小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/07/13 11:17:25|先週の礼拝から
共に道を歩く神
芳賀 功 師 のお話から

1)テーマの中心 
今日の中心テーマはルカ24章15節 「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」 です。

2)目はさえぎられて
「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」のです。
「それで、彼らが、 『いっしょにお泊まりください。・・・・・・』 と無理に願ったので、・・・・・・中にはいられ・・・・・・パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」とあります。
生来の感覚だけに頼って、自分の体調不良などに囚われたままなら、良い薬が開発されて服用した後も不安が残るなら、近づいて来られたイエス様に気付かず、孤独で、一人ぼっちでストレスが溜まります。

3)最近の韓国事情 
最近韓国でクリスチャン人口が低下したそうです。
韓国は学歴社会ですが、企業はクリスチャンを優先的に採用して来たために、偽クリスチャンが増え、未信者と信者の勤務態度が全く違わないので、信者の信用低下を招いているそうです。
つまり 「主と共に歩んでいる人」 は、勤務態度が違うはずではないかとおっしゃりたいのです。

4) 主と共に歩いた人
聖書の登場人物から、主(神)と共に歩いた代表的な方々を観たい。
4.1)エノク
先ず、創世記5章でエノクという人が紹介されています。
たった4節しかない紹介文ですが、旧約時代の偉人達が  「・・・・・・死んだ。」 と書かれているのに、エノクに対してだけ 「彼はいなくなった。」 と表現されており、神とともに歩んだ代表者として有名です。
4.2)ヨセフ
又、創世記30章から50章に至る範囲には、ヨセフの数奇な生涯が記録されております。
39章には 「主が・・・・・・ともにおられた」 と紹介され、40章 「解き明かすことは、神のなさること・・・・・」 と、41章では 「神がパロの繁栄を知らせてくださる・・・・」 という彼の信仰告白のとおりに、 「共におられた主が」 ヨセフに教え、することを成功させたので、彼は幸運な人となり、人に愛されました。
4.3)イエス
さて、人の子としてのイエス様はどうだろうか。
ヨハネ5章 「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なう・・・・」 と話されています。
また、その事を補うかのように 「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。」 等々、父なる神と子なるイエスとは全く一体となって歩まれたのです。
こうして、子は十字架にまで従われ、父なる神はイエスを死からよみがえらせて下さったのです。

5)主と共に歩く信仰者 
主と共に歩くという信仰者はどのような人だろうか。
先ず、神が生きて働いておられる事を信じる人でしょう。
ある時、不思議な事があったとして、その時に気付かなくても、「あの事、この事は神様の業だった」 と思える人でしょう。
そして、十字架の恵みはもとより、いろいろな恵みによって神の国と神の義を求めて生きる者へと変えられつつある人でしょう。
礼拝のひとときを含め、日常生活の中に神の御支配を求め、神の御支配を喜ぶ人でしょう。
Uコリント12章には 「私たちは同じ心で同じ歩調で歩いた」 という表現がありますが、自分の隣人を、神が愛される事を知って、人との正しい関係を保とうと努めるように変えられつつある人でしょう。
そしてこれらの事は、日々の礼拝と生活の過程で、内なるキリストとして一人ひとりに近づいてくださり、丁寧に諭して導いてくださる事柄だと思うのです。

6)願いと希望 
そのようにして 「あゝ、あの人は本当に神と共に歩いた人だったなぁ」 と言われて天に召されたく願う者です。
そういう訳で、パウロ先生の信仰を見習いたい。
ピリピ1章6節 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」
ルカ24章13〜32節







2009/07/06 20:45:08|先週の礼拝から
自分の十字架を負って
芳賀富子先生のお話から

今日はあかしを含めて、十字架と私について語らせていただきます。

1)十字のマーク
一般社会で、十字のマークは病院や工事現場等で見かけます。
また、ネックレスなどアクセサリーとして身に付けたりしますが、本当の意味は分からない方も多いのではないでしょうか。
その歴史的背景にはイエス・キリストの十字架による救いがあります。
それで、聖書は十字架をどのように語っているかという事と、私にとって十字架がどの様な意味があったのかを、お話したい。

2)聖書の十字架 
先ず、ガラテヤ3章に、 「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。」 と書いてあります。
これは申命記21章に 「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」 と啓示されているからで、十字架(即ち木)に架かけられた者は呪われた者であり、罪ある者が十字架に架けられたと言っています。
ローマ書3章には 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・・」 と言っています。
だから、人が罪から救われるために、Tペテロ2章に 「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。」 と書かれている通り、罪の無いイエス様が十字架にかかって、呪われた者となられて、私たちの罪を負われたのです。

3) 十字架と私 
そこで今日は三つの角度からお話します。
第一は仰ぎ見る十字架です。
第二はキリストと共につけられる十字架です。
三つ目はルカ9章23節 「日々自分の十字架を負う」 という三つです。
3.1)仰ぎ見る十字架
私は、小学三年生の時、友人の突然の死を通して、人間の死に初めて直面したのですが、その友人がどこに行ったのか、また生きるとは何かという疑問を持ったのです。
私は小さい頃から悪い事をすると神様が裁かれると教えられて信じ、地獄より天国に行きたいと思っていました。
私は15歳の時、バイブルキャンプで語られたイエスを信じて救われました。
その時の私の経験は、見上げる十字架でした。
民数記21章、イスラエルの民がエジプトを出て荒野を旅していた時、不信仰の罪を犯し、蛇にかまれて、多くの人が死にました。
しかし、青銅の蛇を見上げた者は、生きることが出来ました。
同じように私は、キリストの十字架を見上げて生きる希望が与えられたのです。
3.2)共につけられる十字架
しかし、学校を卒業し職場に就くと、信仰からも離れるようになりました。
そんな時、ある教会で 「きよめの恵み」 という言葉を初めて聞きました。そして、神様に従いたいという心と従いたくないという思いがある事に気付きました。
そこで教えられ事は、 「自分の人生というハンドルをイエスに任せて、あなたは助手席に座りなさい。
あなたの人生をイエスに任せなさい。
自己中心を十字架に付けることです。」
と導いてくださいました。
それがガラテヤ2章の言葉だったのです。
イエスの身代りの十字架によって、罪赦されて、神の子とされましたが、それまでの私の信仰は、イエスを片隅に追いやり、いつも自分が中心になっていました。
あの時以来、イエスに主導権を握っていただき、そして私の生涯をイエス様にお任せ致しました。
これが私のイエスと共に十字架につけられるという体験です。
3.3) 自分の十字架を負う
最後に自分の十字架を負うという事ですが、ルカ9章23節です。
ここに、二つの条件があります。
自分を捨てるという事と、日々自分の十字架を負うという事です。
それは自分の生涯をイエス様にささげる献身への道でした。
神様は私たちが負うべき最善の十字架を知っておられるという事です。
自分の十字架を負うという事は、自分が本当に生かされ、周囲の人も生きる道であるという事ではないでしょうか。                                ルカ9章23節







2009/06/30 16:30:10|先週の礼拝から
信仰の告白
芳賀 功 師のお話から

1)告白とは
今日のテーマは、クリスチャン生活の重要な信仰の告白という事です。
先ず、告白するとはどうする事でしょうか。
辞書によると 「自分の信仰を公けに表明する。また心の中に思っていた事や隠していた事を打ち明ける。」 という事だそうです。
そんなに難しい事ではないが、日本人には馴染みがうすい。
しかし自分の全人格的な事ですので、人前では多少照れがあるのかもしれません。
告白を身近な事で言えば、結婚の申し込みも告白であり、愛の告白とも言います。
「結婚してください。」 という意思表示、これも告白です。
告白は、簡潔で明瞭である事が望ましいですね。

2)信仰の告白
先週行われた洗礼式の中で、万起子姉の信仰告白がありました。
礼拝式の中で毎週唱和している使徒信条も、信仰の告白です。
教会には、こうした定型的な信仰告白以外に、個人ごとに異なる告白が二つあります。
第一の告白が悔改めです。
「ごめんなさい。」、 「・・・・私が悪いのです。」、 「私は間違っていました。」 という事ですが、牧師が何を言ったかではなく、聖霊の働きであり、信仰に伴う大きな変化です。
出来ない方も多くおられますが、なかなか出来ないのは、私を含めて信仰がないからです。
第二は、今日のテーマである信仰の告白です。
ルカ9章20節の 「神のキリストです。」 という言葉は、ペテロの信仰告白であり、簡単で分かりやすいのです。
しかし、これはペテロの告白ですから、皆さん独自で心からの告白をすれば良いのです。
何を根拠に告白するのかというと、私という人間を罪から救いに導いた信仰を告白するのです。

3)あなたにとってイエスは
だから、信仰の告白自体は、神に向かって告げるのであって、人に向かって言うのではありません。
そこで、このペテロの信仰告白を通して、その意味と自分だったらどのような信仰の告白をするのかを学びたいと思います。
ペテロの信仰も含めて、第一は自分の全存在をかけた告白であるという事です。
第二はルカ9章20節前半にあるように、他の誰か、周囲の人々、世間がそう言うからではなく 「あなたにとってイエスとはどういう人か」 という告白です。

4)私の信仰告白
そこで私自身の信仰告白です。
私は、定年後の楽しみが三つありました。
第一は趣味を生かした絵と旅行です。
次に、七人の孫の成長を楽しみながら共に過ごす事、そして大型客船に乗って世界一周旅行に行くのが夢でした。
しかし、2006年、教会開拓のビジョンが与えられ、その夢を全部棄て去りました。
わたしの前に万起子姉が現れたからです。
イエスは私に 「私の羊を牧しなさい」 (ヨハネ21章)と言われました。
それでヘブル11章24〜26節
「信仰によって、モーセは成人したとき、パロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。
彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。
彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです。」 を、自分のものとして神に告白するに至ったのです。

5)告白し続けよう
エジプトの宝に比べて、はるかに価値の大きな主の恵みと真実という富から目を離さないで、素晴らしい主イエスを告白し続けていこうではありませんか。
ルカ9章20節







2009/06/24 7:17:20|先週の礼拝から
罪の赦しを宣言するイエス
芳賀 功師のお話から

1)聖書の中心問題と日本人
今朝は、万起子さんの洗礼式を前にして、聖書の中心問題であり、ルカによる福音書でも重要な位置を占めている罪について、お話したいと思います。
残念なのですが、日本人は真面目な人が多く罪と聞くと初めから嫌なイメージを持ちます。
自分を真面目で、罪とは無関係だと思っていて、いざ不法行為が発覚すると、世間と人に迷惑をかけたという事で、自ら命を断つ。
日本人の罪意識はそんな程度で、神に対する罪の意識はない。
私もそうでした。
今でも罪の問題を取り上げるたび背筋がぞっとする。
エレミヤ17章に 「人の心は何よりも陰険で、それは直らない。」 と書いてある。

2)その性質を
その罪からどうしたら救われるのか、ルカ5章から学んでみよう。
このところは、中風の病人とその癒しを願う4人の人が登場したのに、イエスの言葉は、何故か罪の問題なのです。
23節では 「罪の赦し」 と 「起きて歩け」 とどちらがやさしいかという。
これは健康の問題と罪の問題では、どちらがより重要かという問いかけの言葉なのです。
病気や怪我は、手術や薬で何とか治るものが相当数ある。
ところが罪の性質は容易に消えるものではない。
例えば、ある人が殺人罪で逮捕され訴えられ、20年の懲役刑を受け、20年が経過しました。
刑期を終えて刑務所の門を出ました。
しかし、その人の罪は解決されたのでしょうか。
罪は無くなったのでしょうか。
刑期20年を終えたとしても、罪の解消や解決は、与えられておらず、殺人者というトラウマ(心の傷)はそのまま残り、裁判官が何と言おうが、この私の罪を赦せる絶対者ではないのです。
誰が赦せるのでしょうか。
私たちは、法律的にも道徳的にも宗教的にも、自らを罪人として認めざるを得ないというのが現実です。
問題はこの罪を誰が赦してくれるのかという事です。

3) 赦しを宣言する
イエスは、目の前の病気の人にとって、また人間にとって、最も大切な問題を取り上げたのです。
20節 「友よ。あなたの罪は赦されました。」 と宣言されたので、全くトンチンカンに感じる言葉でした。
突然、登場した人が求めていた病気の癒しよりも罪の赦しが重要であり、その重要な赦しを宣言されたからです。
更に、24節 「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに悟らせるために。」 と補足されて、 「あなたに命じる。起きなさい。・・・・・・」 と言われて中風の人を癒し、家に帰したのです。

4)宣言の背後に
更に 「あなたの罪は赦されました。」 という宣言の背後に、非常に重い事実が隠されているのです。
イエスは、言葉の上で人の罪を赦されたのではなく、やがてその罪のために十字架に架けられるという事実に基づいて、赦されたのであります。
わたしの罪はイエス・キリストを十字架に架けてしまうほどに、深刻なものなのです。
そして、罪が赦されるとは何かというと、やがて私が天国に住んで、永遠にそこで過ごすという素晴らしい祝福に満ちた約束があって、これらの全てが罪からの救いの結果であり、神の素晴らしい愛なのです。これが、きょう洗礼をお受けになる万起子さんに、手渡したいメッセージなのです。
                        ルカ5章20節







2009/06/17 14:49:34|先週の礼拝から
主をおそれる者
寺門松雄先生のお話から

1)人の一生
私は現在86歳です。
詩篇90扁によると人生は80歳までですが、既に過ぎている私です。
今でも天国に行った家内とコミュニケーションを取っていて 「父さん、あわててこちらに来ないようにね。」 と言われている。
家内は私の良き理解者である。
私は結核を患い、片側の肋骨8本を取り除いた片肺人生です。
結核患者は、不治の病だとされて、当時の一般社会に受け入れられませんでしたから、私は退院後自宅に戻れず、そのまま母親に連れられて教会に行ったのが信仰との出会いです。
もう一度生かして頂けるものならと思い、茨城県久慈川という所で洗礼を受けました。
そして茨城キリスト教大学に入り、献身致しました。
卒業後、静岡県大井川教会に任命されたのを初めとして、四つの教会を牧会し、40年の宣教活動ののち退任し、現在に至っています。

2)主を恐れる者
私は心に残ったみことばを短冊に書いて、机の脇に置いています。
それは私の言葉ではなく 「聖書のみことば」 ですから、機会ある毎に人に差し上げます。
恵まれて欲しいからです。
さて、今日は 「主を恐れる者」 と題しました。
箴言は一人の人が書いたのではありません。
また、箴言は戒めともいいます。
皆さんは旧約聖書の中でどこが一番心に留まりますか。
この箴言というところは、真面目な日本人や儒教を学んだ日本人にとって、一番肌に合い、なじみ易い箇所なのではないでしょうか。
1章で 「主を恐れることは知識の初めである。」 と諭し、 「愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。」 と警告しています。
多くの人は知識欲ばかり旺盛で、知恵と戒めをおろそかにしてしまいがちです。
いくら知識が多くても、それを生かし、知恵を働かせなかったら現実的ではないでしょう。

3)おそれ敬う
箴言だけでなく、聖書全巻のみことばは、神のことばです。
ですから主の前にへりくだって、キリスト教の真髄であり宝であるイエスのみ言葉を信じ、信頼して行きましょう。
「主を恐れる」 とは、怖がることではなく、造り主イエスを恐れ敬うという方が分かり易いようです。
一緒に福音を信じていましょう。
箴言1章7節