小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/09/21 7:03:15|先週の礼拝から
神に知られている者
寺門松雄先生のお話から   中心テキスト ガラテヤ4章8〜9節

1)最後の日の
今年で87歳になる老牧師です。
歳のせいで、加齢と共に 「はたして自分の最後はどのようなものになるのかなぁ」 という思いに、なっています。
遠藤周作の本に 「今日という日が私の最後かも知れない」 というという言葉があります。
そのために私は、自分の最後の日のみことばとして、その日教えられたみことばを短冊に書き記しています。
老いのために暗唱できなくなった為です。

2)なくてはならない聖句
戦前、私は結核のため軍人にはなれずに、横須賀の海軍工廠で軍艦の設計をしていました。
それは各県から二人ずつ募集があり、私は海軍から奨学金を頂いて横浜国大(元国立高等工業造船部)に入りました。
1年半で群馬県の特殊潜航艇の設計に携わりました。
それが実は真珠湾攻撃に使用されました。
そうして戦後、その当時の戦友に 「お前は何でヤソ教になったんだ」 と言われ困惑致しましたが、そういう事を言う人をどのように天国に導いたらいいのか、祈りつつ伝道者を目指しました。
皆さん、そのような中で自分の助けとなるみことばがありますか。
有ればそのみことばがが、その人にとってなくてはならない聖句となるでしょう。
私のそれは今日のみことばです。

3)終わり良ければ
私は毎日本を読むことが日課となっていますが、今日は日野原先生(聖路加病院)の 「百歳の青春」です。
聖書のみことばには、自分自身を支える力があります。
人生の終わりはどうしますか。
終わりが良ければ全て良いのです。
人生の終わりは自分で決める事が出来ませんが、人は神から召される時が必ず来るのです。
自分で召される時を決めるのは、越権行為なのです。
神は命を与えたのですから、神が取り上げる時を決めて下さるのです。
これがクリスチャンの基本的な信仰です。
初め(生)も終わり(死)も、神に委ねる事です。
それが分かるという事は、聖書の事も分かってくるし、人生が分かってくるのです。

4)知識だけか信仰か
また、聖書の知識だけに頼ってはなりません。
信仰を知識だけで深めるという事は、只の学問になってしまいます。
教会もある一面、学校ではないかと思われている事がありますが、私はそのことを聞いてがっかりしました。
教会は一人でも教会ですが、教会はみことばによって生かされ、人生に希望を持つ所なのです。
罪ある人間が悔いて赦され、人が生かされる信仰、これが教会の姿です。

パウロのという人は、聖書を書いた代表的なクリスチャンですが、クリスチャンになる前の彼は、イエスを迫害していました。
しかし、回心して伝道者になり、ヨーロッパの異邦人伝道のために、4回も歩いて宣べ伝えた人です。
一人でも多くの人に信仰を持ってもらいたいという気持ちが、彼の行動となったのです。
私も伝道者ですから、何も出来ないとすれば怠慢です。
それは信仰によって一人でも多くの人に伝えたいという情熱が起って、人を行動させるからです。

5)祈りによってスタート
先週、Kさんという一人の男の人から電話があり、あることに対して祈ってくださいという事でした。
私は答えられませんでしたので、 「祈る事をさせて下さい」 と答えました。
そうして、今日のテキストの8節 「あなた方は神を知っているのに」 とのみことばを思い出しました。
この方は、旧・新約聖書全てを読み、神を知りながら中々祈れないのです。
ただ頭の中だけで信仰を知っているというのは、偶像の神に過ぎないと思うのです。
しかし、神に知られている者は、どのような行動を起したらよいか、祈りからスタート致します。

6)神に知られている
奥さんが神と共に歩んで夫に信仰がない場合は、共に天国に行く事は出来ないでしょう。
クリスチャンとしての御夫妻の姿を、子供に見せてください。
子供から見て、夫婦がどのような姿でいるのが一番嬉しいでしょうか。
そうです。
愛し愛され、仲の良い事です。
教会に来ているのに夫婦喧嘩をする事は、証になりません。
教会に来て、祈って、交わりを取り戻し、隣の人と友達になっていく、そうして、神の恵みを受けて欲しいのです。
こうして、一人でも多くの人に出会って、神の福音を伝えていくのです。
それが、神に知られている者の姿であり、 「パウロの伝道の力」 だったのです。
神に生かされている人は、当然神に知られています。

7)喜びより神を求める
お勧めしたい事は、山上のメッセージ、マタイ5章3節を身につけて欲しいという事です。
それは 「心の貧しい者」 は喜びより常々神を祈り求める者なのであります。
祈るという事は、「神に知られている」 という事から来るのです。







2009/09/14 9:09:30|先週の礼拝から
恵みの世界
芳賀 功師のお話から       中心テキスト  ルカ5章1〜11節

皆様、今朝は恵みについて考察して見たいと思います。

1)恵みとは何
恵みとは何でしょうか。
恵みという言葉は、キリスト教の専売特許ではありませんが、ここでは神の恵みの事です。
信仰は神による恵みの世界ですから、今生かされている、また生きているのは恵みによるという事なのです。
これは1つの神学ではありますが、言葉としての意味を知ることよりも、実際の恵みの体験のあかしがより重要です。

2)受ける資格がない
さて、結びを先に言いますと、神の恵みとは、受ける資格のない者が一方的に与えられる神の好意の事です。
なぜ資格がないのでしょうか。
それは神に対して罪を犯した私たちは、本来神の裁きを受けても当然な者ですが、イエス・キリストの十字架によって罪赦され、神の溢れるばかりの恵みにあずかる事が出来るので、この事が聖書の中の恵みの世界です。

私がいま牧師として立っているのは、この恵みに応え、償っているに過ぎないのです。

3)ペテロの経験
これは、ルカ5章のペテロのように、イエス様との出会いによって、神の恵みが分かったからです。
1節、群衆が神(イエス)の言葉を聞こうと押し迫った時に、イエスはたまらず湖の上で説教しようとして、ペテロから舟を借りる事から始まります。
集会が終わり、イエスはペテロに舟を借りたお礼を言ったでしょう。
対するペテロは、夜通し働いたのに魚が全くとれないので、ため息でもついたのだろうか。
イエスはペテロに 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」 と言われました。
“この時”のペテロの心を常識的に推察するなら、二つの点で無理な注文だと思う可能性があったのです。
第一にペテロは一生懸命やって、疲れているのです。
空腹でエネルギーが全く残っていなかったのであります。
第2に目の前のイエスは漁師ではなく素人です。
「プロに向かって、専門家に向かって指示するこの人は何者ですか。」 という思いです。
その様な事は自分がやってきた、それは自分が一番よく知っていると感じるでしょう。
「網を下ろせ」 と言われて 「No,」 と答えても良かったのです。
しかし、“その時”のペテロは違っていました。
「お言葉どおり網を下ろしてみましょう。」 これが今日の結論です。
神の恵みの世界に入っていく秘訣がここにあります。

4)恵みの世界
自分がやった事の結果しか受け止めることが出来ない世界は、恵みの世界とは言いません。
時には自分が一生懸命やった事でさえも、正当な結果(成果)が出ない場合が多いのです。
でも皆さん、5節のみ言葉に対して、6節 「そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」 のです。
神は、そんな自分であるにもかかわらず、どんどん恵みを注いでくださるのです。
自分が自分がという自分中心の生き方ではなく、神の言葉に耳を傾け、それに従う生活であり続ける時に、広がっていく世界です。
自分では逆立ちしても出来なかった事が、神のみ言葉に従った時に、鮮やかに実現して助けられるのです。

5)自分の姿と神の憐み
そうしてペテロは、8節 「私は、罪深い人間です。」 と言ってひれ伏しました。
イエスと出合った事により、本当の自分の姿(こころ)が見え、分かったからであります。
自分の力や才能で生きているように見えても、神の前に立って自分を見つめた時に、何の価値もない自分なのに、神によって生かされている事が、はっきりと分かるのであります。
ペテロ自身、何の資格もない、只々神の恵みと憐みにより、イエス・キリストの十字架によって罪赦され、溢れるばかりの恵みにあずかる事ができ、 「恵みの世界」 に入れて頂けたのであります。







2009/09/07 7:43:07|先週の礼拝から
成しとげて下さる神
杉本宣子先生のお話から     中心テキスト 詩篇138篇

1)三つのあかし
今朝は、私のお証を、救い、伝道者への召命、伝道者生涯の三つに分けて語らせて頂きます。

2)愛を受けて救いに  
父は軍人、私は8人兄弟の5番目で、昭和5年生まれの79歳です。
父が戦死した時、三重県に疎開、終戦と共に上京し自活のため働きました。
貧しく過ごしている時、信仰をもっていた姉の勧めで、教会に行きました。
そこは当時有楽町にあった丸の内教会です。
ある時、特別伝道集会に出席し、分かった事が1つありました。
それは、人は誰も創造者なる神に造られ、その愛を受けて生かされているという事です。
お話を聞きながら、自分はその神に背を向けて自己中心に生きている罪びとである事を認めたのです。
そしてその罪を悔いて、イエスを信じて救いにあずかり (Uコリ5章17節) ました。
昭和31年7月の事でした。

3) わたしの前を歩み
ある時、神学校に行く機会があって、神学生達に会い、どうしたらここに入学できるのですかと聞いた時、 「召命を受けている人ならば誰でも入れますよ」 と教えられました。
こうして献身する事を考え始めました。
ある集会に出席した時、創世記17章1節 「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」 に出会い、私は 「あなたの御心ならどんな所にでもお従い致します。」 と告白をして立ち上がり、マタイ20章6〜7節で献身の道を選び取りました。
この決意に対して、職場の皆さんも快く送り出してくれたのです。
いま振り返りますと、人々に力を込めて福音を語り、イエスに導くという伝道の仕事は、聖書の知識を持った人がなれるのではなくて、罪赦されて永遠のいのちにあずかり、新しく生れ変った人にしか出来ない事です。

4)知らない信者さんたちから
続いて、私の伝道者生涯について振り返って見ます。
神学院に入学する時、学院長から 「結婚に関しても神にささげておりますね。」 と問われ、 「全部おゆだねしております。」 と申し上げました。
そして卒業後の最初の赴任地は船橋教会で、13年間牧会奉仕を致しました。
そして1975年に秋田に遣わされました。
前任者から引き継いだ時には、信者はゼロで会堂は二軒長屋の借家でした。
これで一体どうして生活するのかと教団本部に尋ねたら、あとは信仰でやりなさいという事でした。
マタイ6章30〜31節を見て下さい。
私たちが求めないさきから、全部御存知の神様は、全く知らない信者さんたちによって、献金や小包が届けられて、私の生活を満たしてくださいました。
こうして、T列王17章、ケリテ川でカラスを用い、エリヤの飢えを満たした神が、今も生きて働いている事を、よくよく知らせていただいた事を、今も忘れる事が出来ません。
詩篇126篇 「主は私たちのために大いなることをなされ・・・・」 と歌っているのと同じ様です。
そうして三年前に秋田の地を離れて千葉にまいりました。
秋田でのご奉仕は32年間でした。

5) 成しとげて下さる神 
私は何のとりえもない者ですけれども、救いに入れ、召しを与えて、尊いかけがえのない人の魂を預けて下さり、大切な方々を天国にまで送り届けるという務めを任じて用いて下さった事を、心から感謝しております。
神は、今迄の私に関わる全てを成してくださり、今後も 「成しとげて下さる」 お方だという信仰の告白をすることが出来ます。詩篇138篇8節。
残りの伝道者生涯にあっても、アーメンと言える人生でありたいと願っています。







2009/08/30 19:42:46|先週の礼拝から
どの種 ? 蒔くの
Earl 宣教師のお話から ―――― 通訳 デービット宣教師

1)種を選ぼう
 私は牧師ではありませんが、宣教師の立場でメッセージを致します。
皆さんはとうもろこしの種を蒔いた事がありますか。
蒔けば自分で刈り取る事になります。
どんな種をあなたは蒔いていますか。
神の言葉という種を蒔く時、神のために蒔くのです。
またあかしという種も蒔けるでしょう。
でなければ教会は実を結びません。
どうして私たちは救われるのでしょう。
種が心に落ちて成長し、実を結ぶからです。
私たちにとって一番良い贈り物は何でしょうか。
永遠のいのちでしょう(天国)。

2)方法を考えてみよう
 ローマ10章14節を読みます。
「宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。」
人々をイエス様に導く方法を学びましょう。(箴言11章30節)
あなたは多くの人を集めたらかしこい人です。(Tペテロ3章15節)
何時でもどこでも宣教のチャンスに答えられるようにいたしましょう。
私はコーヒーのスターバックスが私の会場です。
いろいろな人に会いますが、伝道の場所としては最高です。
お互いにコーヒーを飲みながら挨拶できます。

3)元気に種蒔き
「あなたは教会に行った事がありますか」、
「あなたは天国を信じますか」私はこの時トラクトを渡します。「神はあなたを愛しています。」、
「にもかかわらず私たちは悪い事ばかりしています」、
「だから私たちは神との関係が壊れています。」、
「どうしたらイエス様と仲良くなれるでしょうか」、
「私たちは罪を告白して赦してもらうほかありません」、
「そこで天国が約束されるのです」、
「罪を持ったままでは不可能です」、
「でも罪赦されるために、イエス様が十字架であなたのために死んで下さったので御安心ください」、
「イエス様ご自身があなたの代わりに死なれて、あなたの罪をあがなって下さったからです」、
「イエス様は死んで墓に葬られ、三日目に復活いたしました」、
「イエスの十字架は天国へ入る道なのです」、
「永遠のいのちを獲得しそしてイエスと共に永遠に生きることが目標です。」

4)詳しく聞きたい人に
ですから天国と地獄のキャスティングボードはイエス様が握っているのです。
イエス様に罪を告白してイエスを心に受け入れ仲良くなって下さい。
そこであなたの人生は祝福されるでしょう。
さあ感謝です。
お祈りしましょう。・・・・・・・・・・・
あなたは救われました。
神の言葉である聖書を差し上げます。
どうか少しずつお読みください。
「あなたは永遠の裁きから救われて神の子供とされました」と伝えましょう。
私はいつもこのように人に伝えています。
私は飛行機や電車の中でも伝えています。
またこの方法でなくても、別の方法でもお互いに頑張りましょう。

5)他の伝道者
 最後にオーストラリアのあるクリスチャンを紹介します。
彼は路傍で10人の人に個人伝道をしました。
しかし彼の伝道は40年間実を結びませんでした。
その後、彼は死にましたが、その伝道する姿を見た多くの人が、その人の事を証しました。
そしてその結果500人が救われ、ある人は伝道者になりました。
彼はその実を自分の目で見ることはありませんでした。
なぜなら彼は十四万2千人の人に種を蒔いたからです。

6)私たちも
私たちも福音の種を蒔こうではありませんか。
なぜなら全世界で多くの魂が亡びに向かっているからです。
それは福音の言葉を聞いていないからです。
「イエスは私たちに命じて、・・・・人々に宣べ伝え、そのあかしをするように、言われたのです」(使徒10章42節)。
私たちの責任です。
ルカ9章25節を見て下さい。
クマさん(Earl宣教師のあだ名)はこのみ言葉で救われ、日本の救いのために宣教師として日本にやってきたのです。
感謝します。

中心テキスト ガラテア6章6〜10







2009/08/23 18:52:59|先週の礼拝から
備えられた魚
芳賀 富子師のお話から  中心テキスト ヨナ書1章

私たちの心の姿を照らし、探り、直面する課題にどのように取り組むべきかを、ヨナ書から学びたい。

1)時代背景
ヨナ(U列王14章25節参照)は、北のイスラエルの王ヤロブアムの時代の預言者です。
イスラエルの敵国アッスリアという国が、道徳的に腐敗しそれが限界に達したので、神はヨナを選び、ニネベに遣わし警告を与えさせようとしました。

2)ヨナの思い
しかし、ヨナは 「ニネベの人たちは悪い人だから、神の裁きを受けて亡びて当然だ。神の命令は道理に合わない。理不尽だ。彼らにあまりにも寛容すぎる。」 と考え、神の預言者なのに神のみ顔を避け、ニネベとは正反対のタルシシュ行きの船に乗りました。

3)暴風とヨナ
彼が乗った舟が嵐に見舞われ難破しそうになりますが、ヨナは水夫達と協力して、嵐と戦うどころか、心をかたくなにして船底で眠りに逃避したのです。
備えられたくじで嵐の原因はヨナにあることが発覚します。
彼はそれを認めますが、神への悔改めはしないのです。
「私を捕えて、海に投げ込みなさい。そうすれば、海はあなたがたのために静かになるでしょう。わかっています。この激しい暴風は、私のためにあなたがたを襲ったのです。」

 「私は愛される資格などないんです。私なんてどうでもいいのです。どうせ私は駄目なんです。」
彼には神の心がわからないのです。
神のヨナに対する扱い、それは愛です。
これはヨナに罰を与えたのではなく、彼への裁きでもなく、愛ゆえの取り扱いです。
み顔を避けて行動しているヨナを、神はもう一度ご自分の道に引き戻そうとされたのです。

4)神の備え
再びみ顔を求めて仰ぐ者となるように、海に投げ込まれたヨナは、神が供えられた魚に飲み込まれ救われました。
神は彼を見捨てず追い続けたのです。
神が備えてくださった魚、これこそ神の愛の現われであり、憐みです。

5)試練と脱出
私たちも日々の生活で、問題や課題に直面しますが、神のみ声を聴きながら逃避したり、聞こえない振りをしたり、自分の方法で行動する事があります。
しかし神は、愛と忍耐をもってみ声に聴き従う幸いを、一人ひとりに示されます。
試練という嵐のただ中で、励ましと脱出の道(Tコリント10章13節)を備えてくださるのです。

6)願い
「私に、あなたの仰せの道を踏み行かせてください。私はその道を喜んでいますから。 (詩篇119篇35節)。
この祈りを私の日々の祈りと願いにしたい。