芳賀 功 師 のお話から
1)テーマの中心 今日の中心テーマはルカ24章15節 「イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。」 です。
2)目はさえぎられて 「しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」のです。 「それで、彼らが、 『いっしょにお泊まりください。・・・・・・』 と無理に願ったので、・・・・・・中にはいられ・・・・・・パンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」とあります。 生来の感覚だけに頼って、自分の体調不良などに囚われたままなら、良い薬が開発されて服用した後も不安が残るなら、近づいて来られたイエス様に気付かず、孤独で、一人ぼっちでストレスが溜まります。
3)最近の韓国事情 最近韓国でクリスチャン人口が低下したそうです。 韓国は学歴社会ですが、企業はクリスチャンを優先的に採用して来たために、偽クリスチャンが増え、未信者と信者の勤務態度が全く違わないので、信者の信用低下を招いているそうです。 つまり 「主と共に歩んでいる人」 は、勤務態度が違うはずではないかとおっしゃりたいのです。
4) 主と共に歩いた人 聖書の登場人物から、主(神)と共に歩いた代表的な方々を観たい。 4.1)エノク 先ず、創世記5章でエノクという人が紹介されています。 たった4節しかない紹介文ですが、旧約時代の偉人達が 「・・・・・・死んだ。」 と書かれているのに、エノクに対してだけ 「彼はいなくなった。」 と表現されており、神とともに歩んだ代表者として有名です。 4.2)ヨセフ 又、創世記30章から50章に至る範囲には、ヨセフの数奇な生涯が記録されております。 39章には 「主が・・・・・・ともにおられた」 と紹介され、40章 「解き明かすことは、神のなさること・・・・・」 と、41章では 「神がパロの繁栄を知らせてくださる・・・・」 という彼の信仰告白のとおりに、 「共におられた主が」 ヨセフに教え、することを成功させたので、彼は幸運な人となり、人に愛されました。 4.3)イエス さて、人の子としてのイエス様はどうだろうか。 ヨハネ5章 「子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。父がなさることは何でも、子も同様に行なう・・・・」 と話されています。 また、その事を補うかのように 「父が子を愛して、ご自分のなさることをみな、子にお示しになるからです。また、これよりもさらに大きなわざを子に示されます。」 等々、父なる神と子なるイエスとは全く一体となって歩まれたのです。 こうして、子は十字架にまで従われ、父なる神はイエスを死からよみがえらせて下さったのです。
5)主と共に歩く信仰者 主と共に歩くという信仰者はどのような人だろうか。 先ず、神が生きて働いておられる事を信じる人でしょう。 ある時、不思議な事があったとして、その時に気付かなくても、「あの事、この事は神様の業だった」 と思える人でしょう。 そして、十字架の恵みはもとより、いろいろな恵みによって神の国と神の義を求めて生きる者へと変えられつつある人でしょう。 礼拝のひとときを含め、日常生活の中に神の御支配を求め、神の御支配を喜ぶ人でしょう。 Uコリント12章には 「私たちは同じ心で同じ歩調で歩いた」 という表現がありますが、自分の隣人を、神が愛される事を知って、人との正しい関係を保とうと努めるように変えられつつある人でしょう。 そしてこれらの事は、日々の礼拝と生活の過程で、内なるキリストとして一人ひとりに近づいてくださり、丁寧に諭して導いてくださる事柄だと思うのです。
6)願いと希望 そのようにして 「あゝ、あの人は本当に神と共に歩いた人だったなぁ」 と言われて天に召されたく願う者です。 そういう訳で、パウロ先生の信仰を見習いたい。 ピリピ1章6節 「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」 ルカ24章13〜32節 |