小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/05/01 11:05:06|先週の礼拝から
イエス、岸辺に立ち
芳賀富子師のおはなしから  主要テキスト:ヨハネ21章1〜14節

この箇所はイエス様がよみがえってから、ご自身を弟子達に現わされた三度目の出来事が記されています。
復活の主が私たちにとってどんなお方であられるかを学びたいと思います。

T.食べる物がありませんね
5節、イエス様は、弟子達が漁にでかけたことも、その夜、何もとれなかったことも知っていたのです。
弟子達の明け方までの労働は、3節、徒労に終わっていました。
肉体の疲れと先行きへの不安に、押しつぶされそうになっていた明け方、イエス様は岸辺から、5節、 「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」 と声をかけて下さいました。
それは弟子達の現実に、責めや、咎めではなく、慰めと同情に満ちたことばでした。
主は全てを御存知で、ご自分の方から働きかけて声をかけて下さっています。

U.舟の右側に
6節、何もとれなかった弟子達に、深みに漕ぎ出すのではなく、今いるその場所で舟の右側に網を下ろすように、「そうすれば、とれます。」 と約束されました。
プロの漁師である弟子たちも舟の右側に大量の魚がいることなど、イエス様が教えてくださるまで、主が働いて下さるまでは、少しも知りませんでした。
何もとれなかった無力感の中で、確信に満ちた力強い言葉に押し出されるようにして網をおろしたのです。
“そうすれば”との主の約束は真実でありました。
153匹の大漁でした。
「食べる物がない」、 「夜通し働いても何もとれなかった」 という状況の中で、主のことばは、間に合う助けとなって下さいました。詩篇46篇5節“神は夜明け前にこれを助け”られたのです。
この主のみ業で、弟子たちは主がよみがえられたという事実をより強く確信できたでありましょう。
そうして復活の主は、その弟子たちに使命の道へ導かれます(ヨハネ21章15〜17節)。

V.さあ来て
陸地に上がった弟子たちを待っていたものは、復活の主が備えてくださった朝食でありました(9節)。
「さあ来て、朝の食事をしなさい。」 と迎えられた弟子たちは、備えられた朝食で空腹が満たされ、主と共にいる事の幸い、交わりの喜びを満喫できた事でありましょう(12〜13節)。
主は豊かな備えをもって供給され、必要に十分に届いて下さる方です。

W.イエスから目を離さないで
ヘブル12章2節、復活の主は、私たちが道を迷う事がないように、なすべき事と行なうべき方向を、みことばをもって教え導いてくださり、希望と確信を与えて下さるお方として、伴って下さいます。
このイエス様から目を離すことなく、信頼して歩む者でありましょう。







2010/04/23 23:08:12|先週の礼拝から
あなたの生き様を貫け
芳賀 功 師のお話から    主要テキスト:ヨハネ20章24〜29節

T.復活の主を喜ぶ
三日、見ぬまの桜かな。
毎年、イースターの時期に満開になって、見に行こうかなと思うときにはみずみずしい葉桜になっています。
復活の信仰に生きる私たちは、世の嘲笑を恐れず、みずみずしい復活の主を喜ぶ生き様を貫いていきたいと願っていますし、主はその信仰を喜んで下さるのではないでしょうか。

U.いなかったトマス
さて、19〜20節、イエスがマグダラのマリアに会われた日の夕方、弟子達がいた所にイエスが来られ、 「平安があなたがたにあるように」 と言って手とわき腹を示されたので、弟子達は主を見て喜んだのです。
しかし、24節、トマスはイエスが来られた時にいなかったので、トマスが戻った時、25節、弟子たちは 「私たちは主を見た」 と言って、驚きと喜びを伝えたのです。
ところが、これに対するリアクションが典型的な一つの性格を現わしているので、彼を有名にしました。読んでお分かりのように、彼は 「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」 と言ったのです。
否、言葉の内容からすれば、言い放った、言い切った、へらずぐちをたたいた、わめいた、等というべきでしょうか。
彼も直接見て喜びたかったのに、半信半疑のままの自分が、疎ましかったのでしょうか。
そうだとすれば、彼の心はうめいていたとでも言うべきでしょう。
詳しく知ることはできませんが、多くの人に、疑い深く慎重な人物の代表者として、後世の人々に認識され“トマス派”などと言う言葉さえあるそうです。

V.湧き上がる疑問
トマスは、どう思っただろう。
常識なら、死んだ人間が再び命を得るとは考えにくい。
親しい友人から教えられても信じられない。
幽霊か幻でも見たか。
とにかく何かの誤解だろう。
いつもユダヤ人の襲撃を警戒して戸を閉めているのに、入ってきたとはどういうことか。
その時も閉めてあったと、誰かが言っていた(その時の体は神秘的な体に変わっていたと、神学者は考えるそうです)。
墓が空だったのは、遺体を誰かが別の所へ移動したかも。・・・・・・etc。
他にも理解できない事が多すぎるではないか。(現代の私なら“ドッキリの仕掛け”)。
だから、他の弟子たちが信じたからといって、“それなら自分もそういうことにしておこう”というように確信がないのに妥協するという事は、絶対に受け入れられないというのがトマスの生き方なのです。
こうした疑問と生き方が、前述の 「私は、その手に釘の跡を見、・・・・・みなければ、決して信じません。」 となったのでしょう。 

W.八日後のリアクション
26節、八日後(一週間後の日曜日)に、イエスはわざわざトマスにも現れて下さいました。
そして27節 「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」 と言われました。
ここで、トマスの行動から、想像たくましく、その心中を覗いてみよう。
トマスは28節、他の弟子達と一緒にいたとき、イエス様を見た。
すごく驚いた。
私の先生だ。
だけど、イエス様の言葉は、先週の俺の発言を何故か知っている。
あっ、主だ。
私の主だ。
この方こそ私の神だ。
・・・・・・こうして、彼は28節の信仰告白に至ったと考える事ができよう。
指を傷口に入れて、もう一度痛みを加える事など、自分の発言であっても、出来ようはずがないのです。
神の前に、ひれ伏す以外になかったのです。
そして、 「私の主。私の神。」 という信仰告白は、――これからはどんなことでも、心から従います。――という意味があると言われます。
彼は勤勉で、素晴らしい人間性の持ち主です。
「信じない」発言の時も、自分の心、自分の感情や理性に正直だったのです。
ヨハネ11章16節のトマスを見よう。
ラザロが死んで、イエス様が 「さぁ、彼のところへ行きましょう」 と言われた時、トマスは 「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか。」 と言ったほどです。
この発言は、早とちりでしたが、主に対しても誠実な人だと感じます。
イエス様は、たった一人の失われた魂のために、貴重な時間を用いられるお方です。
トマスの心を良く御存知だったのです。
決してその時の不信仰をとがめたりなさらなかったのです。
そればかりか、トマスの 「信じない」 発言を用いて、大切な言葉をかたられたのです。

X.見ないで信じる
イエス様は、29節でトマスの信仰告白を聞かれたのち、 「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」 と言われました。
イエスの身近で生き、主のよみがえりを見て、よみがえりに立ち会って、その証人となった弟子達は幸いでした。
しかし、Tペテロ1章8〜10節 「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。・・・・・」 とあるように、 「見ずに信じる者」 も幸いなのです。

Y.貫くこと
トマスの生き様は、イエスによって 「信じない」 者から 「私の主。私の神。」 と告白する程に、百八十度変えられました。
しかし、自分の心に、自分の理性に、正直であり続けるという性質を、一貫して持ち続けたのではないか。
私たちは今、 「見ないで信じる者」 として、復活の信仰に生きる生き方を貫けと言われているのではないでしょうか。                              編集責任 H&K







2010/04/12 15:42:39|先週の礼拝から
主はよみがえられた (イースター礼拝)
芳賀  功 師のお話から    主要テキスト:ルカ24章1〜12節

T.イースター
イースター(復活節)おめでとうございます。
イースターは日付が変動しますが、今年は、4月4日(日)、本日でございます。
そして今朝の主要なみことばは、ルカ24章5〜7節、およびヨハネ20章1〜8節です。
ルカ5〜7節、  「・・・・その人たちはこう言った。『あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。ここにはおられません。よみがえられたのです。・・・・思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならないと言われたでしょう。』 とあります。
聖書は・・・・よみがえられたのです・・・・と伝えていますので、今日のタイトルも 「主はよみがえられた」 となりました。

U.女たち
イエス様が葬られて、三日目の明け方、墓に行ったときの様子を弟子達に伝えようと走る女達に、イエス様が出会って、 「おはよう。」 (マタイ28章9節)と言われました。
この女達にとって、どれ程深い喜びとして心に残った事だろう。ルカ24章2節、重い石は 「墓からわきにころがしてあった」 し、墓を守る番兵さえいなかった。
ただ、墓の中に主イエスのからだが見つからなかった時は途方にくれた。
6節、まばゆいばかりの衣を着た人に 「・・・・思い出しなさい」 と勧告された時は、おろおろしてしまった。
そして、弟子たちに報告したのに信用してもらえなかった。
しかし、イエスの死体に塗ろうとして持って行った香料の事など微塵も記憶に残らなかったようです。

V.ヨハネ
ヨハネ20章2節で、“もう一人の弟子”とは、ヨハネの自己紹介でしょう。
前述の女たちと別の行動をしたマグダラのマリヤから、 「だれかが墓から主を取って行きました。・・・・」 と聞いて、4節、ペテロと彼は墓に向かって走りました。
ヨハネ20章5〜7節をよく見ると、“見る”と和訳されているみことばが3回でてきます。
この“見る”をギリシャ語で確認すると異なる三つの言葉です。
5節、 「亜麻布が置いてあるのを見た」 のは、ギリシャ語で「ブレボー」といい、ヨハネがかがみ込んで墓を覗いた時に、“見えた”、英訳文では“looked”です。
次に7節 「頭に巻かれていた布切れは、・・・・離れた所に巻かれたままになっているのを見た」 とは、ギリシャ語で 「セオー、レオー」 という言葉であり、確かめ、調べてみるという意味です。
だから、(墓に入って)近づいて見たのでしょう。
頭の布切れは、(イエスの頭に巻かれた時と同じように)巻かれたままになっているのを見たのでしょう。
8節「見て、信じた」とは、ギリシャ語で 「ホラオー」 という言葉で、見て納得したという意味です。
英語では“see”の過去の“saw”です。
ヨハネはじっと観察したのです。
こうして、主は実によみがえられたのだと悟ったので、現代のわたしたちも事実として受け止められるように、丁寧に記録したのでしょう。

W.その石
十字架の事件から三日目、週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに幾組かの女たちが、別々に墓に来たが、墓の入り口の石は取り除けてあった。常識的な感覚なら石でふさがれているのだが、ありゃ“不思議発見”といったところでしょうか。
神のなさるわざです。

これによって思い出すのは、ヨハネ11章38〜ラザロの復活のみことばです。
ラザロが死んだので、人々は悲しみ、泣いていました。
イエス様が墓に来て、39節、 「その石を取りのけなさい。」と言われました。
 ここで“その石”とは、目の前の墓に立てかけてある石でしょうが、イエス様は、別の“その石”を思われていたのではないか。
人々が悲しみ、泣く原因となっている“その石”。
「主よ。もう臭く・・・・。四日になりますから。」 と言わせる“その石”。
世の常識を超越させまいとする“その石”。
神の栄光を見させまいとする“その石”。
石の様にガンコな固定観念。
石のふたで塞いで、自分にさえ実態が見えない魂。
自分の罪が見えないので、罪を認めようとせず、悔い改めようとしない魂。
神から離れ、自分の判断とやり方でなんとかしようとして、神の救いをかたくなに拒む心。
これらは大型クレーン車も歯がたたず、微動だにできない“その石”でしょう。

42節を見ると、イエス様は神を求める者の 「その石を取りのけてあげたい。」 と思われながら、43節、 「ラザロよ。出て来なさい。」 と言われたように、わたしは感じます。
それで、45節、そこに居合わせた人々の中の、多くの人々が“その石”を取り除いていただいたようです。
世の常識を遥かに超えた、ラザロのいのちの復活という神のわざを、直接見たのですから。

X.生き方
だから、神にとって不可能なことはないと信じ続けたいのです。
山を移す程の力が、神にはあるからです。
墓をふさぐ石のような心なのに、イエスのよみがえりを信じ、心に神をお迎えするときに、生き方が変わり、人生が変わる経験をするのです。

Y.信仰と実際生活
大切なことは、復活のイエスを自分の目や体で、体験的に知った弟子達のように(弟子達は見た)、聖書を通して(わたしたちには見られない)、イエス様と一緒に歩む追体験を積み重ねながら、実際生活の各場面における、救いの確認が必要だと感じています。
弟子達でさえ、実生活の中で、自分の弱さや罪に気付き、イエス様からの赦しと恵みによって強められていったからです。
信仰は、知識だけで経験的知識がないと、生きて働かないおそれがあるからです。
心の傷や挫折を通して、心の深みに届く恵みの経験も有効です。
私の場合、セールスマン時代に自己破産の憂き目に遭い、全ての財産を失い、挫折し、その絶望のあとに 「この山があそこに移れ」 と言えば移るという、主の十字架とよみがえりのような大逆転があったのです。

Z.希望
マタイ22章32節に 「神は死んだ者の神ではありません。(信仰によって)生きている者の神です。」 とありますが、よみがえった神は、今も生きて働いて、私たちのために執りなしていてくださいます。
わたしは、わたしのために死んでよみがえった神、復活の体を私たちに与える事ができる神、全能の力を持って支えて下さる神を頼りにしているのです。







2010/04/06 10:11:59|先週の礼拝から
ゲッセマネと十字架
芳賀 富子師のお話から    主要テキスト:マタイ26章36〜46節

今日から受難週に入ります。この朝はゲッセマネの園で弟子達と最後の時を過ごされ、祈られたイエス様ご自身の姿から学びたいと思います。

T.わたしと一緒に
(38節)イエス様は、公生涯を通して、群衆や弟子たちから離れ、しばしば一人になられ、祈りの時をもたれて、具体的働きに備えられました。
この園も祈りの場として愛された所でした。
譬えをもって祈りを教えられた主は、弟子達にご自分の祈る姿をもって、ここで 「わたしと一緒に目を覚ましていなさい」 、 「私は悲しみのあまり死ぬほどです」 と告げられています。
主の悲しみを共に悲しみ、その苦しみを共に苦しむ祈りの友となって、祈る事を求められたのではないでしょうか。
(43節)しかし弟子たちは、目をあけていることができなかったのです。
すでにイスカリオテのユダは主を裏切り去っていき、ペテロも主を否むという厳粛な予告をされたにもかかわらず、その警戒を心に留めずやがて失敗をしてしまうのです。
イエス様は、弟子達の肉体的、霊的、精神的弱さをすべて御存知でありながらも、それでも弟子達が一緒に祈ってくれることを期待されたのではないでしょうか。
それほど、主は人としての弱さをも持ったお方になってくださったのです。

U.みこころのとおりを
(39節) 「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」 と祈ります。
主は、この前半で、率直にご自分の願いを打明けています。
イザヤは、53章6節で 「主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」 と預言しました。
罪を知らないお方が、神の怒りとしての死(ローマ6章23節)を経験するということは、どんなに耐え難いことであったでしょうか。
けれども 「しかし、・・・・あなたのみこころのように、」 と祈っています。
イエス様は、ヨハネ4章34節 「みこころを行ない、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。」 とも告げられています。
その主が十字架を前にして、 「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」 と祈られたのです。
イエス様の中に揺れ動く葛藤、サタンとの戦いを思わされます。
その祈りの戦い・苦祷の中で、主は父なる神に従うことを選び取っています。
――(42節) 「どうぞみこころのとおりを、」 、(マルコ14章36節) 「みこころのままを、」 ――と、ご自分の意志を全面的に、もう一度、神に明け渡した祈りをみます。
(イザヤ51章17節)杯は 「神の激しい怒り」 をさすと言われます。
その神の怒りの杯を、メシアである御自分が飲むことを通してでなければ、神の救いの計画が実現しないことを確信され、十字架に向かわれたのです。
(Uコリント5章21節)「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。」

V.ゲッセマネの祈りより
(a)私たちは目の前に直面している、負いきれないような問題、課題を、ありのまま主のもとに持ちゆいて祈り、もとめて良いのだということ。
(b)(マルコ14章36節)神には不可能な事がないという全面的な信頼をもって、祈りをするということ。
(c)悩みつつ葛藤を覚えつつも、祈り続ける、祈りを決してやめない、ということです。

W.いつものように
主がいつものように、いつもの場所で祈られたように、普段の祈りの生活を大切にし、神との交わり、みことばに心をとめていく営みを培っていくことが、私の願いではなく、神のみこころを選び取っていける者へと整えて頂ける基礎なのです。(詩16篇8節、詩40篇8節)







2010/04/02 21:31:22|先週の礼拝から
あなたの友、あなたの父の友を捨てるな
内田 彰師(前橋上泉町教会)のお話から 主要テキスト:箴言27章10節

T.挨拶 
御教会にお招きいただきまして感謝致します。
今回で三回目になります。
また、私共の教会は開拓を始めて6年が経過致しましたが、お互いに教会を建てあげる困難さは同じです。
ですからこの教会が主に祝福されて、世の光・地の塩としていつまでも存続して欲しいと願っています。

U.友を捨てるな 
今日のみことばの中心は 「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。」 です。
人はだれでも、若い時は自分一人でも生きていけるというふうに思っておりました。
しかし病にかかったとき初めて、自分一人では生きていくのは無理だと感じ、互いに支えられているものだと思いました。
特に妻に支えられたのですが、牧師であっても人間である以上自分の心の中にある不安や焦りが出てきます。
そんな時、聖書を読んで自分の心の中にある不安や焦りが出てきます。
そんな時、聖書を読んでなぐさめられる時など、信仰を持っていて本当によかったと思う次第です。
ですから、私は一人で生きていけると言い切れる人はいないだろうと思います。
聖書は「友を捨てるな」と警告しています。

V. 一人では生きられない
私の母の妹にあたる叔母のことですが、叔母の娘さんが病で倒れ、一人暮らしになり、八十歳を過ぎていましたので冬など雪のために買い物もできないのです。
そのうちに孤独になり、気が滅入り、不安になって、壁に向かってお話をして、寂しさを紛らわしていました。
いよいよ一人で住めなくなりまして、一緒に住むようにして頂けないかと言ってきたときに、人は一人では生きていけないんだということが分かりました。
この叔母のことは、実は氷山の一角で、日本中に一人ぼっち感が押し寄せてきているのではないでしょうか。

W.無縁社会が来た 
先日、NHKのあるテレビ番組を見ておりましたら、同じような事例を紹介して、これを無縁社会が来たといっておりました。
縁には、先ず血縁を挙げるでしょう。
血は水よりも濃いと言いますが、いま、親が子を捨て、子が親を殺す、というように、家庭が崩壊して血縁が壊れ始めてきています。
夫婦関係が血縁の原点ですが、それが崩れてしまって、無縁になりかかっているのです。
第二は地縁です。
私の住んでいる所はまだ田舎ですが、お会いしてもあまり会話がないのです。
隣組の集いも段々無くなって、葬儀も○○会館といった業者がやってしまいますから、自然に交わりが無くなっていきます。
第三は社縁という縁です。
会社・職場のつながりです。
社員旅行がなくなり、現在はいつの間にかリストラされていなくなってしまうのです。
ですから、家庭において、地域において、職場において、今まさに無縁社会が始まっています。

X.寂しい死・苦しい死 
その結果、孤独死、一人寂しく死をとげてしまう人も、年間で36000人を超えているそうです。
死ぬ時も一人ぼっちで、看取ってくれる人が誰もいないという寂しさ、つらさ、不安、もし自分だったら耐えられないと思うのですがいかがでしょう。
それと同時にわが国の自殺者が32000人です。
うつ病が国民病となりつつあります。
無縁社会の中で、自殺せざるを得ない状態に追い込まれて、一人で生きることができない状態になっていく社会が現代なのだということです。
私の知るお嬢さんも手首に傷を付けて、何回も自殺を試みています。
自分で自分を痛めているのです。
それはこの娘さんでなければ理解できない寂しさ、苦しさがあり、分かってあげなければいけないと思うのです。

Y.人の望むもの 
このような悩みをどの様に助けてあげられるのでしょうか。
人の魂をいやすものは、酒でも、パチンコでもありません。
箴言19章 「人の望むものは、人の変わらぬ愛である。」 とありますように、生身を持った人間は神の愛を説明されても、体で感じる事ができないとわからないのです。
ではどこで私たちを生かす力を見つけられるのだろうか。
頭で分かっていても人間は心と魂と体とで成り立っています。
だから体が元気でも心が砕けてくることがあります。

Z.まとめ 
さて、 「あなたの友、あなたの父の友を捨てるな。」 ということばですが、父とは神なのです。
神を父として見上げている信仰の友を捨てるなというのです。
また 「あなたが災難に会うとき、兄弟の家に行くな。近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。」 とは、どんなに親しい友でも、主にある教会でも、神を父として見上げつつ“近くにいる隣人は”遠くにいる血を分けた兄弟にまさると聖書は言っているのです。

[.お願い 
人は一人で生きられず教会の中で生きていく。
だからこそ一人ひとりが、主の愛に支えられて主にある友としての交わりを、教会の中ではたしていく、という事がどんなに大切であるか。
こうした愛に溢れた素晴らしい栃木いこいの泉チャーチを、日毎に建てあげてほしいのです。