小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/11/30 19:59:47|先週の礼拝から
幕屋とキリストの救い
T・J ヘイズ宣教師のお話から  主要テキスト:ヘブル書9章11〜15節

私はトーマス・ジャクソン・ヘイズでアメリカ人三世です。
6歳の頃から教会へ行き、罪を赦されて天国に行くということを理解し、イエスを受け入れました。
大学では機械工学を学び、卒業して国際ナビゲータの伝道団体に入りました。

1)神とイスラエル
多くの皆さんは、聖書に旧約聖書と新約聖書とがあるのを知っています。
また、新約聖書の背景になる、歴史的な出来事や思想が旧約にあることを知っている方もいます。
さて、神はモーセを用いて、エジプトの厳しい労苦から解放するため、イスラエルの民を引き出し、エジプトの軍隊から守り、荒野に導きました。
その過程で、神の不思議と助けを経験したのに、イスラエルの民は神を信じず、不満を言います。
神は民を愛したのに、民は罪の性質から脱却できなかったからでしょう。
それで聖い神は、十戒に代表される生活基準を、戒め、命令、おきて、教え、等々という形で与え、記念の祭り、罪の贖いなど、民がご自身に近づこうとする時の、身代りの犠牲がないといけないことも教えました。
そうして後、聖い神は、幕屋作成を命じたのです。
その幕屋は、亜麻のより糸で織った幕、やぎの毛で作った幕、各種の板、金の留め金など、で作られた特殊で豪華なテントであり、前述のような、神と人が関わる生活と、その生活に関連する物品を置く場所として、外部から区分させました。

2)幕屋の中
幕屋の中は、大きく分けて二つの部屋があり、入り口に近い部屋には、贖いのための動物をほふる場所があり、それを焼いて煙にする場所や煮る場所もある。
使われる調度品には金がかぶせてあって豪華に見え、神がおられる所にふさわしく見えたでしょう。

この中にはレビ族の祭司しか入れません。
奥の部屋を至聖所と呼びますが、この第二の部屋と手前の部屋の間には垂れ幕があって、第一の部屋から第二の部屋の中は、見えません。
そして、ヘブル9章7節 「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。
その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」 と説明されています。詳しくはレビ記に書かれています。

3)聖書のテーマ
また、旧約のモーセ5書(創、出、レビ、民、甲)を観ると、聖い神の裁きが胸を打ちます。
その聖い神が人間と共にいたいのですが、神は罪ある人を打つのです。
だから、罪ある人間がどうしたら聖い神と和解し、神にに近づくことができるのか、これが聖書の初めから終わりまでの大切なテーマなのです。
それは今まで学んできた幕屋に関係します。
私たち罪ある人間が、聖い神と仲良くするために、身代りになってくれる動物を、犠牲として人間が準備し、幕屋の入り口まで連れて行ってほふり、祭司が中で献げました。
しかし、神に対する罪はささげた人の心に残りました。
ヘブル9章9節 「この幕屋はその当時のための比喩です。・・・・・それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。」 だから旧約の祭司達は、年ごとに、犠牲をささげる祭りをやるように命じられていたのです。

4)私たちのための犠牲
新約の幕屋は何だろう。
ヘブル9章11〜12節「しかしキリストは、・・・・・手で造った物でない・・・・・さらに完全な幕屋を通り、・・・・・ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」 と述べています。
更に24節 「キリストは、本物の模型に過ぎない、手で作った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。」 と教えています。

キリストが完全な幕屋であり、キリストがご自分の血によって、人が造った幕屋ではなく、まことの聖所に入られ、永遠の贖いを完成させたのです。

26節では 「キリストは、ただ一度、・・・・・ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られた。」 と告げているのですから、キリストを信頼すればよいのです。
私たちの罪を取り除く犠牲はキリストなのです。
繰り返しですが、この世にキリストが来て、キリストが私たちのために、罪の犠牲となって死んで下さったのです。

5)最後に 
ヘブルの中心的みことば、10章19〜20節 「・・・・・兄弟たち私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体と言う垂れ幕を通して・・・・・」 完成させたのです。
22節 「そのようなわけで私たちは心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから全き信仰を持って真心から神に近づこうではありませんか」







2009/11/23 17:30:54|先週の礼拝から
喜ぶ者と共に
芳賀富子師のお話から    主要テキスト:ヨナ3章10節〜4章11節

ヨナ書を締めくくるに当って、神の愛と寛容さを教えられます。ヨナはニネベの人々の救いを喜ばずに怒っています。

1)怒りの原因
ニネベの人々はヨナの宣教によって、真実な悔い改めをし、神の憐みを受けて、滅ぼされなかったのですが、 ヨナはこの神の優しさ、神の寛容さを許せず、怒ったのです。
神が、自分の側にではなく、ニネベの側になったような、自分が疎外されたような思いになったのです。
問題は神にではなく、ヨナ自身にあったのです。
彼は神についての知識はありましたが、自分に注がれている神の愛を知る事ができず、信頼する事もできなかったのです。
ですからニネベの人々の救いを喜ぶことができなかったのです。

2)ヨナの喜び
ヨナの不機嫌を直そうとされた神は、 ヨナのためにとうごまを備えてくれました。
彼はそれを非常に喜びました。
ところが翌日、神が備えられた一匹の虫が、そのとうごまをかんだので枯れたのです。
そこに焼けつくような東風が吹き、ヨナは 「私は生きているより死んだほうがましだ。」 と言ったのです。
(a)ヨナの喜びは外側の状況で左右されるものでした。
(b)自分を喜ばすための喜びです。
(c)一夜で生え、一夜で滅びるとうごまを惜しんだヨナ、それは長続きのしない喜びです。

3)クリスチャンの喜び
私たちの喜びとしているのは、何でしょうか。神が喜ぶ喜び、クリスチャンの喜びとは
(a)外側の状態がどうあるかではなくて、私の中にある喜びです。ローマ5章1〜3節 「患難さえも喜ぶ」 艱難の中にあってさえ喜ぶことができる喜びです。
(b)自分だけの喜びではなくて、他の人の喜びを共にする喜び(ローマ15章1〜3節)です。
(c)神の喜ばれることを喜ぶ喜びです。
恵みそのものを喜ぶのではなくて、恵の与え主を喜ぶ喜びです。
どんな時にも、どこにあっても、いつも心の中に与えられている(ローマ14章17節)聖霊による喜びです。
それはイエス様を信じる者のみが味わえる喜びです。

4)結び
私たちは艱難の中にあって喜ぶことは容易ではありません。
人間関係の中で、ローマ12章15節 「喜ぶ者といっしょに喜」 ぶことよりも、妬んでみたり、卑屈になったりしてしまい易い、弱い者です。
ヨナを愛と忍耐をもって導かれた主は、私たち一人ひとりが、聖霊によって喜ぶ者と共に喜ぶことができる者へと変えてくださることを期待し、祈っていきましょう。







2009/11/16 22:44:03|先週の礼拝から
金持ちの後悔
芳賀 功師のお話から   主要テキスト:ルカ16章19〜31節

1)恩人
当教会の礼拝で、5回もの奉仕をして下さった佐野謙次兄が、去る10月24日にご召天されました。
私にとって、信仰の友であり、いのちの恩人でした。
私はこの方を通してイエス・キリストの愛と救いを体験し、永遠のいのちをいただきました。
そしてマタイ16章19節 「わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。・・・・・」 ということで開拓伝道に進みました。

2)御国への招待
天国の話は、聖書の中に60箇所ほどあります。
その中でも比較的分かり易く語られているのが、今日とりあげるルカ16章です。
読んですぐに分かるように、御国にふさわしくない者とふ
さわしい者の、この世における生き方があって、死んだ後のことも説明されています。
旧約聖書を見ていくと、御国に招待されていた民族は、イスラエル民族であり、ユダヤ人たちです。
その名残りでしょうが、イエス様時代のユダヤ人指導者の多くは、自分たちはアブラハムの子孫で選民だから自動的に天国に入るという考え方をしていたようで、イエス様がその間違いを
正すために、このたとえを話されています。
御国に入ろうとするには、それにふさわしい生き方があり、それは何かということを見出したい。

3)御国にふさわしくなかった金持ち
さて、23節 「その金持ちは、ハデス(黄泉)で苦しみながら・・・・・」 、と話された。
金持ちは、何故に天国に入れなかったのか。
その第一点は19節 「・・・・・毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」 つまりお金を自分の快楽のために浪費していたのです。
これが金持ちの後悔の第一です。
第二は20節 「その門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていた」 のに、助けようとも様子を見ようともせず無関心でした。
やってきたのは犬だけだったのです。
後悔の第二です。
彼は律法にも関心を持たず、レビ記19章18節 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」 に従えないのです。
後悔しても、過去を悔いて改めることが出来なかったのです。更に24〜30節、金持ちの言葉は、 「ああしてください。こうしてください。」 というばかりです。
神が与えたモーセの言葉に対する、関心と反省が見えてきません。
だから、彼と彼の兄弟達も同じように、31節 「もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、・・・・」 、死後の世界を知る方が来られても、その方の言葉に“耳を傾けない”と言われてしまいます。
神による救いの根拠は、神のみ言葉以外にありません。

4)御国にふさわしかった貧乏人と一人の犯罪人
では、どんな人が御国に入れるのでしょう。
20〜21節「門前にラザロという全身おできの貧乏人が寝ていて、 金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。」 とだけ紹介されています。
財産があるかないかは関係ないのです。
ラザロは全身におできがあって寝ておりましたから、見栄えが悪く、誇れるような行動も出来なかったでしょう。
ラザロ自身誇れるものはないので、むなしい自分を、そのままの姿を神の前に持ち出し、へりくだることが出来たのでしょう。
ルカ23章で、イエスのとなりで十字架に架かった犯罪人の一人が、自分は罪を犯したのでそれを認めて悔い、イエスに 「あなたの御国の位にお着きになるとき・・・・・・」と告白して、43節「・・・・・・わたしとともにパラダイス(天国)にいます。」と答えていただきました。
残り数時間の人生を、自分の欲望ではなく、イエスに向け、イエスに頼った(悔い改めた)からです。

5)御国をめざして
神の国にはいれるカギは、みことばに従う生活です。
私たちが生き生きと人生を歩むには、みことばによって生かされているという経験を、積み重ねていくことです。
そして人生の節目となるような大事件がおそってきた時も、みことばを信じ、祈りを重ね、指摘されたことがあれば悔い改めるのです。
このような人を神は御国に導いて下さるのです。
私は、天の御国をめざすとともに、マタイ25章21節 「その主人は彼に言った。 『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 と、主に言われるような人生を歩みたく願う者でありたいと思うのであります。
恩人がそうであったように。







2009/11/08 17:00:47|先週の礼拝から
思い煩うな人生
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:U歴代誌20章1〜22節

1)向こうからやってくる
人は、意識しようがしまいが、生き方について自分の人生形態をもっている。
しかし、実際生活では、自分のそれと異なる環境がいつでも起きます。
今日も、たった今も、経験した事がなくて受け入れたくない事柄や情報も、向こうからやってきます。
その都度、今後の予測や対応策決断などを経て、新しい行動を確立していきます。
しかし、好ましくない事柄は、考え過ぎてストレスが増大し、思い煩いに直結し易いのです(煩うとは、心配する、苦しむ、悩む等の意味)。
いろいろな立場の責任者は、好ましくない事柄によって自分がつぶれて、病にかかり、その先は死が待っているだけです。
現代という先の見えない不透明な時代はなおさらで、自殺者が増える一方です。この思い煩いに到る戦いに、どのように向き合っていったら良いのでしょうか。

2)勝ち目はない
今朝は、旧約聖書のU歴代誌20章1〜22節から考えていきます。
先ず1〜2節、ユダの王ヨシャパテと戦うために、モアブ人、アモン人、エドム人が攻めて来たという情報が届いたところから始まります。
3節 「ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め」 とあり、恐怖とものすごいストレスがあって、思い煩うのは自然の反応であったと思います。
そして、この戦いに挑んでも勝ち目がないので、逃げ出したい思いもあってパニックに落ちてしまったんでしょうか。

3)神の働き
この問題を通して、どのように神の業が働き解決の道が開かれたのか、その秘訣を見ていきましょう。
第一、6節以降が祈りですが、12節 「このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。
ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」 と祈り、この戦いに勝てない、信仰も不十分、というように事実を認め、白旗を揚げた(神に告白した)時、神が働かれるのだというのです。
男には(女にも)プライドやメンツ等があって自分の弱さを認められないのです。
いさぎよく助けを求める時に、神は働かれるのです。
第二、3節 「ユダ全国に断食を布告した。」 つまり問題を責任者(国王ヨシャパテ)の個人問題にしないで、関係者(国民)全員が神に祈るという、当然のような事を実行したのです。
(これらは、簡単のようですが、簡単ではないのです。
ヨシャパテは、信仰によって成り立っている国の、王であるのに、自分の信仰不足を、自分で公表し、全国民の祈りを動員したのです。)
問題や戦いに直面すると、自分の力で何とかしようとし易いのが人間の浅はかさ、従ってストレスが益々たまって不安がつのり思い悩むのです。
神への信仰による祈りには、平安と安心があり、絶対の力があるのです。
祈りは、最初に使うべき武器で最後の手段ではないのです。
神に祈り求める事から始めれば思い煩う事はないからです。
第三は神に信頼して立つということが信仰の原則です。
15節 「この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。」 と言われるお方がおられます。
更に、17節、 「この戦いではあなたがたが戦うのではない。・・・・・動かずにいよ。」 と念を押すように言われ、私たちは主を仰いで待つだけの事柄もあるのです。
動かずに立つとは、それはものすごい確信です。
みことばの約束を確信し、逃げずにあきらめないことです。
そして聖歌隊を先頭に21節のように、賛美をささげて勝利宣言をしてしまったのです。
つまり勝利の先取りです。
そうすると、22節 「彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人・・・・・・・彼らは打ち負かされた。」 というのです。
伏兵の正体は明確ではありませんが、“相互不信による同士討ち”ではないかと推察されています。

4)私のガンバリ
私たちは神に信頼して委ねることが出来ずに、つい自分で挑戦してしまい易いのです。
私は開拓伝道をスタートした時、良い教会、良い牧師になろうと懸命にガンバリました。
その結果、燃えつきてストレスと思い煩いだけが残ってしまいました。
そのころ教えられた事は、教会は神のもの、教会は私たちが支えるのではなく神なのです。
皆さん。
それは思い煩わないで神に信頼し委ねた結果、人知をはるかに越えた勝利を与えられたのであります。

5)パウロ極意
私たちはピリピ4章6〜7節の約束を信じます。
「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」







2009/11/02 9:53:15|先週の礼拝から
人生の質問と正答
三浦喜代子先生のお話から   主要テキスト:詩篇121篇

1)シナリオは全て
今年の2月15日にお伺いした時、私はこんな事を申し上げました。
『2008年の一年間には、御教会にとって、二つの大きな試練がありました。
3月に芳賀夫人、12月に中島姉が召天され私は大きなショックをうけ、ご家族を初め私までも切なく、苦しく、悲しく、重い気持ちでした。
残念でなりませんが、イエス様のみ心を計りかねます。
主の慰めと新しい力が与えられるよう祈ります』 という内容です。

ところが、3月に芳賀先生から 「結婚する」 との話を聞いて驚きました。
その後のことは皆様ご存知で、私も素晴らしい結婚式に列席させていただきました。
これらのシナリオは全て神の御手によるもので、富子師が来られたことは教会にとってどんなに明るい希望になったことでしょう。
心から主の御名を崇めます。

2)越えられない山
今朝のテキストは、大変有名な詩篇121篇で、多くの日本人の方々に愛唱されています。
1節の 「私は山に向かって・・・・」 と言いますと、ここはご当地大平山になるでしょうか。
私はこの山で四季折々の風景を見せてくれる山を想い描きますが、クリスチャンならこの美しい山を造られた神を賛美するでしょう。
ところが、この詩人は山を見上げて “私の助けはどこからくるのか” と言っています。
それは山を見ても私を助けるとは思えないし、また助けを与える力もないし、平安がないのです。
ところで、詩人が見ている山は、日本の山ではなく、イスラエルにある山、砂漠や荒野に続く山々で、草木のない死んだような恐ろしい山、盗賊が出没する山なのです。
山を見ると不安が募り、その中で何も出来ない自分がみえて、越えたいのに近づけない葛藤の中にいるのです。
ですから、日本に住む私たちにとりましては、肉眼で見える山ではなく、越えられない “問題・課題" の山と考えられましょう。

3)深刻な人生の質問
それは病気か、心の苦しみか、怒りか、または痛んでいる心の傷でしょう。
取り戻せない過去の自分の失敗と罪の呵責です。
山は人生の "困難・艱難" なのです。
詩人は自力では解決できない山の前で、私の助けは一体どこから・・・・と嘆くのです。
“誰かたすけて〜” という悲鳴と共に一歩も進めず、懊悩苦悩し、山の前で苦しむのです。
つまり人生の深刻な質問なのです。

4)解決の糸口と回答
その時、詩人はふと目の前の山から視線を移すと、天があり、天を見上げたとき我に帰って1つの真理を見つけます。
「あなたの助けは天地を造られた主から来るのだよ」 と万感の思いを込めて言い切ったのです。
詩人はそこに来るまでしばらくの時間があったのではないか。
その時間こそが解決の神の時なのです。
そしてその視線の移動こそが解決の糸口であり、臨在の神へ導く細い道だったのです。
正解が分かり質問の答えと疑問が解け 「天地を造られた主から来る」 と告白できたのです。

5)備えられたシナリオ
大きな真理発見です。
テキストの3節以下に、守るという言葉が6回も出てくるのです。
助け主である神はあなたを守る方であると教えてくれたのです。
先ず3節 「よろけさせず」 とあります。
主がその足元を守るのですから、力を頂いて歩むのです。
また7節、全ての災いから逃れの道を備え、いのちを守られる。
地上のいのちの期限が切れても、神は永遠のいのちを与えて下さる。
その意味で主はいのちを守ると言われる。
8節 「今よりとこしえまで・・・・」 は、神の下さる保証書です。
詩篇23篇4節 「たとい、死の陰の谷を・・・・」 が聞こえてきませんか。

6)だから今
困難の山の前で嘆かないで 「私の助けは、天地を造られた主から来る。」 と全てをご存知で、御心のまま実行する神に、直面する "問題・課題" を明け渡し、視線を神に移して解決の鍵を握るお方を見上げ、ゆだねる事です。
そうしたら詩人のように神から直ちに耳元で確かな約束と保証がいただけるでしょう。