小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/10/25 19:09:45|先週の礼拝から
思い直される神
芳賀富子師のお話から   主要テキスト:ヨナ2章10〜3章10節

1)再び使命に招く
魚の腹の中から救い出されたヨナは、再びニネベ宣教の使命を与えられています。
そこにヨナに対する神の憐みが感じとれます。
神に逆らったヨナを責めないで彼を受け入れ、 “再び” 同じ使命に招いたのです。
ヨナの回復と預言者としての可能性に期待し続けたのです。
主はペテロが三度裏切ることを知りながら 「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 と言葉をかけられました。
失敗する彼を受けとめ立ち直る将来に期待して、使命を与えています。
このように神は私たちを、 “何度” もご自分の計画の真中に引き寄せて、 “再び” 交わりの回復と使命に生きる恵みを与えて下さるのです。

2)真剣な悔い改め
ヨナが 「ニネベは滅ぼされる。」 と語った神の言葉を、ニネベの人々はどのように捉えたのでしょうか。
5節―彼らは神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高いものから低いものまで荒布を着たのです。そこにニネベの人々の真剣な悔改めの姿勢が分かります。
現状に甘んじないで、このままではだめだと感じて罪に悶え苦しむことがニネベの人々は必要であったということです。
彼らは神のわずかな可能性に賭けたのです。
 「もしかすると、神が思い直してあわれみ・・・・私たちは滅びないですむかもしれない。」 神はこのニネベの人々を憐れみ、わざわいを思い直し、滅ぼさなかったのです。

3)憐みを受ける心
神の憐みは、どのような心に向けられるのでしょうか。
詩篇103篇13節 「主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。」 とあります。
ヨナとニネベの人々の悔改めにその事をみます。
神が思い直されたのは、
(a)神が人々の魂を愛するゆえです。
ローマ8章32節、 「私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
(b)神の忍耐が、神に逆らったヨナを見捨てず立ち返るのを待っています。
ニネベの人々が悔い改めることを待たれたのも神の忍耐であり、滅ぼすことを思い直されたのです。
Uペテロ3章9節、 「主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。
かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
(c)神は砕かれた悔いし心の人、へりくだる人を思い直されます。詩篇51章17節、 「砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。」

4)おすすめ
こういうわけですから、弱さや足りなさの故に、失敗や過ちを犯しやすい者ですが、神の愛とご忍耐を覚えて、神の憐みをいつも求めつつ、神の前に砕かれた悔いた心で祈る者でありましょう。







2009/10/18 20:11:55|先週の礼拝から
分かち合う
芳賀 功師のお話から    主要テキスト:ルカ3章7〜14節

1)渡良瀬川遊水池で
この広大な渡良瀬川遊水池で、今日は野外礼拝でございます。
この遊水池は東京ドーム350個以上も入る広さです。
この土地は、利根川上流の大雨の度に、利根川から渡良瀬川への逆流によって、作物が大被害を受けたのですが、足尾銅山による大気汚染で、銅山周辺の山々の木が枯れて保水力が低下したため、洪水が発生し易くなっていました。
更に足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出したのです。
足尾鉱毒事件の直接原因です。

やがて農民の政治闘争が始まりますが、当時、国会議員であった田中正造は、問題の深刻さを知って、その農民を支援します。
国会での行動はもちろんの事、死刑を覚悟して、天皇への直訴を実行した事は有名です。
さて歴史は、ここに谷中村という大きな部落がありましたが、その部落を湖の底に沈め、遊水地として、足尾の土砂を集中的に沈殿させるという計画が立てられ、村は国家権力によって強制破壊され、村民は立退きを強要され、離散していきました。
しかし、正造は、荒野となってしまった土地への愛着を捨てられない人々と運命を共有し、聖書を片時もはなさず、わずかなものを分け合ったようです。
政治活動だけではありませんでした。

2)B・ヨハネの警告
バプテスマのヨハネは、荒野で叫びました。
8節 「悔い改めにふさわしい実を結びなさい。・・・・・・」 、9節 「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」 と警告しました。
木というのはイスラエル、斧は神の裁きを意味しています。
エルサレムの町が、今まさに亡ぼされ様としている時、警告したのです。
イスラエルの人達が神に立ち返って欲しいと願ったのです。
それは神の裁きが近づいているからです。

3)悔改めの実a
私たちは仮に今夜、召されたとして、本当に天国にいけるのでしょうか。
例えば人は相手に対して、私の口が少し強く言い過ぎました。
本当に悪かった“ごめんなさい”という気持ちを表し、自覚する事が大切なのです。
神の御心に沿った悔改めは、神がその人を造り変え、それにふさわしい実を結びます。

4)悔改めの実b
そこで10節「群衆はヨハネに尋ねた。『それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。』
ヨハネは11節 「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者に分けなさい。
食べ物を持っている者も、そうしなさい。」 と言って、
 「与えなさい」 でも「施しなさい」でもなく、もたない者に 「分けなさい」 と言いました。
もつ者が持っていない人に施すというよりも、神から与えられた物を分ける、つまり 「分かち合いなさい」 、持っている物を全部与えるのではなく、 「二つ持っていたら一つは、相手に分けてあげなさい」 と言うのです。

5)悔改めの実c
皆さん、こんな簡単なことが、人間は何故出来ないのでしょうか。
それは人間生まれつきの罪を持って生まれ、自己中心で、元来神を知らず、神を信じられなかったからです。
外国の方は砂漠の中で“おにぎり一個”あった時に分け合います。
こうした事が悔改めにふさわしい実というのです。
“下着を2枚”も同様です。
夜の冷え込みは厳しい。
この地方では下着は防寒着です。
それを分け合う事は、人間としてのぬくもりを分かち合う事です。
自分中心の生活態度ではなく、 「人を愛する生活態度に変えなさい」 という事を3章は伝えています。

6)まっすぐ
そして私たちは、イエス・キリストの十字架によって罪赦されているのですから、主の前のまっすぐにされた道を歩いていきたいと願う者です。







2009/10/13 10:39:55|先週の礼拝から
人知をはるかに越えて
芳賀 功 師のお話から  主要テキスト:エペソ3章19〜21節
1)祝祷の背景
さて、礼拝の最後に読む、みことばは何でしょうか。
礼拝は、賛美で始まって頌栄(ほめうた)で終わりますが、最後に祝祷があります。
この祝祷が今日の中心で、教会による(神の)栄光宣言であるかのような祝福の祈りです。
今朝は、その祝祷に込められた内容のほんの一部分を確認したい。
エペソ1章を見ますと 「神が御子において・・・・計画によることであって」 と述べた上で、 「御子の血による贖い、すなわち罪の赦し・・・・、救いの福音・・・・。」 が述べられています。
また、 「それを信じた事によって約束の聖霊をもって証印を押され・・・・御国を受け継ぐことの保証・・・・」 と続きます。
更に驚くことに、 「神は・・・・キリストを、教会にお与えになりました。」 と叫ぶかのように書いています。
神は、禁断の実を食べて堕落していたアダムの子孫である人間を、愛と恵みと平安の中に引き戻すために計画し、完成させ、教会に与えたというのです。
思考がかすむ程に遠大なことで、黙想することさえ困難を覚えます。

2) 人知をはるかに越え
今日のテキストから、パウロの祈りを読んでみよう。
19節、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

20節、どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
21節、教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

パウロは 「人知をはるかに越え」 と言っています。
ルカ15章で、イエス様が放蕩息子の例話をされました。
息子と呼ばれる資格のない者なのに、父(神)は走りよる方です。
ヨハネ4章では、イエス様は、わざわざ異邦のサマリヤ地方を通られて、孤独な一人の女を捜しだし、喜びで満たして町まで走る女に変えました。
このお方(イエス)が教会に与えられているのですから、パウロは 「人知をはるかに越えたキリストの愛・・・・・・」 に、あなたがたが満たされるようにと祈っているのです。

3) 私たちのうちに働く力
また、20節で 「私たちのうちに働く力によって」 と言っています。
パウロは伝道旅行を通して、神の力が自分のうちに働きかけてくださる事を、いつも経験していたのです。
同じように主は、自殺願望を抱いた私を、大きな負債から具体的に解放して下さり、 「生きるように」 と声をかけ、牧師にまで変えて下さいました。
この私は、人を助けたり、慰めたり、自分の力では出来ないケチな男です。
仮に何かよい事が出来たとしたら、私ではなく 「私たちのうちに働く力」 、即ち私の内に働く神ご自身なのです。
そしてこの事は3章16節で 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」 と祈っておりますが、必要な時に、必要な力を、父(神)が、私たちに与えて下さるという事です。
だから、私たちもキリスト・イエスの名によって、求めるべきです。

4) すべての考えにまさる神の平安
ですから、ピリピ4章6、7節 「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 を思い起こします。
私は、この約束に頼りながら、キリストのこの愛を追及していきたいのです。
私はある婦人が、ガンの手術を受けようとした時に、平安がありませんでしたが、前述のみことばによって、考えられない程の心の平安が与えられた事を知っています。
感謝でした。

5) 行きづまることはありません
また牧師にも、他人に洩らせない困難や途方に暮れるような事があります。
しかし、Uコリント4章1節 「こういうわけで、私たちは、あわれみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、」 同8節 「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。
途方にくれていますが、行きづまることはありません。」 と書かれています。
神は全ての事を既に御存知なのです。
困難に押しつぶされたかに見えても、どっこい、壊されないし、つぶれないのです。
キリストが与えられているので行き詰ることはないのです。

6)世々にわたって
僅かしか書けませんが、こういう訳で、主は限りない栄光を用意しているのです。
最初に戻りますが、祝祷の中には 「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。」 という思いが強く込められているのです。







2009/10/04 20:12:43|先週の礼拝から
祈る者に
芳賀富子師のお話から    中心テキスト:ヨナ2章1〜10節

1)概要 
魚の腹の中で祈ったヨナから、主が私たちを祈る者に導いて下さる事を、学びたいと思います。
――魚の腹の中――そこは一人にされた所。
外との世界から、人との関わりから遮断され、自分の力ではでる事の出来ない所です。
しかし神によって備えられた場所です。
ヨブは苦しみの中から神に心を向けて願い叫びつつ、祈りが聞かれると確信がもてたのは、そこで悔改めたからです。

2)ヨナの悔い改め 
@神に聞かず聞こうとしなかったヨナが、神に聞く姿勢への変化を見ます。
A1章でヨナは、 「天の神」 と表現していますが、個人的に交わる神を捉えていませんでした。
しかし2章では 「わたしの神」 と告白できました。
B真実な悔改めは、必ず実を結びます。
ヨナは悔改め、魚の腹の中で、祈りつつ感謝する者に変えられました(9節)。
大切な事は環境が変わる事ではなく、私自身が変わる事なのです。

3)魚の腹の中 
@そこは神に背いたヨナをもう一度立ち返らせるため、主が追い込んだ所でもあります。
ヨナを裁き、見捨てる所ではないのです。
Aヨナは三日三晩魚の腹の中にいましたが、主は魚に命じてヨナを陸地に吐き出させています。
トンネルには必ず出口があります。
閉じ込めた神は出口も備えてくださいます。
B神様が追い込まれるとき、そこは恵の場所なのです。
主はいつも、ヨナと共にいて下さいました。
彼は、その神と向き合う事をしなかったのです。
彼の傲慢さと頑なさが砕かれるまでは、ニネベでの宣教の働きは出来なかったでしょう。
ヨナ自身が変えられ整えられるまで、主は魚の中に追い込まれたのでしょう。
ですから、それは恵の場所でもありました。

4)私たちが祈る者となるために 
@詩篇62章8節 「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。」 
どんな時にも、四方八方が塞がれてしまったような時にも、まず問題・課題から目を離して主に心を向け、イエス様に信頼するのです。
A祈れないとき、祈りたくないとき、なおも祈り続ける事が、倒れないで支えられる鍵です。
B主は祈りを必ず聞いて下さると確信することです。
みことばの約束を信じて、祈り続けるかぎり、必ず主は顧みて下さいます。(マルコ11章22〜24節)







2009/09/29 9:08:41|先週の礼拝から
恵みの世界U
芳賀 功師のお話から   中心テキスト:ルカ5章1〜11節

1)前回と今回
先々週の 「恵みの世界」 では、途中までしかお話できませんでした。
それで、今朝は後半の5節以降、特に10〜11節までの重要なメッセージをお伝えしたいと思います。
前回のお話で、キリスト教は 「恵の世界」 であると言い切ることが出来ますが、10節  「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」 というわけの分からないようなみことばが中心なのです。
今回は、ペテロがどんな思いでひれ伏し、どうして11節 「彼らは、・・・・・・何もかも捨てて、イエスに従った。」 のだろうか等を含め、考察してみたいと思います。

2)弟子と成長
このところは、ペテロ達がイエスと出会い、全てを捨ててでもイエスの弟子になりたいと願い出て従ったのであります。
ペテロの人生にとって、これが一大転機になったのであります。
弟子とはどのような人を指すでしょう。
どうでしょうか。
それはイエスを信じ、従っていこうとする人は全て、イエス・キリストのお弟子さんであります。
しかし、真に(実質的に)弟子となるのは、段々と成長して良い弟子となるのであって、その成長自体も恵みです。
そのお弟子さんという事について、聖書から三つの鍵を見ることが出来ます。

3)出会い
第一の鍵は、イエス様との1対1の個人的な出会いが、キッカケとなり決定的になるという事です。
ペテロの場合、4節の 「網を下ろせ」 と声をかけられた事が、弟子になるキッカケでありましょう。
木に登ったザーカイも同じです。

4)神の仕業
第二の鍵は、8節のひれ伏すような経験を通してです。
これは大転機です。
――私も自分の事で恐縮ですが 「三流営業マン」 の本の中で述べましたように、私にとって未曽有の5000万円という不良債権を、私の様などこの馬の骨か分からない者に、一挙にその大金をもって贖って下さったのであります。
私にとってはひれ伏すという経験と共に、只々神を見上げつつ、涙、涙の感謝と、奇跡を見た一瞬でした。――
それまでのペテロは、5節 「先生。」 とお呼びしていたのですが、8節に至って 「主よ。」 つまり 「神よ。」 と呼び、一連の出来事を 「これは神の仕業」 だと認め 「主よ。私のような者から離れて下さい。罪深い男なんですから」とひたすらひれ伏したのです。
これは、 「自分とは何者なんだ。神が俺にことばをかけるとは。」 という感覚だったでしょうか。
大漁と目の前のイエスを見て、動転していたのです。
もう1つ。
ペテロは、目の前におられる神(臨在)を感じた時に、自分は何と心の汚い人間だろうかと気付いたからです。
運が悪い、相手が悪い、世の中が悪い、社会が悪いという議論は出来ますが、神の前に 「私は罪深い男」 と告白ができるという告白自体は、素直で正直な心だと思います。

ペテロの様に素直な心で 「私がまちがっていました。イエス様ごめんなさい。」 という思いと共に、主の御前にひれ伏す経験を与えられました。
この様な祈りと共にみ前にひれ伏すことが、キリストの弟子への道です。

5)神の約束
第三の鍵は10節です。
「こわがらなくてもよい。」 とは、動転しているペテロを落ち着かせるために言われたのでしょう。
優しい御方です。
そして 「これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。
この“とる”と訳されたことばは、ギリシャ語でゾークローン(zoqron)といい、人を“助け”、“生かす”、という意味を含んでいます。
こうして、ペテロは 「何もかも捨てて、イエスに従った。」 のです。
更に、日々に主の前に祈り、主の栄光のために生きることを通して、真の弟子が形成され、 「神の恵みによって、私は今の私になりました。」Tコリント15章10節と、告白できる様になるのです。
これらが、弟子の成熟過程と言えるでしょう。
ペテロは、鶏が鳴くのを聞いたあと、激しく泣き、私の羊を飼いなさいと言われるようになっていきました。