小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/08/17 7:47:57|先週の礼拝から
愛の選びと任命
芳賀 功師のお話から

1)直前のあかし
只今の、ジェシー兄のあかし、ありがとうございます。
彼はお父さんの足跡を継いで、将来宣教師になりたいという事でございます。
これは今日の 「選びと任命」 のタイトルにふさわしい“あかし”ではないでしょうか。

2)選びと任命
16節 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。」
この所は、各個人の使命を明確に支えてくださる言葉です。
クリスチャンの使命は、神から与えられた能力をフルに使って、神の栄光を現わすという事です。
自分の利益や有名になるという事ではなく、神から与えられた個性や経験や知識を最大限に生かし、神の御栄のために生きるという事です。

私は自分の人生を振り返った時に、私が献身 (神学校に入学する事を決心) した時の事を思い出します。
仕事に失敗し、巨大な不良債権という重荷を負わされ、行き詰まっていた時、あるクリスチャンによって債権から解放されたのです。
その時与えられたみ言葉、Tコリント6章20節 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」 が「あゝ、私は神から選ばれ任命されるのだ」という事を信じさせ、私を伝道者の道へ進ませたのであります。

3)あなたを
それは私がセールスマン時代に 「あなたから買いましょう。この商談はあなたと契約いたしましょう。」 と言われた時と似ていました。
数あるセールスマンの中から、私のような者を選んで、あなたから買いますとご指名された瞬間です。
セールスマン冥利に尽きますし、一番嬉しい時です。

主は、こんなつたなく、いさおしもなく、弱くされた者を選んで、愛して下さるのです。何と感謝な事でしょう(Tコリ1章26節)。

4) 実が残るため
イエス様は、私たち一人ひとりに、尊い使命を与えて下さいます。
「それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るため」 と言っておられます。
その実が残るためなのです。

神が期待している人生の実とは、何でしょうか。
聖書は第一に 「悔改めの実を結びなさい」 (マタイ3章8節)と言っています。
それは、建前という口先だけの、偽りの生き方ではないのです。
自己中心の殻を打ち破り、偽善の鎧と兜を脱ぎ捨てて、悔いて砕けた魂の焦点を、十字架の愛に合わせ続けるのです。
その事によって実はなるのです。
幹であるイエスを離れては、実はならないからです。
第二は聖霊の実であります。
ガラテヤ5章22節を見てください。
愛、喜び、平安、寛容、親切・・・・、こんな実がたわわに実るなら素晴らしい人生となって、神と人とに喜ばれます。
この喜びが神からの愛なのです(17節)。

5)尊いひとり
選びの神は私たちを無条件で愛し、我ままから救い、尊い使命を与えて下さるというのです。
それは一人ひとりを、神の作品として、しかも違った個々の持ち味のある作品としてお造りになり、ある人は手、ある人は足のようですが、傑作として、お造りになったのです。
夫々が大切で、なくてはならない者であり、その存在自体が貴重なるものなのであります。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」イザヤ43章4節
 
中心テキスト ヨハネ15章16〜17節







2009/08/10 8:26:03|先週の礼拝から
不思議な文字
芳賀 功師のお話から

1)不思議な言葉
先程、スパードル夫人のあかしの中で 「私は日本宣教に関してサタンに立ち向かい恐れない。」 という言葉を伺いながら、宣教師に対して御霊の不思議な力を感じた次第であります。
同様に聖書はいたるところに不思議な文字(ことば)がたくさんあります。
マタイ24章 「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。」 、ローマ15章 「キリストは、ことばと行ないにより、また、しるしと不思議をなす力により、さらにまた、御霊の力によって、それを成し遂げてくださいました。」 、そして、今日のメッセージに取り上げます文字は、聖書の中でも代表的な不思議なもので 『メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン。』 という文字です。

2)今日の要点
今日は、5章1節のベルシャツァル王(ネブカデネザル王の孫)の悪政に対する裁きという事だけでなく、神はいつもあわれんでくださり、悔いて砕けた魂に、赦しと愛と恵みを与えるのだという事を、お伝えしたいのです。
聖書は夢を与え、希望を与えてくれる謎のような神の言葉ですが、自分のように駄目になってしまった人間を立ち直させて下さるからです。

3)歴史的大事件
さて、5章1節から始まる物語は、およそ紀元前600年頃の出来事で、世に言うバビロン捕囚の最中に起った大事件です。
権力と栄華を極めたバビロン王国が滅亡するクライマックスの場面が、ダニエル5章であります。

ベルシャツァル王が、千人の貴人(大臣)を宮殿に集めて、大宴会を催していた時の事です。
酔いが回って調子に乗った王は、エルサレムから奪ってきた金や銀の器で飲み交わし始めたのです。
すると突然、5節、人間の手の指が燭台の向こう側 (即ち最も明るい壁面) に現れ、宮殿の塗り壁に不思議な文字を書いたのです。バビロンの知者達は、誰も読めず、意味を解く事も出来なかったのですが、ダニエルだけが解き明かしたのです。
「メネ、メネ」 とは、神が王の治世を数え、それを終わらせられたという事で、王の人生のカレンダーが数え終わった事を示すのです。
そしてあなたが犯した全ての罪を神は覚えておられますよという事も含みます。
「ケテル」 とは王に対しる裁きが量られ、目方の足りない事が分かったという事です。
実際、王は神をも恐れず、み言葉に聞かず、やりたい放題、という状態でした。
富も権力もあり、社会的には多くの貢献もできたはずです。
ダニエル達から真実の神について学ぼうとせず、聞きもしなかったのです。
28節 「ウ、パルシン」 とは大国バビロンが、二つの国に引き裂かれ滅亡するという意味でした(メディヤとペルシャに分かれた)。
ベルシャツァル王は、その夜殺され、バビロンは、この不思議な文字の通りに、ダニエルが解いた通りに滅亡したのです。

しかし、最初に申し上げたように、主も悪を行なったからといって裁くという事よりも、ダニエルの忠告を受け入れ、悔いて砕けた魂になる者を、神は常に憐れんで下さり、愛による赦しと恵みで迎えて下さる神であります。
(ダニエル2章、3章、4章には、ネブカデネザル王に対して、夢で指導された神の恵みが書かれてあります。参考にして下さい。)

4)イエスの心
新約の私たちは、どうだろう。
ヨハネ8章5節で、イエスは、罪を犯した姦淫の女を石で打てと騒ぎ立てたかった権力者に対して、地面に何かを書いていたという不思議な文字があるのみで、私たちにはその心を知りえません。
しかし、これは聖書を説く教師によると、赦しと恵みであると断言しているのです。
そうして、ヨハネ8章11節 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」 と言われました。

5)私たちも
私たちも自分を顧みて、罪を悔いキリスト・イエスの十字架による赦しを信じる生活をしなければなりません。
ダニエル5章1〜24節







2009/08/03 7:38:11|先週の礼拝から
さあ、種を蒔こう
藤田光一師のお話から

1)宣教記念の年
皆さんとお会いするのは一年ぶりで、故郷に帰って来たような思いです。
今年はプロテスタント宣教150周年の記念すべき年で、多くの先輩先生方が蒔かれた種によって、現在の私たちの教会が存在しているのだという思いで感謝をしています。

2)詩篇126篇の解放
そこで、今朝は詩篇126篇を通して、蒔かれた種を受け継ぎ、もっと豊かにしていくことが出来ないものか、皆さんと共に考えてみたいのです。

私は詩篇126篇が大好きです。
前半は捕らわれていた人(バビロンの捕囚)の解放という過去の恵みと喜びを歌い、後半は今も捕らわれている同胞の解放を、主に願う祈りと共に、それが実現するので、働きに参加する人の喜びが、約束されているのです。

しかし、 「泣きながら出て行く者」 と歌われていますから、この人は現状を心から嘆いている者です。
重い 「種入れ」 をかかえながら出かけ、 「種を蒔く」 という労働が要求されますが、その人は、 「喜び叫びながら帰る」 のです。
だから、喜びの歌というよりも困難の中を通っている人々の歌であると受け止められています。
涙の中に置かれて苦闘しながら、懸命に生きている人々、即ち巡礼者の歌として歌われていたものだったのです。

3)解放を回顧
私はこの所から、神の恵みを豊かに受け取らせて頂けると思います。
それには、 「数えてみよ、主の恵み」 と賛美にもありますが、いつも、過去に経験した神の恵みを思い喜んでいるうという事が大切です。

私たちは、 「罪の奴隷」 として鎖につながれ、生きる意味を見出せない日々を送っていた者でした。
しかし、イエスが十字架にかかって死んで下さった事により、罪から解放されて、義の奴隷となったのです。
それはまるで、昔イスラエルの人々がバビロンの捕囚から解放されて、喜んで出てきたあの有様と同じではないかと聖書は言うのです。

私たちにとってイエスというお方は、罪からの解放を与えて下さった方なのです。
神の国には入れないと思われていた遊女や取税人たちが、神の民はあなた達なのだと言われたのです。

4)宣教の種蒔き
私は今、教会の牧会という立場から離れて、委ねられた使命(ブライダルの働き)を通して宣教の種蒔きをしています。
今迄、多くの人々に、話しかけ、メッセージやカウンセリングを通して福音を語らせていただき、種を蒔いています。
そして、いつの日にか芽が出て、葉が延びて、実をみのらせていただきたいのです。

この栃木いこいの泉チャペルに一歩でも足を踏み入れた人が救われるように祈っています。
どうぞ希望を持って種を蒔き続けましょう。
「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。」 (伝道者の書11) 詩篇126篇







2009/07/29 9:04:05|先週の礼拝から
イエス様の行動と冷静さ
 芳賀 功師のお話から

1)裏話
今朝は、寺門先生が、お話をされる予定でしたが、先生の体調があまり良くありませんので、急遽、私に引き継がれました。
安心しておりましたのに、再臨でも来たかのように焦りました。
話すべき御言葉がわかりません。
神様の方もそんな急に言われても無理だよとの事(ジョーク)でした。
そこで寂しいところでところに行って祈って待つように言われまして、ようやくルカ4章42節が示されました。

2)人生の模範
イエス様は 「わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」 (ヨハネ13章15節)と言われています。
私の真似をするようにとの事です。
ドイツのカトリック司祭トマス・アケンピスという神学者は、その著書 「キリストに習いて」 の中で、 「ルカ伝に著されたイエスの人生をそのまま模範にして、キリストと歩む人生が幸福な人生だ」 と結論付けています。
イエス様は42節を通して、寂しいところに行くようにと模範を示していたという意味合いもあるのです。(Tペテロ2章21節等も参照)

3)基本をまねる
注目して欲しい事は、42節 「朝になって、イエスは寂しい所に出て行かれた」 で、私が今朝の一番言いたいところであり模範とするところです。

朝日新聞の記事 「人生を変えることば」 の中に 「学ぶとはまねる事である」 と書かれてありました。

冷静な祈りに支えられた行動(アクション)(44節)が、イエス様の人生です。
この基本的な事を、私たちも真似るのであります。

4)革命?
我が家に富子さんが嫁いで来られて以来、生活の革命が起きました。
行動の前には必ず祈りがあり、あらゆる行動の前に静の部分があるのです。
私たちの生活で祈らずに行動した時には、ろくな事はありません。
早朝祈り会をせずに出かけた時などは、何故か気分が乗らないのです。
以前の私は先ず行動でしたから、 「押えて」 とよく言われましたが、押えるのではなく冷静に祈ってからという意味なのであります。
5分でも10分でも良い、先ず祈ってから一日を始めて頂きたいのです。
それが一日の生活を整える事です。

5)イエスの生活
ルカによる福音書を調べてください。イエスの働きは、めまぐるしく激しくても、5章16節 「よく荒野に退いて祈っておられた」 、 6章12節 「祈るために山に行き、神に祈りながら夜を明かされた」 、 9章18節 「イエスがひとりで祈っておられた」 、 9章28節 「祈るために、山に登られた」 、 11章1節 「イエスはある所で祈っておられた」 など、いつも祈り(静)と行動の二面から成り立っていたのです。

6)信仰の岩
祈りは呼吸です。
吸うとは神の声を聞くことです。
神の声を聞くとは、個人的に自分を神に明け渡す静かな時(デボーション)であり、究極的には礼拝の時であると、私は信じています。
ここで一人ひとりが考えなければならない事は、イエスの模範からこれらの事を学んで(まねて)いるかという事であり、ここで立ち止まって、一呼吸置いて、静かな時間を確保していかなければ、信仰生活はうまく回転していかないという事です。
どこかで間違って結果的に敗北を経験するのです。

イエスもあの全人類の救いの十字架にかかる前に、有名なゲッセマネの祈り(22章)がありました。
これは静と行動というイエスの典型的模範です。
人類史上最大の 「執成しの祈り (神との仲直りの仲介)」です。
これこそ十分に祈って行動した事であり、父なる神の御旨と御心に一致した行動でしょう。

ルカ4章42〜44節







2009/07/29 8:31:22|先週の礼拝から
守って下さる神
久保昌子先生のお話から

こちらの御教会での御用は、三度目でございます。
再会出来ました事を嬉しく思っております。

1)周囲の山
詩篇の多くは、神なくしては生きていけなかった人たちの心の叫びと祈りが歌われていますが、121篇は 「私は山に向かって目を上げる」 と祈りの準備の如く歌い始めます。
この言葉でどれだけ多くの人が慰められ、励まされ、信仰者の共感を呼んでいるでしょう。
今も、私たちの心に脈々と響いてきています。

2)構造と背景
121篇の1〜2節は「助けの源泉」で、3〜8節は 「助けの忠実さ」 が歌われています。
そして、全体のキーワードは「守り」で、6回出てきます。
そして 「都上りの歌」 という補足が付けられていますから、毎年の祭りに、あらゆる地方から都(エルサレム)まで旅する時に用いられた歌と理解出来ます。
その道中に困難と危険があった様です。
山や谷の険しさと、野獣や強盗の危険に遭遇する旅です。
疲労、暑さ、渇き、怪我などの時に励まされ、危険から守られる事を願ったのでしょうか。

3)人生のドライバー
だいぶ前に、私が路傍でトラクトを配布していたら 「俺の人生変えてくれるのか。俺を本当に変えてくれるのか。何か対策はあるのか。」 と言われる方がいました。
カインの末裔(まつえい・子孫)なる私たち人間は、怒り、妬み、敵意、憎しみ等に左右され易いですから、エスカレートすると殺人にまで暴走します。
ハンドルを欠陥ドライバーが握るから、必然的にトラブルを起します。

4)助けの源泉
現代は、日々のニュースから、助けてくれと叫ぶ声が響いてくる時代です。
本当にどこに助けを見出したらよいのでしょうか。
本当の助け・源泉は、山を越えてくる援軍やエルサレムの神殿ではない。
難行、苦行、鍛錬、悟りを得ることでもない。
 「天地を造られた主から来る」 と詩篇の作者は歌うのです。
日本では「八百万の神」と言われて、あらゆる物を神としています。
だから太い木、大きな岩、高い山、大きな川、太陽も含めて超自然的なものを見ると、神々として崇めてしまうのです。
このような物に、一生を託せるでしょうか。真の助け(よりどころ)は、天地を創造された神から、恵みとして与えられると歌っているのです。

5)助けの忠実さ
 「あなたを守る方は」 険しい山や谷を歩く時「あなたの足をよろけさせず」、直射日光の暑さや喉の渇きに合う時でも、うとうと 「まどろむこと」 や 「眠ることもない」 忠実なお方ですと続きます。
私を信頼するあなたが都へ向かう時も、郷里へ帰る時も、次の年も、私が起きていてあげようと囁いて下さっている様です。
その助けは素晴らしく、その十分さが歌われている。

6)現在も
今の私たちには、神が(主が)守って下さる根拠となる確かな事実があります。
十字架に現わされた神の愛です。
キリスト・イエスの十字架を自分の罪のためであると告白し、悔改める者は、その尊いイエス様の血によってその体質が変えられ、イエス様に従う事が出来る者にされます。
「神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。」(ピリピ2章)
どんな時にも私たちに目を留め、守りの御手を延ばしていて下さる主イエスが見えてきます。
主を信頼し続けましょう。

詩篇121篇1~8節