小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/02/08 10:45:22|先週の礼拝から
窮地に立たされた時
芳賀富子師のお話から   主要テキスト: マルコ5章21〜36節

私たちは思いがけない時、困難に直面する事があります。
この朝は窮地に立たされた会堂管理者という一人の人の姿から、学びたいと思います。

T.窮地に立って
窮地に追い込まれたとき、人は自分の無力さと苦悩の中で、自分自身を見失いそうになったり、これまでの判断方法を大胆に変えたりすることがあります。
22〜23節、ヤイロという会堂管理者は、小さい娘が死にかけているという絶望的状況におかれていました。
25〜26節、12年間にわたり長血をわずらっている女の人は、治療の効果もなく経済的にもピンチになり、社会的にも孤独な状態にありました。
マタイ15章21〜22節、自分の娘が、ひどい悪霊に取りつかれていたカナン人の女(娘の母)がいました。
ヨハネ9章1〜3節、生まれつきの盲人について、原因探しをした弟子の質問に、主は 「神のわざがこの人に現われるためです。」 と語られています。
このように、人は窮地に立たされたとき、自分や他人を責めたり、原因を追究したりしてしまう事があります。
しかし、不条理とさえ思われることの中に「神のわざが現れるため」ということばが、心に留まります。

U.主に切願した
会堂管理者という立場は、当時の社会において律法学者やパリサイ人との接点が多くあったと考えられます。
その律法学者たちは、主イエスに対し、敵対意識を持っていましたから、ヤイロが主に切願する事は、彼の不利になるかも分かりません。
しかし、23節、彼はイエスのもとに行って 「娘が直って、助かるようにしてください。」 といっしょうけんめい願ったのです。
28節、長血をわずらっている女は、群衆の中に紛れ込みイエスの着物に触ることでも出来ればきっと直ると、信じて行動しています。
マタイ15章22〜27節、悪霊につかれた娘の母親は「私を憐れんで下さい」と叫び、主に訴えています。

主に訴えた後、長血の女も、娘に取り付いた悪霊で苦しんだ女も、それぞれ問題を解決していただいています。
イエスのもとに行くという事は容易ではありませんでしたが、主に切願する事は失望で終わらないのです。

V.恐れないで信じる
さて、会堂管理者ヤイロは、主の足どりが群衆にはばまれ、遅々としたなかで、長血の女の人が主の着物に触った事件が起こり、瀕死の娘を思うあまり、あせりと苛立ちを覚えたことでしょう。彼のもとに娘の死の知らせが届いた時は、どう思ったでしょう。この時、36節 「恐れないで、ただ信じていなさい。」 と主は彼を励まされます。
この言葉は、 「恐れることをやめなさい。」、 「ただ信じることを続けなさい。」 とも訳せます。
もはや全てが終わった、もう不可能だと見えるときに、主の言葉が告げられました。
主のみ業は信じるところに働くのです。
ヤイロは、娘の死の現実を恐れないで、主を信じること、信じ続けることをしたのです。
すると、42節 「少女はすぐさま起き上がり、歩き始めた。」 のです。
こうして彼らは、周囲の人々とともに信仰を強めていただきました。

主を信頼し続ける
私たちにも様々な事が起こり得ますが、恐れることなく、復活の主を信じて、約束されたことを成就して下さるお方を信頼していきたいと思います。ローマ4章18〜21 「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。・・・・・・」                                       編責H&K







2010/02/02 10:11:50|先週の礼拝から
私を助ける聖霊
芳賀 功師のお話から   主要テキスト: ヨハネ14章14〜19

T.もうひとりの助け主
「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」
この言葉は、ヨハネ14章16節のみことばで聖霊について、イエス様が話されたところです。
イエス様は、聖霊をもう一人の助け主と表現したのです。
神学では、父なる神、子なるキリスト、そして第三位格の聖霊、この三つを三位一体の神と呼んでおり、今日はその中の聖霊のお話です。

U.聖霊の力
初期の私は、聖霊と聞いて、キリストの幽霊だなんて思った時期がありましたが、聖書は、力があって、きよい、助け主だと言っています。
私もこの聖霊なる方に、助けられた経験をもつ一人です。
15節では 「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。」 と言っています。
単に戒めと考えるなら、盗むな、偽るな、殺すな、姦淫するな、・・・・・といった類のもので、人の目や批判が怖く、また刑事事件として警察の捜査が怖いのですが、私たちはもう一人の助け主によって愛されるので、互いに愛し合うという別の戒めを守る事が出来るのです。
自分の力による道徳や生活信条では、見られていないと思える時に失敗し易いものですが、聖霊が原動力になることにより隣人を愛せるのです。

V.自分の力で
私が、自分の力でやった事と言えば、自己中心の利益のため、賄賂を使って儲け、談合して利益を膨らませ、裏帳簿で税をごまかす事しか出来ませんでした。
聖霊を悲しませ、真実の愛を見失っていたのです。
21節 「私の戒めを保ち、それを守る人はわたしを愛する人です。」 また18節には 「私はあなた方を捨てて孤児にはしません」 とイエス様は言います。
すごい救いのみことばです。
マザー・テレサは 「人間として一番悲惨なことは孤独だ。」 と言ったそうです。
人間にとって最大の悲しみは、もはや誰からも必要とされないと感じることですが、むごく、寂しく、つらく、くやしいことで、捨てられたと感じ、死にたくなるでしょう。

W.もうひとりの助け主
あなたは必要でない、誰からも愛されない、つまり孤児でなくても孤児のような悲しみの中に生きている方に、聖霊は黙って見ておられない。
イエスはそんな人の友であり、なぐさめる助け主だからです。
イエスはみことば通り、生きる苦しみや空しさという重荷を負ってくださいます。
十字架にまで行って、その様な方のために、私はいのちをかけて死ぬんだよと死んで下さり、 「父はもうひとりの助け主をお与えになります。かわりの助け主を送るから心配いらないよ」 と言われたのです。
これを聞いたときの弟子達は、どんなにか心細く、悲しかっただろうと思うのです。
でもイエス様は、自分が去っても、もう一人の助け主(ギリシャ語でバラクレートス⇒そばにいて強くする者、執り成す者という意味)が来てくださると、弟子達に対して約束したのです。
私たちの肉体の目に、イエス様のお姿が見えなくなっても、もう一人の助け主が必ずやってくる。
それが聖霊なる神です。

X.私たちの助け主
イエス様は18節 「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。」 と言われました。
何と心強いことでしょうか。
そしてパウロは、ローマ書8章で 「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」 とあかししています。







2010/01/27 9:26:45|先週の礼拝から
喜びをもって主に仕え
芳賀富子師のお話から    主要テキスト: 詩篇100篇

詩篇100篇は感謝の賛歌といわれます。
3節に 「私たちは主のもの、主の民、」 とあります。
この事は大きな感謝です。
「主のもの、主の民、」 とされた祝福とその恵みに生きることについて学びたいと思います。

T.主の民の祝福
私たちは祝福というと何か目に見える形で自分が評価されたり、賞賛されたりする事を考えてしまいます。
しかし神様が与えて下さるものは、人間的に評価できるものではなく、欲望で獲得できるものではないのです。(創世記13章10-16節、25章29-34節、マラキ1章2節)

私たちは主の十字架の贖いによって 「主のもの、主の民、」 とされました(ヨハネ15章16節)。
主につながっていくときに、神様が与えて下さる祝福があります。

U.主ご自身に招いて助ける
2節と4節は、主のもとに招いていることばです。
主は、造られた者を招き、養い、訓練し、用いたく願っています。
イスラエルの人々は、神の臨在の場所・幕屋に、やがて神殿に、会堂という場所に、礼拝をささげるべく招かれています。
ところがイエスは、ヨハネ6章35〜37節 「わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。・・・・・・」 と、主ご自身へと招かれています。
マタイ28章20節、ヘブル4章15-16節、そうして、招かれた主は共にいてくださり、折にかなった助けを与えて下さるのです。

V.ご自身を知らせる主
3節 「主こそ神」 、詩篇46篇10節 「やめよ。私こそ神であることを知れ。」 やめよとは自分の心を静めて神に向かうために、今やっていることを止めること。
離れることでもあります。
神の前に祈り、心を神にのみ向けるとき、神を知るという体験が深められていくのではないでしょうか。
詩篇119篇71節のように、試練をとおして主を知るという事もあります。
ヨハネ10章3〜4節、羊は牧者の声を知っているので、羊飼いの声を聞き分けてついていきます。
他の人には決してついていきません。
私たちも主の声を知り続ける者でありたい。

終わりに
(a) 「主のもの、主の民」 とされた事を感謝すると共に、その恵みを無駄にする事が無いよう心させていただきたい。
(b)他人との比較ではなくて、自分の出来ることをもって(詩篇100篇2節)主に仕える者でありたい。
(c) 「喜びをもって主に仕えよ。」 と書いてあるように、(エペソ6章6節)人の評価を気にするのでなく、せねばならないという義務感でもなくて、私たちを贖ってくださった主を喜ぶものでありたい。
置かれたところにあって、主のものとされた恵みを感謝しつつ、喜んで仕える者とならせて頂きたい(Tテサロニケ5章16-18節)







2010/01/17 17:45:03|先週の礼拝から
主がお入用です
芳賀 功師のお話から   主要テキスト: ルカ19章28〜40節

T.主が入用なのは
私たちは、日曜学校で 「主がお入用なのです」 というお話を良く聞きました。
神様はロバのような、のろまで、小さくて、仕事の役に立たないような子供のような者こそ、 「いりよう」 で、必要な者だと言って下さいます。

U.馬ではなくろば
それが19章28節以降に出てくるロバに関する内容ですが、先ず背景を確認しましょう。
イエス様は、エルサレムに入城される時に、馬ではなくロバに乗られたのです。
これには二つの意味があって、先ず、11節 「それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。」 と書かれているように、今まさにエルサレムに入ろうとするイエスが、ローマを転覆させ、地上を神の国として、ユダヤ人が世界を支配する、という期待感があったからです。
それでイエス様はロバに乗って入城しました。
支配者ではなく、平和の君、救い主として入城することを行動によって示す必要があったのです。
次に、B.C500年頃に書かれたゼカリヤ書9章9節を見ると 「この方は正しい方で、救いを賜わり、柔和で、ろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに。」 と預言されています。
即ち、この預言を知っておられたイエスは、そのとおりにロバの子に乗るために、 「主がお入用なのです」 と言わせたのです。

V.ろばの性質
一方ロバは、一般の貧しい人達の乗り物で、比較的誰でも飼えますが、調教するのが難しく乗りこなすのは中々出来ないそうです。
でもイエスはあえてその様なロバを 「いりよう」 だと言ったのです。
人間も同様ではないでしょうか。
イエス様も、個人的に、社会的に、問題を抱えている人、例えば、取税人、遊女、羊飼い、罪を自覚した人などに近づいて声をかけ、導いてくださっているのではないでしょうか。
だから、私たちも、イエスのロバの子として用いていただきたいと願ってよいのです。

W.神に栄光を
さて、ろばの子に乗ったイエスの姿を見た弟子たちの群れが、38節 「祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。」 と賛美したように、私たちも神様に栄光を現わす事のために用いられますように、という事を忘れてはならないのです。
すべてが神のあわれみであり、恵みだからです。
私たちにとって、エペソ2章14節 「キリストこそ私たちの平和」 であり、平和と和解はイエス様の救いによってのみ与えられるのですから、私たちはその平和の君であるイエスのメッセージを、運ぶものでありロバの子なのです。
神様との関係において平和やみんなと仲良く(和解)なるみことばを与えられていなかったら、他の人にイエス様を紹介することは出来ません。
1つ預かったなら、その1つを持運びましょう。
今の時代は孤独感から自殺や犯罪(麻薬)が生まれてくることが多いのです。
その預かった1つを必要とする方がいるからです。

X.しっかり生きる
全ての人は愛されたいのです。
平和を持ちたいのです。イエス様の愛は本当に伝わるのかというと困難です。
けれども愛に渇き、不安の中にいる人々に、神は愛を現わしたく願っているのです。
そのために主は子ロバである私たちを用いたいのです。
イエス様は 「子ロバを私のところに連れてきなさい」 とおっしゃいました。
従って私たちが、弱くつたない子ロバであるとしても、主がいりようだ、必要だと言って下されば感謝です。
私を主がお入り用なら、どうか背中にお乗り下さいと申しあげましょう。
こんな強情で突っ張りの私のために、十字架の上で血を流して死んで下さり、そして三日目によみがえられたイエスのために、しっかりと生きたいと願う者です。







2010/01/12 11:05:15|先週の礼拝から
新しい年の戦い
芳賀 功師のお話から   主要テキスト: 詩篇144篇1〜4節

T.新年の指針
私たちの教会も2010年を迎えて、詩篇37篇5節 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」 という指針をもってスタートさせていただきました。
そして、今年も救霊のための戦いの年ではないかと感じながら、詩篇144篇1節が心に留まりました。
ダビデは 「ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。」 と歌っています。
ここに“戦いのために”とありますが、何と戦うのでしょう。
私たちの人生、また生きること自体が戦いであると言う人もあるでしょう。

U.二つの戦い 
戦うという事であれば、その敵とは何でしょう。
エペソ6章によれば 「もろもろの悪霊」 との戦いですが、偶像、悲しみ、苦しみ、自分自身の罪との戦いでしょう。
ダビデはこの全ての戦いを経験した男であります。
実際は、見える戦いと見えない霊的な戦いがあります。
最初の戦いはペリシテ人、即ちゴリアテとの戦いであり、後の大きな戦いは、王の立場を得たダビデに、高慢という罪が生まれ、姦淫の罪となって現れました。
この罪との戦いです。

V.最初の戦い
最初の戦いは、Tサムエル16章〜17章の大男ゴリアテが相手です。
ダビデは羊飼いにすぎませんでしたが、神を全面的に信頼して戦う者とされた時、その信仰を前述の1節で告白しています。
つまり、ゴリアテと戦う準備のため、羊飼いの仕事を通して神が鍛えさせたと理解したのでしょう。
その戦いはTサムエル17章34〜37までに示されているとおり、 「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」 ということばと、羊飼いとして身につけた石投げです。
常識ではとても考えられない方法でありますが、ダビデはそれを神からの賜物であると確信し、武器にするのです。
こうしたダビデの神様体験が、2節 「主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。」 という信仰告白につながったのでありましょう。

W.罪との戦い
次に、すさまじい罪との戦いです。
Uサムエル11章〜12章において、ダビデの信仰をもってしても、有名な姦淫の罪を犯し、人生の中で最大の悔い改めをするのであります。
11章を読むと、本当に人生は罪との戦いであることが分かります。
人間は戦わないで楽な方へ楽な方へと行き、戦わないで自分の欲望や野心など(自己中心性)から、誘惑に陥るのです(マタイ26章41節参照)。
だからイエス様は 「誘惑に陥らないように目を覚ましていなさい」 と一人のために血の汗を流しながら祈ったのです。
十字架上のイエスに向かって 「もし神の子なら自分を救え」 (マタイ27章40節) と叫んだ人々の罪と悪の力に対し、イエス様は、贖いの完成という勝利を成し遂げられました。
私たちはダビデの石より貧しい賜物であっても、与えられているもの、福音を運ぶ足を、何倍にもまして用いたまえと祈る者でありたいのです。

X.ダビデの発見と私たち
ダビデは3節で 「人とは何者なのでしょう」 と言い、詩篇51篇5節では 「咎ある者、罪ある者として生まれた」 とまで告白して、自分が醜く罪深い小さな者であると、自分の弱さを発見しますが、それにもかかわらず、神は彼を赦し受け入れて下さいました。
「私の目にはあなたは高価で尊い(イザヤ43章4節)。」 とまで神は言って下さるのです。
罪深い人間を面倒見てくださるのは、イエスの十字架以外にありません。
贖われた私たちは 「良いことの知らせを伝える足」 として、今年一年の戦いに勝利の生活を歩ませていただきたいと願っています。