小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2010/01/03 23:18:40|先週の礼拝から
神の助け
芳賀 富子師のお話から   主要テキスト:第一サムエル7章1〜12節

今年の教会のみことばは、詩篇46篇1節 「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け。それゆえ、われらは恐れない。」 でした。
その事を心に留めながら第一サムエル記が導かれました。
この7章から 「神の助け」 はどのようなところに、どのような状況になされるかについて学びたいと思います。

1)時代的背景
この当時の時代的背景は、有力な指導者がいない時代で、士師といわれる裁き司が宗教的にも政治的にも人々を導いた時代が続きました。
戦いの絶えない時代でした。
人々の生活も偶像崇拝に傾倒して、政治的にも、社会的にも不安定な時代でもありました。
神はサムエルという人物を預言者として立て、イスラエルの霊的指導者とされました。
ペリシテ人との戦いで敗北し、人々の心は主を慕い求めていました。

2)助けの要約
@神の助けは、その人々の神を求める渇望の中に与えられたのです。苦しみの中で神に呼ばわる者に、神は助けて下さいます(詩篇50篇15節参照)。
A神への悔い改めと信仰に立った中で、神の助けは、なされています。
条件として
(a)心を尽くして主に立ち帰ること、偶像を取り除く事。
(b)心を主に向け、主を中心とした生活をすること。
そこに神の助けの約束がされています(3〜4節参照)。

3)サムエルが祈りの手を上げていた
祈りの会を開くため、サムエルは人々を集めています。
そこにペリシテ人は戦うために攻めてきました。
サムエルが祈りの手を上げている只中に、神の助けがなされたのです。
大きな雷鳴をもって、かき乱しイスラエル人が戦い易い状況に、主の助けの御手が自然界にまで及んだのです。
神の助けが祈りの中に働かれる事を(出エジプト14章)や(使徒12章) にも見ます。
詩篇46篇1節に 「そこにある助け。」 とありますが、神の助けはいと近い助けです。
間に合ってくださる助けなのです。

4)終わりに
12節、サムエルは神の助けに石をとり感謝の塚を立てています。
私たちも神の助けに感謝を忘れない者でありたい。
(a)12節、 「ここまで主が私たちを助けてくださった。」 とは 「これから後も」 という助けでもあります。
(b)神の助けを当たり前のことにする事が無いよう、神の恵みによってという自覚と感謝を大切にしたい。
(c)神の助けに対して口先だけの感謝ではなくて、真実をもって、神の喜ばれる事を心がけたい。
イエス様もその身をもって十字架への道のりを歩まれて、父なる神の御心を生きられたのです。
私たちも、Tコリント6章20節で勧められているように、この年の主の憐みを感謝すると共に、迎えます年も神の助けを頂きながら、置かれた所にあって、神の栄光を現わす歩みをたどる者として整えて頂きましょう。







2009/12/30 10:52:59|先週の礼拝から
喜びのおとずれ
芳賀 功師のお話から   主要テキスト:マタイ1章21〜22節

1) 待望されていた救い主
クリスマスおめでとうございます。
当時のユダヤ民族において、メシヤ(救い主) が現れるという希望や願望は、指導者層から一般庶民に至るまでがもっていた事でした。
また、“クリスマスは人類の歴史の中に救い主が登場した記念すべき日であります。また人類の救いが完成し、神の栄光が輝き出るという宇宙的な出来事なのです。”と神学者小林和夫は言う。
そのような歴史的大事件ではありますが、最初は、一部の羊飼いだけというごく少数者に知らされたのです。

2)最初のニュース
ルカ2章11節で 「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」 という朗報が、羊飼い達に届きました。
その当時の羊飼い達は、ユダヤ教から破門され社会的に孤独な人々で、野宿を強いられる最低の生活をしていたそうです。
羊と共に家畜同然とみなされていた人達に、伝えられたのです。
ルカ2章8〜11節 「 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。・・・・・主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。・・・・・・今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。・・・・・・」
これこそ羊飼いを通して私たちに伝えられた最初の知らせであります。

3)最初の目撃者
これを聞いた羊飼いたちは、16節 「急いで行って、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた。」 のでした。
ですから彼らは、社会的な遠慮もなく、形式にも捕らわれず、自由に礼拝する事が出来たのです。それは主が、罪人と呼ばれている人や社会的底辺の人々にとって、友のような存在になって下さったからです。
しいたげられた人達は、救い主誕生の最初の目撃者という栄誉が与えられました。

4)最初の賛美グループ
そして、20節 「見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。」 と書かれています。
神を喜ぶ最初の賛美グループが、夜の道を悠然と歌いながら闊歩して行くようではありませんか。

5)最初の証し人
そんな羊飼いから何が学べるのでしょうか。
第一に彼らは、9節 「主の栄光が回りを照らした」 時、ひどく恐れましたが、御使いの声とその内容をしっかりと聞き、信じて受けとめたのです。
第二に彼らは、野原で見聞きしたこと、行って体験したことを、臆することなく事実として語り伝えたのです。
だから18節 「それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚いた。」 ので深く心に残ったのでしょう。

6)社会的評価が低くても
しかし先に述べたように、この羊飼いらは、社会的に、知識的に、経済的にもどん底の貧しい人達であると見られていたそうです。
だからこそ、ただの罪人に過ぎないという謙遜さが身についていたのではないでしょうか。
マタイ1章21節 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスと付けなさい。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方です。この全ての出来事は主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」
つまり、この方こそ私たちの全ての罪を、過去の大きな過ちや個人の性質も含めて、赦し、解決して下さるのではないでしょうか。
この方は社会的底辺の人々でさえも、友のような存在となってくださるからです。

7)願い
罪は、人間の力や努力では解決出来ない大きな壁であり、破りえないものです。
神ご自身が実現した、御子イエス・キリストの十字架の死と、復活によって現わされた福音によってのみ、その壁が取り除かれ、明るい希望の窓が見えてくるのです。
その意味で、この福音は、この取るに足りない人と見られていた羊飼いたちの、最初の働きが生かされたものでした。
この羊飼いのようでありたいと、求め続けたいのです。







2009/12/27 8:41:58|先週の礼拝から
喜びの知らせ
芳賀 功師のお話から   主要テキスト:ルカ2章11〜12節

今日からアドベント第三週でございます。
そして今日は走りまわる程の忙しい日で、礼拝後は結婚式です。
そして4時から年に一度のクリスマスコンサートと続きます。
しかしこれ等も、今日のタイトルにもありますように 「喜びの知らせ」 であります。

1)しるし
ルカ2章11〜12節 「救い主が生まれた」 という喜びの知らせがありました。
そして 「あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 と告げられました。
この 「しるし」 とはどんな意味でしょうか。
辞書を見ますと 「あることを証明する目じるし、記号」 と書いてありました。
ここで 「私が何者なのか」 ということのしるし、つまり自分を証明するものは何でしょうか。
パスポート、免許証・・・・・等でしょう。
ここで仮に 「これが、あなたがたの救い主です。」 と言ったのなら 「何々、どれだ!!」 となったでしょう。
それは田舎町ベツレヘムの、とある貧しい馬小屋の、飼葉おけに寝かされたひとりのみどり児(嬰児)これがあなたがたのためのしるし、(つまり証明)なのですと告げられました。
ですから救い主誕生のしるしは、ほんのわずかな一握りの羊飼いによって、全世界に伝えられ広がっていったというのです。
これが聖書で言っているクリスマスのしるしなのです。
世間では、ツリーやサンタさんがクリスマスのしるしになってしまって、あげくの果てにこれらはクリスマスの商品になっています。

3)しるしが暗示したもの
さて2000年前のこの飼葉おけのみどり児が“しるし”であるという。何を暗示しているだろう。
第一は約束の成就のしるし(証明)であるということです。
救い主がベツレヘムで生まれるということは、BC700年頃に預言者ミカ(ミカ書5章2節)を通して予告されていたことです。
その予告がここに成就した(成しとげられた)というしるしです。
このように何千年も前から予告されて、地上に生を受けた人はイエス以外に歴史上一人でもいるでしょうか。
第二は神からの愛のしるしだということです。
それはヨハネ3章16節 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛され・・・・・」 と書かれたように、神が真実に、世を、また私たちを、愛しておられるしるし(証明)として、ご自分のかけがえのない一人子をお与えになった。
飼葉おけの中のみどり児、それが愛のしるしなのです。
第三はキリストの十字架のしるしです。
ルカ2章34〜35 「反対を受けるしるしとして定められています。」 シメオンという人が、母マリヤに言ったことばです。
何とも不気味なことばですが、キリストの地上におけるその生涯が、苦難の連続であることのしるしでもあります。
マタイ8章20節 「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」 というみことばでも、その事を見ることができますが、最初に枕したところは何と飼葉おけの中だったのです。

4) キリストの姿
生まれた場所が、どんなにか汚いところだったか知り得ませんが、私たちの心の中ほどには汚れていなかったと言えます。
しかし、その頂点は十字架であり、その幼子イエスの上に深く落とされていました。
その十字架は、この世の罪、私たちの罪を、一身に背負って死んでくださる贖いの(身代りの)十字架だったのです。
従いまして、この馬小屋の飼葉おけに寝かされているキリストの姿こそ、罪ある人間の心の中にも宿って下さろうとする主のみ心のしるしなのです。
ですから 「喜びの知らせ」 と叫びたいのです。







2009/12/14 19:33:42|先週の礼拝から
来て下さったイエス
芳賀 功師のお話から   主要テキスト:ヨハネ9章

1)父が求めておられる
今週からクリスマス・アドベント第二週に入りますので、今日は「来て下さったイエス」というテーマにしました。
イエス様は何のために来て下さったのでしょうか。
ヨハネ12章47節では 「世を救うために来た」 と表現しています。
また、ヨハネ4章23節以下では 「真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」 と言っています。
これに対し 「女はイエスに言った。 『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。』 」 と応じています。
女は、真の喜びを与えて下さるお方(キリスト)が来られるのを待っていたようです。

2)見えない者・見える者
ヨハネ9章1節〜 「イエスは道の途中で」 彼を見ました。
彼は、生まれつき目が不自由だったので、見えるという事を知らず、自由に歩けなかった事でしょう。
先ず、イエスという方が来られて肉眼の視力を下さいました。
その後もう一度来られた方が、37節「あなたと話しているのがそれです。」 と言うのを聞いたので、38節 「主よ。私は信じます。」 と告白してイエスを拝しました。
彼はキリストを見たのです。
そこでイエスは、39節  『わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。』 と言われました。これが今日の中心です。

3)頚椎損傷になった人
K.K.Iさんを紹介したいと思います。 
彼は現在、障害者の専用施設におります。
クリスマスが来ると、この方のために一人子を送って下さったのではないかと思うほどの物語です。
今から35年前の昭和49年、稲刈りが終わった頃、彼は、イチゴを東京方面に搬送した帰り道で、大型トラックと接触事故を起しました。
それで星野富弘さんと同じ頚椎損傷になり、首から下は動かせない状態です。
彼とは、その時以来20年のつきあいです。
彼にとっては、何で自分だけがこんな目に会わなければならないのかという思いだけの36年間だったそうです。
小さな部屋の中でじっとして、ベッドの上だけの死を待つような生活です。
病院での面会者はほとんどなく、天涯孤独の生活です。
彼の人生は、悲しみと苦しみで満ちていましたが、それが過去の生活の呪いであり、宿命であるという考えの前で、解決できませんでした。

4) 見えるようになった
その彼にとって、今日の3節のことばは革命的なものでした。
そして事実、霊的な心の目を開いていただいたのであります。
以下は、先日お会いした時の彼の話です。
「私は今、こんな状態だけれども、イエス様のところに行くという大目標があるんです。」
 ・・・・ 「私はこの世から必要とされていない人間なんで、世捨て人なんだと思ってた時期が長かった。」
でも、3節 『神のわざがこの人に現われるためです。』 という事が分かったと話されたのです。
「イエス様に心の目を開けていただいて、イエス・キリストにつながって生きていくのに、こんな自分でも良くて、必要とされるんだということが見えて来て、世捨て人ではなく生きていて良いんだと分かって、それが神の恵みであることが分かった。
それは見えない者が見えるようになるために、イエス様がこの地上に来て下さったんだね。
そして又、聞こえない人を聞こえるようにして下さったんだね。」 そうして 「神の国に入れて下さるんですね。」 とも言われる。
「私はイエス様を求めずにいたのですが、私の近くに寄り、そのかたわらに立って下さっていたんです。」 ともおっしゃる。
何と希望に満ちたことでしょうか。

4)クリスマス
ルカ19章10節 「人の子は失われた人を探し出して救うために来たのです。」 K・K・Iさんのところに来て下さったのです。
これがクリスマスの大きなメッセージです。







2009/12/08 13:03:14|先週の礼拝から
永遠の愛
召天者記念礼拝  芳賀 功師のお話から  主要テキスト:ルカ10章25〜28

1)アドベントと記念会
今日からクリスマス、アドベント第一週に入ります。
クリスマスを目の前にして、今日は故N・T姉の記念会を開く恵を与えられ感謝でございます。
10章25節以下は、故人の座右のみことばだと聞いておりましたので取り上げました。

2)故人と聖書
故人は、聖書を学び、祈り会にいつも出席し、聖書を真面目に取り組んでいた方です。
人は生きている限り、何かしらのメッセージを残して世を去りますが、故人はどんな人生を歩んだのでしょうか。
座右のみことばは 「・・・・・・・「 『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 また 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』・・・・・・・イエスは言われた。 『そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。』 」 です。しかし私たちは・・・・・。

3)神の姿
この言葉を実行できるのはイエス様ただ一人です。
何故なら、聖書が示している神の姿は 「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほど」 の愛だからです(ヨハネ3章16節)。
つまりこれは最も大切なものをあなたのために差し出す愛だからです。
実のところ、私も故人もできませんでした。
実行されたのはイエス様ただ一人だからです。
だから、そのイエスを見上げて、それに向かってどれだけ努力したのかが、その人の信仰の現われであり、神は、思いを尽くし、力を尽くす努力として、そうした事柄をお認めになるのではないでしょうか。
また、これらがクリスチャン生涯の全てだと言っても過言ではないでしょうか。

4)私の隣人
そして29節、律法の専門家が質問して“私の隣人とは誰か”を問い詰めました。
それが30節以下の有名なサマリヤ人の例えです。
読んでみていただきたいのです。
以前の私は、“人のために最も大切なものを差し出す人などいるものか。ましてやいのちを差し出す人などいない”と考えていました。
みんな自分がかわいいし、所詮いざとなれば皆逃げ出してしまう(自己中心)でしょう。
そんな存在だと考えていました。
わたしも癌という病と闘う故人を目の前に、おろおろするだけで何もできずに、ただ祈るしかありませんでした。
しかし、この癌という病気はいまだ解明されず、克服されずにあります。
残された人生を最期まで生きようと、力をふりしぼっている姿を見た時に、見て見ぬふりは出来ないと思いました。

5)神の愛
それは自分の力というよりも、主の愛が押し迫ったからではないでしょうか。
33節にあるように 「彼を見てかわいそうに思う」 思いではないでしょうか。
助けられたユダヤ人と助けたサマリヤ人とは仲が悪かったにもかかわらず、けがが治らなかったら延長の宿賃まで支払うという優しさです。
神に喜んでいただく事なら何でもやると願うのが神からの愛なのです。
私たちはやってもらうのは感謝なのですが、いざ行なおうとすると愛が無いと感じるのです。

6)クリスマス
神は、ご自分のひとり子であるイエス・キリストを、この地上に送ることを決めておられ、二千年前に実行されました。
クリスマスです。
私たちのために、そのひとり子のいのちさえ惜しまないで、私の身代わりとして十字架の上で死なせたほどの愛なのです。
人生にはいろいろな悲しみや苦しみが多いのですが、その時こそ、力を尽くしてあなたの隣人を愛そうではありませんか。
これが今日の記念会の神様からのメッセージです。