたよりにしていた大切な方で、2節に 「隊長に重んじられている」 とあります。
幸運にもイエス様がカペナウムに来ているという情報を得たので、治していただきたいと思いました。
しかし、隊長自身はイスラエル人ではなく異邦人なので、直接会うのは失礼だと考えたのです。
仕方なくユダヤ人教会の役員さん(友人)に思いを伝えて、イエス様にたのんでもらう様に依頼しました。
イエス様はこの役員さん達の熱心な話を聞いて、異邦人でも治してあげたいと思われたようで、百人隊長の家に向かったのです。
一方、百人隊長自身も、イエス様は必ず治して下さると信じておりましたが、6節、イエス様が 「百人隊長の家からあまり遠くない所に来られた」 とき、もう一度 「友人たちを使いに出し・・・・ 『主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。・・・・・ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。』 と伝えたのです。

V.お言葉の権威
更に彼は 「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」 という信頼があったのです。
それはイエス様の権威に対する信頼です。8節 「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに 『行け。』 と言えば行きますし、別の者に 『来い。』 と言えば来ます。また、しもべに 『これをせよ。』 と言えば、そのとおりにいたします。」 つまり部下は私の命令に命を捨ててでも従う、これが軍隊の権威です。
でもイエス様あなたは、百人隊長、千人の部隊長、あるいはローマ皇帝の権威をはるかに越えた全知全能の権威ある方です・・・・と言いたかったでしょうし、またそのように信じたのです。

イエスは、その謙虚なこころに感動し、こころ動かされて、9節 「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」 と言ったのです。
この百人隊長は、自分の立場とか権威をかなぐり捨てて、イエスにすがり、信じぬいたのです。
そして、自分が罪だらけの身で、愛される資格なんか全くないにもかかわらず、神に愛されているということが分かり、神様の絶対的権威を信じ、信頼したのであります。

Tペテロ2章12節 「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。・・・・・・あなたがたのそのりっぱな行ないを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。」







2010/05/16 19:36:28|先週の礼拝から
あきらめなかった母親
芳賀 富子師のお話から  主要テキスト:マタイ15章21〜28節

苦悩をかかえた母親の信仰をこの箇所から学びたいと思います。

T.するとカナン人の女が出てきて
(22節)イエス様がこの地方に来られたのは、先にも後にもこの時しかありませんでした。
「主よ。ダビデの子よ」 と異邦人である彼女が叫んでいる事は、驚きです。
イエス様のうわさがすでにこの地方に行きわたっていたのです。
自分の異邦人という立場や境遇などに、なりふりかまわずイエス様が来られたことを耳にして、そのチャンスを捉えたのです。
彼女の信仰は機会を捉えた信仰です。

U.私をあわれんでください
娘が悪霊に取りつかれているという現実を、誰かのせいにしたり環境や状況のせいにしたりしていません。
苦しむ娘をどうすることもできない。
代わってやることもできない自分。
主のあわれみにのみすがる以外にないということを知らされたのです。
イエスに 「子犬」 と言われても 「そのとおりです」 と受け入れ、怒って帰ってしまわないへりくだりを見ます。
彼女は謙遜な信仰を働かせています。

V.試された中で豊かにされた信仰
(22節)イエスに叫び声をあげ娘のいやしを求めたのに、(23節)沈黙されています。
弟子たちも心無い対応をしてしまいます。
(24節)拒絶され無視されたかのように感じる言葉を主は言っています。
(25節)彼女はこの方以外に娘を治す事はできないとひれ伏して願ったのです。
(26節) 「・・・子犬に投げてやるのはよくないことです」 とのことばをカナン人に対する差別としてではなく、ユーモアとして捉え、(27節)彼女もまたユーモアをもって、その言葉を用いて信仰のボールを投げ返したのです。
そこに試みの中で成長し、豊かにされていく信仰を見ます。

W.あなたの信仰は立派です
(28節)悪霊に取りつかれた娘のいやしを求めてイエスのところにやってきた母親は、沈黙・心ない扱い・否定に聞こえることばなどに屈することなく、心を頑なにして卑屈にならず、決してあきらめず、唯、あわれみに依りすがる事に徹したのです。
「子犬」 といわれてもなおへりくだって求める信仰は、主に高く評価され、娘はいやされたのです。
私たちは、主に求めながら答えられないように思って、容易にあきらめて、祈り続けることを止めてしまうことはないでしょうか。
主は必ず答えて下さると信じ祈りましょう。
求め続けましょう。
ルカ18章1節、ルカ11章9〜10節







2010/05/10 13:38:21|先週の礼拝から
最も偉い者
芳賀 功師  主要テキスト:ルカ9章46〜48節

T.今日の聖書
本日の中心になる聖書箇所を読んでみましょう。
ルカ9章46節、 「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。
47節、しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、48節、彼らに言われた。
「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。
また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。
あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

イエス様の答えは、弟子たちの考えと極端に違っていました。
少し具体的に見ていきましょう。

U.弟子たちの心
弟子たちの心は、これまでの生活経験から、誰が最初にイエスの弟子になったのか、弟子経験が長いのは誰かといった観点と、偉い者が方針を決め、指図するようになると考えたでしょう。
「誰がだれより偉いか」 という基準が人間社会の慣習に似たものだったのでしょう。
こうした考えは、年功序列による自己満足と成長の停滞を生み易くなります。

V.イエス様の心
一方、イエス様のお心とは、どんな心でしょう。
48節 「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。」 と言われます。
この場合の子供とは 「かわいらしい」 というよりも、あまり価値のない者、あるいは価値の少ない者という意味です。
従って何の役にも立たないと思えるような子供(小さな者)を、自分のそばに抱き寄せ、受け入れたのです(マルコ9章36節参照)。
受け入れるとは歓迎するという意味です。
喜んで、自分の子だと言わんばかりに、幼子を招き受け入れ大切に抱きかかえるという行為は、愛の現われでしょう。

W.現代社会
一方、現代社会にある業績主義は、勝ち組の自惚れや自慢する心と、その対極の嫉妬する心や憎しみを生み、人間疎外と争いに発展します。
これが人間社会での悲しい現実です。
更に、現実の社会においては、小さな者の居場所すらないのです。
私は最近、ある青年と会いました。
お母さんと話し合って、中田記念館で生活していただくことになりました。
イエス様は、殺伐とした勝ち組でも、日陰に生きる負け組みでも、あわれみをもって救い、受け入れてくださいます。
これがイエス様のメッセージですから。
その方はまだ若い方ですから、人生を棒にふってしまうことがないようにと願いました。

X.重要なテーマ
イエス様は、私たちを受け入れてくださいました。
更に、どのような人でも受け入れ、私たちに、どんな人々をも受け入れるようにと勧めておられるのです。
私たちは、イエス様に受け入れていただいていますが、自分で一大決心をして、思いを定めて、イエス様を信じたのでしょうか。
ヨハネ15章16節、 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」 とあり、前述の、誰が一番偉いのかという議論は、これを忘れて、思いあがりから生じていると言えるでしょう。
すごい事だと感じました。
価値の少ない者なのに尊い存在として選ばれたのです。
それゆえに私たちは強く生きられるし、また愛されている事に感謝して祈りたいのです。

Y.神様のなさること
私たちは、その存在を認められ、自分の居場所が欲しいのです。
神が 「あなたはいま、そのままで、そこにいて良い」 というので、人は安息を得るのです。
人は愛されて、神によって充足するのです。
愛されているという自覚が生まれると、愛して下さる方を信頼するでしょう。
人の存在を喜んでくださる方がおられる。
その存在を喜ぶ誰かがいる。
誰かの役に立っている。
小さいけど前向きに生きよう。
イエス様は、このような偉い人を探しているのではないでしょうか。

こうして、人がイエス・キリストにとどまるとき、神の子供として実を結ばせくださるのではないでしょうか。







2010/05/06 16:17:13|先週の礼拝から
人生最大の問題
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:ルカ13章1〜9節

イースターに関するメッセージが3回にわたって聖書から学びました。
今日は、ルカ13章から悔い改めについてのお話です。

T.イエスの目的
イエス・キリストが30歳で公に伝道をはじめた時の中心メッセージは、神の恵みと悔い改めです。
ルカ5章32節では次のように言っています。
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、悔い改めさせるために来たのです。」 これが主な目的です。

U.事件や事故
そこで先ず1〜5節を見ると、実際にあった事件をイエス様に報告するところからはじまります。
報告された事件は、1節、総督ピラトが、ガリラヤ人に血を流すような処刑を加え、その血をガリラヤ人が献げようと準備していた“いけにえに混ぜた”というものです。
もう一つ。
前述の事件以前に、イエスも民衆にも知られていた事件でしょうか。
エルサレム市内の水道工事中にシロアムの塔が倒れ、18人もの人が死んだが、その工事の指示責任者が総督ピラトであり、ピラトが神殿にささげられたお金を工事費用として充てさせていたということだそうです。
事件の報告者は、総督ピラトの横暴な政治姿勢を念頭に置きつつ、責任者ピラトにバチがあたったと考えたようです。
一般日本人の考えに似ていますね。
イエス様ならどう答えるか。
反ローマ的批判や被害者の罪深さを、イエスが言ってくれるだろうと期待していたようです。

V.悔い改めないなら
イエス様の答えを確認しよう。
処刑されたガリラヤ人や亡くなった18人の被害者について、ほかのガリラヤ人やエルサレム住人たち以上に罪深い人たちだったとでも思うのかと言われました。
先の報告者の思いを表現されたのでしょう。
そして、 「そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」 と答え、ピラトに関する発言はしませんでした。
言い換えるなら、因果応報ではありません。
あなたがたも(人は誰でも)悔い改めないなら(神様との関係を正常にしないなら)みな同じように滅びます(永遠のいのちの保証がないようです)ということです。
人は誰でも神の前では罪深い存在です。
もし悔い改めないなら、やがてあなたがたも7節 「切り倒されて」 しまうのです。
これがイエス様のメッセージなのです。これは、私たちにとって大きな問題です。

V.恵みを用意し、忍耐して待つ神
そこで6節からはじまる例えですが、スポルジョン先生によると、悔い改めというのは 「神の恵み」 だと言います。
それは神様によって 「赦し」 という道に、導かれるからです。
しかし、人間は傲慢ですから、そんな簡単には 「ごめんなさい」 とは言いません。
それで、7節 「・・・・・三年も・・・・このいちじくの実(悔い改めの実)のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。・・・・・土地をふさいで・・・・』 と言う。
ぶどう園の経営者なら当たり前の判断です。
しかし番人(イエス様の心)は 「木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。」 つまり、恵みを注ぎ、猶予を与えて、憐みと忍耐をもって、待って下さるというのです。

W.人生最大の問題解決
人が悔い改められないのは、自分は主の前に正しい義なる者であるという思いがあって、自己を捨てきれないでいるのです。
神はわたしに何か問題があるからといって、すぐに切り捨ててしまうお方ではないのです。
わたしのような罪深い者を愛し悔い改めに導いて下さるのです。
それだけではなく、主に近づこうとすれば、主が近づいてくださるので、主に向かっていく生活、そういう姿勢にシフト(位置が移動する)していくという事を望まれています。
これが人生最大の問題解決なのです。

詩篇51篇17節 「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」