| 芳賀 功師のお話から       中心テキスト  ルカ5章1〜11節
 皆様、今朝は恵みについて考察して見たいと思います。
 
 1)恵みとは何
 恵みとは何でしょうか。
 恵みという言葉は、キリスト教の専売特許ではありませんが、ここでは神の恵みの事です。
 信仰は神による恵みの世界ですから、今生かされている、また生きているのは恵みによるという事なのです。
 これは1つの神学ではありますが、言葉としての意味を知ることよりも、実際の恵みの体験のあかしがより重要です。
 
 2)受ける資格がない
 さて、結びを先に言いますと、神の恵みとは、受ける資格のない者が一方的に与えられる神の好意の事です。
 なぜ資格がないのでしょうか。
 それは神に対して罪を犯した私たちは、本来神の裁きを受けても当然な者ですが、イエス・キリストの十字架によって罪赦され、神の溢れるばかりの恵みにあずかる事が出来るので、この事が聖書の中の恵みの世界です。
 
 私がいま牧師として立っているのは、この恵みに応え、償っているに過ぎないのです。
 
 3)ペテロの経験
 これは、ルカ5章のペテロのように、イエス様との出会いによって、神の恵みが分かったからです。
 1節、群衆が神(イエス)の言葉を聞こうと押し迫った時に、イエスはたまらず湖の上で説教しようとして、ペテロから舟を借りる事から始まります。
 集会が終わり、イエスはペテロに舟を借りたお礼を言ったでしょう。
 対するペテロは、夜通し働いたのに魚が全くとれないので、ため息でもついたのだろうか。
 イエスはペテロに 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」 と言われました。
 “この時”のペテロの心を常識的に推察するなら、二つの点で無理な注文だと思う可能性があったのです。
 第一にペテロは一生懸命やって、疲れているのです。
 空腹でエネルギーが全く残っていなかったのであります。
 第2に目の前のイエスは漁師ではなく素人です。
 「プロに向かって、専門家に向かって指示するこの人は何者ですか。」 という思いです。
 その様な事は自分がやってきた、それは自分が一番よく知っていると感じるでしょう。
 「網を下ろせ」 と言われて 「No,」 と答えても良かったのです。
 しかし、“その時”のペテロは違っていました。
 「お言葉どおり網を下ろしてみましょう。」 これが今日の結論です。
 神の恵みの世界に入っていく秘訣がここにあります。
 
 4)恵みの世界
 自分がやった事の結果しか受け止めることが出来ない世界は、恵みの世界とは言いません。
 時には自分が一生懸命やった事でさえも、正当な結果(成果)が出ない場合が多いのです。
 でも皆さん、5節のみ言葉に対して、6節 「そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。」 のです。
 神は、そんな自分であるにもかかわらず、どんどん恵みを注いでくださるのです。
 自分が自分がという自分中心の生き方ではなく、神の言葉に耳を傾け、それに従う生活であり続ける時に、広がっていく世界です。
 自分では逆立ちしても出来なかった事が、神のみ言葉に従った時に、鮮やかに実現して助けられるのです。
 
 5)自分の姿と神の憐み
 そうしてペテロは、8節 「私は、罪深い人間です。」 と言ってひれ伏しました。
 イエスと出合った事により、本当の自分の姿(こころ)が見え、分かったからであります。
 自分の力や才能で生きているように見えても、神の前に立って自分を見つめた時に、何の価値もない自分なのに、神によって生かされている事が、はっきりと分かるのであります。
 ペテロ自身、何の資格もない、只々神の恵みと憐みにより、イエス・キリストの十字架によって罪赦され、溢れるばかりの恵みにあずかる事ができ、 「恵みの世界」 に入れて頂けたのであります。
 
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