小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/03/23 9:07:21|先週の礼拝から
勇気を出しなさい
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:ヨハネ16章33節

T.今朝の中心聖句
今朝のお話はヨハネ16章33節 「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。
あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 が中心です。

U.患難と平安
私たちの教会で、親族の死と葬儀、体調を崩される方、手術を行なう方など、試練を受けられる方が続いており大変です。
私は、この様なことが起る前から 「勇気を出しなさい(口語訳)」というみことばが与えられており、今も励まされています。
落ち込んではいられませんね。
今朝のみことばは、14章から16章まで、イエス様が十字架にかかる前の最後の決別メッセージです。
この33節でイエス様は 「この世にあっては患難があります。」 とはっきり言われました。
辞書で“患難”をみますと、 「困難に出会って苦しみ悩む」 とあります。
当時の弟子達も、自分は強いと思っておりましたが、そのほとんどがイエスの十字架を見て、バラバラになって逃げ去りました。
弟子達も人間として弱く、一人ひとりの思いは、過信に過ぎませんでした。
人間の意志は弱いのです。
この世の困難、貧しさ、病気、ケガ、そして死に別れなど、つらい事がらが多々起ります。
こうした機会を巧みにとらえるサタンの攻撃によって、人間はもろくも崩れ去ります。
だから、前述のみことばのように、いつも患難の中に生きているという心構えが必要で、そのような時こそ自分の弱さを認め、イエス様を100%信頼することから来る平安を見失ってはならないのです。

V.一つの証し
信仰に生きた一つのあかしがあります。
アメリカの女性弁護士スパフォードさんは、船旅の途中で四人の子供を失いました。
「一人だけが助かりました。」という電報を受けたご主人は、絶望におちいりましたが、やがて、平安の詩(新聖歌252番)を書いたのです。
「安けさは川のごとく、心ひたす時・・・・・・・御神共にませば」 というあの有名な詩です。
十字架に現された愛によって、悲しみを乗り越え、平安を得て、勝利の賛美が生み出されました。

W.パウロの叫び
イエス様は 「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」 言われました。
パウロの伝道生活は困難と苦しみの連続でしたが、その中で神の恵みを味わっていたようです。
Tコリント15章10節で 「神の恵みによって、私は今の私になりました。」 とのべ、58節では 「あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」 と諭して下さいいます。
私たちの患難や悲しみが、喜びや平安に変わる三つの理由があります。
その第一はイエス様の十字架とよみがえりです。
絶望的でみじめな死が、勝利と栄光に変えられた事、これこそが罪と死の裁きから救われ、嘆きと悲しみが喜びと平安に変わることです。
第二は助け主なぐさめ主なる聖霊を与えられた事により、天国への喜びに変えられることです。
最後はあの十字架によって、罪とサタンに勝利したイエス様が、再び私たちのところに来て会われるという希望によるものです。

X.世に打ち勝つ
この信仰によって、主はすべての患難や悲しみから助けてくださり、私たちや家族の流した涙を、平安と静かな喜びに変えて下さるのではないでしょうか。
だから私たちはイエス様によって勇敢であり続けたいのです。
これが33節の 「わたしはすでに世に勝った」という信仰です。
Tヨハネ5章4〜5節、ヨハネは 「なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」と書き残しています。 







2010/03/13 20:41:19|先週の礼拝から
神の子供となる権威
有田貞一師のお話から  主要テキスト:ヨハネ1章1〜18節

T.概要
今日は、ヨハネ1章1〜5節と12節を中心に語りたいと思います。
先ず私たちがキリストを信じて歩むとは、どういうことなのか、またそれがどんなに素晴らしい事なのかをお話したいと思います。
この福音書はヨハネでありますが、これが書かれたのがAC90年頃で、当時、広く用いられていた言語であるギリシャ語で書かれました。
そして書かれた目的は、ヨハネ20章31節に書かれている通り「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため・・・・」です。
つまりこのいのちとは永遠のいのちのことであり、ギリシャ語でゾーエーという事であります。
イエスを信じるならば永遠のいのちを持つのですと聖書に書いてあるのです(ヨハネ3章36節)。

U.初めにおられ、今も生きて
先ず、ヨハネ1章1節〜5節を見て下さい。
「初めに、ことばがあった。・・・・」 ことばとはイエス・キリストのことです。
創造の御業が開始される前にイエスが存在していたという事です。
そして 「あった」 とはギリシャ語ではエーンと書かれていて、これは未完了過去で、過去にあったことで今も続いているという事で、初めにキリストがおられ、今もおられて、生きているという意味です。
1章10節は 「この方はもとから世におられ・・・・」 と表現しています。

V.ことば(ロゴス)―創造者
また14節 「ことばは人となって・・・・」 これは当時のギリシャ哲学のストア派の専門用語で、宇宙に存在する神的原理という意味がロゴスということばに使われていたのです。
ヨハネはこの言葉を使ってイエス・キリストを現わしました。
そして3節 「すべてのものは、この方によって造られた。」 4節 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」 と続きます。
イエス様ご自身が光であるという事です。
エペソ1章4節に 「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び・・・・」 とあります。

W.神・罪・救い
創世記1章26〜27節、神は 「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を・・・・」 造られたが、私たちは神から離れていって、罪が入ってきたのです。
ですから私を創造したときの姿に戻していくこと、これが救いであり、その人は 永遠のいのちに入っていくわけです。
だから、本来の人間の姿に戻っていくという事がイエス・キリストを信じるということです。

X.権威
ヨハネ1章11〜12節 「・・・・・ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、・・・・神の子どもとされる特権をお与えになった。」 イエス様を信じた少数の人々に神の子とされる特権をお与えになりましたが、この“特権”と訳されたギリシャ語の原文を直訳すると“権威”と訳されます。
ここが重要なところです。
私たちは、救われたというと受け身的に思われるが、権威が与えられたという事です。
つまり今日のタイトルを付けさせていただいた意味がここにあります。
クリスチャンになるという事は、全く違う人生が与えられているという事です。
その素晴らしさを今日はお互いに分かち合いたいと思うわけです。
マタイ7章29節に 「イエスが、・・・・・・権威ある者のように教えられた」 とあるが、同じことばです。
ルカ7章8節の百人隊長のことばもそうです。
使徒8章19節のところでは、その権威をお金で買おうとした場面があります。
そこでペテロが 「あなたの金はあなたと共に滅びるが良い。」 「あなたは神の賜物を金で手に入れようとしている」 と言って拒絶します。
それらはみな同じことばが使われています。

Y.語り続けなさい
だから、この世の特権階級というよりも、永遠のいのちや神の御国の約束がなされているところです。
この世で福音を宣べ伝えるということは、迫害や嫉妬、うらみなどが集中してくることになろうかと思います。
それは私たちが非常に素晴らしいものを手に入れているからです。
ですから開拓伝道とか、そういうときには、非常に激しい戦いが現場では起こってくるのです。
そんな時に(使徒18章9節)パウロは 「語り続けなさい。黙ってはいけない。」 と直接言われて神の励ましを受けました。
私たちもお互いに励まし合いながら伝道に携わりたいと思います。

Z.はずかしめを受けても黙って
昭和63年頃のあかしですが、会社の戦中派の上司で、クリスチャンというと目のかたきにする人に、罵声を浴びせられたられた事がありました。(軍刀組という方々です)そのようなピンチの時に私は反論せず黙していました(箴言12章16節)。
そしてやがてその人は左遷され去っていったときに周りの人が喜んでくれたという事がありました。
その時、箴言24章17〜18節が与えられました。
このように福音をあかしするということは、日本のこの国においてはたやすい事ではありません。
従って私たちにはこの権威が与えられている事は素晴らしい事です。
それはこの永遠のいのちというのはイエス様の救い以外にないのであります。

[.御国の所有権
ヨハネ14章1〜3節には、永遠のいのち、天の御国に至る約束がされているところです。
私たちは天の御国を受け継いでいく財産の所有権を与えられています。
キリストと共に歩む人生の素晴らしさを味わう事が出来ます。

\.喜びを伝える
ヨハネ1章12節にありますようにクリスチャンになった方は、ただ者ではなくなったという事です。
素晴らしいものを手に入れたら、それを他の方にも分け与えたいという気持ちが当然出てくるのではないでしょうか。
伝道は難しい事をいう事ではありません。
救われた喜びを他の人に伝えていくという事は、私達の人生にとって大きな使命であり、目標となるのではないだろうか。







2010/03/01 8:15:12|先週の礼拝から
神の愛の目的
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:ヨハネ3章16節

T.結びに注目
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 ヨハネ3章16節。
このみことばは、良く知られた箇所であり、この言葉によって信仰を持った方の数は、非常に多いそうです。
また、聖書66巻をたった1節の短い言葉に凝縮しており、ミニ福音書と呼ばれているほどの素晴らしいみことばです。
そんなわけで、今日はこのみことばを憶えて、暗唱できる様になって帰っていただきたいと思います。

さて、今日の話のタイトルを、みことばにつき合わせると、“なぜ神はこの世を愛されたのだろうか”という問題提起で、その回答は 「ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 という結びのことばです。
ヨハネ20章31節でも、 「あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」 とあります。

U.いのちを持たないなら
私は、教会にくるまでは、愛なんて別の世界の事で何の知識もありませんでした。
うんとお金を残す人が男の中の男だと思っていて、自分のどこを切っても欲のカタマリでした。
そのような私。
そのままなら、ローマ6章23節 「罪から来る報酬は死です。」 だから、死んで、滅びるような私。・・・・・・もし、そのままなら・・・・・・。

V.1つの条件
神は、世(その私)を愛され、永遠のいのちを与えたいので、御子を遣わし、あの時、御子のいのちを投げ出すままにされました。

今日のみことばを見ると、1つの条件が書かれています。
神は、私たち一人ひとりに永遠のいのちだけではなく、もろもろの祝福を与え、キリストと共に生き、愛と喜びをもって御国に向かう、新しいいのちを与えようとされました。
しかし、そのいのちを持つには 「御子を信じる者」 という事が条件です。
この世は、信仰について否定的であり、信仰者にとって危機的な時代です。
いくら神を良く知り、知識があっても、愛する事の原点は信じるという態度からはじまるのです。
神が私たちを愛し救うからです。
この方(イエス)はどんな事が起こっても、人を変えることが出来るので、それを乗り越えさせ、未来の幸せを先取りさせるお方、これが信じる信仰の基礎(土台)です。

W.イエス・キリストのゆえに
私の営業マン生活の事を思い出してみた時に、光というより、どろまみれで闇の中の仕事でした。
実生活を神に委ね、信じて歩む事が怖かったのです。
闇の中に自分の正体を隠して、自分を買いかぶって生きてきました。
しかし、キリストを信じ信頼した時から、光を恐れなくなり、自由になりました。
こんなつたないわたしのために十字架で死んで下さった事を信じ、その事実をそのまま受け取った時から 「御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく」 ということばは、力強い救いのことばでした。
自分が醜く、罪深い姿であるにもかかわらず、キリストの愛、キリストのいのちゆえに、望みを抱いて生きられるのです。
ここに神の愛の目的があったと思うのです。                        編責H&K







2010/02/22 10:03:03|先週の礼拝から
神の御手
主要テキスト:イザヤ41章1〜15節

現実の厳しさの中で、人間は状況の変化や自分自身の弱さ、力の限界に直面させられる時、不安や恐れを覚えます。
10と13節に 「右の手」 とあります。神のみ手の力を、この箇所から学びたいと思います。

T.あなたを守る
守りのみ手は 「義の右の手」 とあります。
8〜9節で、神がイスラエルを選ばれた事、その子孫を導き続け、捨てなかった事、
10節で、巨大な敵の脅威に恐れて、おびえているイスラエルに 「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。」 と言われ、さらに 「たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」 としり込みしている民を励まし、 「義の右の手」 、公平を行なわれる 「神のみ手が守る」 と力強いことばをみます。
不正や悪がはびこる世にあって、恐れを覚えますが、神の義の右の手の守りの中に憩う者でありたい。

U.あなたを助ける
13節 「あなたの右の手を堅く握り、 「恐れるな。わたしがあなたを助ける。」 神の右の手が私たちの右の手を堅く握って下さるといえるのではないでしょうか。
マタイ14章29〜32節では、真夜中の海で風に悩まされていた弟子達のもとに、イエスが歩いてやってきました。
幽霊とまちがえて恐れた弟子達でした。
イエスだとわかると、ペテロが主の招きに応じて舟から出て水のうえを歩いて主のもとに向かったのです。
ところが風を見て怖くなり沈みかけ、 「主よ、助けて下さい」 と叫んだとき、イエスはすぐに手を伸ばして彼の手をつかんで救って下さいました。
主から目を離して風に気を取られてしまったからです。
私たちも目先の課題や問題に思いが行き、恐れてしまいます。
助けを求める者に主の御手がさしのべられました。
その助けは、遅れることのない間に合ってくださる助けです。

V.神のみ手は私たちを変えて(新しくして)下さる
14節 「恐れるな。虫けらのヤコブ。」 と自分の存在が無力で価値のない者、踏みつけられて死んでしまうような小さな民かもわかりません。
しかし15節 「鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。」 と驚くべきことばをみます。
神のみ手とは神のみわざを現わします。
神にとって不可能なことはありません(ルカ1章37節)。
イエス・キリストの十字架は人間の内側の罪の赦しをその身の代価によって、救いの道を開いてくださいました。
Uコリント5章17節、 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。」 その創造こそ、虫けらが 「鋭い、新しいもろ刃の打穀機とする。」 との変貌であり、神のみ手のわざです。
その変貌のわざはキリストにつながり続けていく中で、変えられ続けていくのです。
神のみ手のわざは内側からされます。神のみ手の力が、私たちひとりびとりにもなされることを信じ、主に従い続ける者でありたい。







2010/02/18 20:48:54|先週の礼拝から
唇に歌、心に光を
芳賀 功 師のお話から    主要テキスト: ヨハネ8章12節

T.イエスという光
「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 この言葉はイエス・キリストの自己紹介です。

私はいのちの光がないなら生きられません。
イエス・キリストご自身がいのちの光だからです。
電気の照明も月も太陽も光る物体です。
だから、それらの物体が人を生かすわけではありません。
イエスから来るいのちの光が、人を生かす力です。
これは真理であり事実です。

U.あなたも、あなたの家族も
使徒16章で、パウロ達はユダヤ人の迫害によって投獄されていましたが、25節 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」 と伝えています。
暗闇の中でかがやいていたのです。
その時大地震がおこって、囚人達の鎖が解けたのです。
パウロ達は、自殺しようとした看守に 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 と勧め、主のことばを語ったので、彼らは主のみことばによって救われ、 「全家族そろって神を信じたことを、心から喜んだ」 のでした。
イエスの光の力はすごいし、家族は明るさを取り戻したのであります。
イエスのみことばが源泉です。
つまりいのちの光とは、神から発せられるみことばです。
みことばは人を生かす爆発的力があります。

V.現代の暗闇
新聞の三面記事を見ると、殺人事件、暴行事件、詐欺事件、etc、想像を超えた現代の暗闇が分かります。
私たちの心の中は、いつでも罪が芽を出す危険性を持っています。
息子が自分の親を殺し、親が自分の子を殺すような事が、何故起きるのでしょうか。
聖書は、人の心の問題だという。人の心には自分ではどうする事もできない罪がひそんでいます。
この罪の問題が解決されない限り、明るくなりません。
イエスは 「わたしは世の光です。」 と、おどろくべき宣言をしたのです。
イエスは、暗いこの世に明るさをもたらすために来たのです。
しかし人間は光を求めないで、かえって暗闇の方に向かいます。

W.光を得たK氏
私の知るK氏は障害者です。
事故で、身動きの不自由な体になり、人生の希望を失っていた方です。
だから、私たちの境遇はこの方以下ではないのに、この方は、何故か私たちより明るいのです。
彼自身は不自由な体を抱えて暗く悲しいはずなのに、「私はイエス・キリストを救い主と信じて以来、いつも共にいて下さる光によって希望を持っている。
この施設の中で光になりたい。」と言う。
彼はその小さな部屋の中でしか動けないのに 「おれは光り輝く生き様をみせるんだ」と言っているのです。(マタイ5章16節参照)
全く信じられないことばだと思います。
ですから、周囲の体の不自由な人が、Kさんの明るさに誘われるように集まって来るのです。
ヨハネ8章12節 「私に従う者は決して闇の中を歩むことがなくいのちの光を持つのです」 とKさんは言いながら 「私は本当にイエス・キリストにお会いして良かった」 と言っています。
ですからイエスご自身がいのちの光ですから、この方のみことばを信じ、心の中にみことばを受け入れる時に、心の中にあかりが灯るように、新しいいのちが与えられるのです。
マタイ5章16節では 「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」 と勧められていますが、みことばがKさんを動かしているのです。

X.いのちの光を
今、世界に20億人のクリスチャンがおりますが、皆 「世の光」 としてイエス・キリストを信じて心にいのちの光を与えられた人々です。心にいのちの光を持ち、暗闇から開放されようではありませんか。そして輝いていると人は寄ってくるのです。光を与えられて、いのちの光を紹介する人になりたいものです。