芳賀富子師のお話から 主要テキスト: マルコ5章21〜36節
私たちは思いがけない時、困難に直面する事があります。 この朝は窮地に立たされた会堂管理者という一人の人の姿から、学びたいと思います。
T.窮地に立って 窮地に追い込まれたとき、人は自分の無力さと苦悩の中で、自分自身を見失いそうになったり、これまでの判断方法を大胆に変えたりすることがあります。 22〜23節、ヤイロという会堂管理者は、小さい娘が死にかけているという絶望的状況におかれていました。 25〜26節、12年間にわたり長血をわずらっている女の人は、治療の効果もなく経済的にもピンチになり、社会的にも孤独な状態にありました。 マタイ15章21〜22節、自分の娘が、ひどい悪霊に取りつかれていたカナン人の女(娘の母)がいました。 ヨハネ9章1〜3節、生まれつきの盲人について、原因探しをした弟子の質問に、主は 「神のわざがこの人に現われるためです。」 と語られています。 このように、人は窮地に立たされたとき、自分や他人を責めたり、原因を追究したりしてしまう事があります。 しかし、不条理とさえ思われることの中に「神のわざが現れるため」ということばが、心に留まります。
U.主に切願した 会堂管理者という立場は、当時の社会において律法学者やパリサイ人との接点が多くあったと考えられます。 その律法学者たちは、主イエスに対し、敵対意識を持っていましたから、ヤイロが主に切願する事は、彼の不利になるかも分かりません。 しかし、23節、彼はイエスのもとに行って 「娘が直って、助かるようにしてください。」 といっしょうけんめい願ったのです。 28節、長血をわずらっている女は、群衆の中に紛れ込みイエスの着物に触ることでも出来ればきっと直ると、信じて行動しています。 マタイ15章22〜27節、悪霊につかれた娘の母親は「私を憐れんで下さい」と叫び、主に訴えています。
主に訴えた後、長血の女も、娘に取り付いた悪霊で苦しんだ女も、それぞれ問題を解決していただいています。 イエスのもとに行くという事は容易ではありませんでしたが、主に切願する事は失望で終わらないのです。
V.恐れないで信じる さて、会堂管理者ヤイロは、主の足どりが群衆にはばまれ、遅々としたなかで、長血の女の人が主の着物に触った事件が起こり、瀕死の娘を思うあまり、あせりと苛立ちを覚えたことでしょう。彼のもとに娘の死の知らせが届いた時は、どう思ったでしょう。この時、36節 「恐れないで、ただ信じていなさい。」 と主は彼を励まされます。 この言葉は、 「恐れることをやめなさい。」、 「ただ信じることを続けなさい。」 とも訳せます。 もはや全てが終わった、もう不可能だと見えるときに、主の言葉が告げられました。 主のみ業は信じるところに働くのです。 ヤイロは、娘の死の現実を恐れないで、主を信じること、信じ続けることをしたのです。 すると、42節 「少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。」 のです。 こうして彼らは、周囲の人々とともに信仰を強めていただきました。
主を信頼し続ける 私たちにも様々な事が起こり得ますが、恐れることなく、復活の主を信じて、約束されたことを成就して下さるお方を信頼していきたいと思います。ローマ4章18〜21 「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。・・・・・・」 編責H&K
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