T・J ヘイズ宣教師のお話から 主要テキスト:ヘブル書9章11〜15節
私はトーマス・ジャクソン・ヘイズでアメリカ人三世です。 6歳の頃から教会へ行き、罪を赦されて天国に行くということを理解し、イエスを受け入れました。 大学では機械工学を学び、卒業して国際ナビゲータの伝道団体に入りました。
1)神とイスラエル 多くの皆さんは、聖書に旧約聖書と新約聖書とがあるのを知っています。 また、新約聖書の背景になる、歴史的な出来事や思想が旧約にあることを知っている方もいます。 さて、神はモーセを用いて、エジプトの厳しい労苦から解放するため、イスラエルの民を引き出し、エジプトの軍隊から守り、荒野に導きました。 その過程で、神の不思議と助けを経験したのに、イスラエルの民は神を信じず、不満を言います。 神は民を愛したのに、民は罪の性質から脱却できなかったからでしょう。 それで聖い神は、十戒に代表される生活基準を、戒め、命令、おきて、教え、等々という形で与え、記念の祭り、罪の贖いなど、民がご自身に近づこうとする時の、身代りの犠牲がないといけないことも教えました。 そうして後、聖い神は、幕屋作成を命じたのです。 その幕屋は、亜麻のより糸で織った幕、やぎの毛で作った幕、各種の板、金の留め金など、で作られた特殊で豪華なテントであり、前述のような、神と人が関わる生活と、その生活に関連する物品を置く場所として、外部から区分させました。
2)幕屋の中 幕屋の中は、大きく分けて二つの部屋があり、入り口に近い部屋には、贖いのための動物をほふる場所があり、それを焼いて煙にする場所や煮る場所もある。 使われる調度品には金がかぶせてあって豪華に見え、神がおられる所にふさわしく見えたでしょう。
この中にはレビ族の祭司しか入れません。 奥の部屋を至聖所と呼びますが、この第二の部屋と手前の部屋の間には垂れ幕があって、第一の部屋から第二の部屋の中は、見えません。 そして、ヘブル9章7節 「第二の幕屋には、大祭司だけが年に一度だけはいります。そのとき、血を携えずにはいるようなことはありません。 その血は、自分のために、また、民が知らずに犯した罪のためにささげるものです。」 と説明されています。詳しくはレビ記に書かれています。
3)聖書のテーマ また、旧約のモーセ5書(創、出、レビ、民、甲)を観ると、聖い神の裁きが胸を打ちます。 その聖い神が人間と共にいたいのですが、神は罪ある人を打つのです。 だから、罪ある人間がどうしたら聖い神と和解し、神にに近づくことができるのか、これが聖書の初めから終わりまでの大切なテーマなのです。 それは今まで学んできた幕屋に関係します。 私たち罪ある人間が、聖い神と仲良くするために、身代りになってくれる動物を、犠牲として人間が準備し、幕屋の入り口まで連れて行ってほふり、祭司が中で献げました。 しかし、神に対する罪はささげた人の心に残りました。 ヘブル9章9節 「この幕屋はその当時のための比喩です。・・・・・それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。」 だから旧約の祭司達は、年ごとに、犠牲をささげる祭りをやるように命じられていたのです。
4)私たちのための犠牲 新約の幕屋は何だろう。 ヘブル9章11〜12節「しかしキリストは、・・・・・手で造った物でない・・・・・さらに完全な幕屋を通り、・・・・・ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」 と述べています。 更に24節 「キリストは、本物の模型に過ぎない、手で作った聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。」 と教えています。
キリストが完全な幕屋であり、キリストがご自分の血によって、人が造った幕屋ではなく、まことの聖所に入られ、永遠の贖いを完成させたのです。
26節では 「キリストは、ただ一度、・・・・・ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られた。」 と告げているのですから、キリストを信頼すればよいのです。 私たちの罪を取り除く犠牲はキリストなのです。 繰り返しですが、この世にキリストが来て、キリストが私たちのために、罪の犠牲となって死んで下さったのです。
5)最後に ヘブルの中心的みことば、10章19〜20節 「・・・・・兄弟たち私たちはイエスの血によって、大胆にまことの聖所に入ることができるのです。イエスはご自分の肉体と言う垂れ幕を通して・・・・・」 完成させたのです。 22節 「そのようなわけで私たちは心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから全き信仰を持って真心から神に近づこうではありませんか」
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