小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/01/03 9:15:52|先週の礼拝から
すべてのことを最善に
芳賀富子師のお話から  主要テキスト:ローマ8章28〜34

この朝は今年最後の礼拝です。
ローマ8章28節、 「神がすべてのことを働かせて益としてくださる」 と言うメッセージに心を留めたいと思います。

T.神が益としてくださる
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益として・・・・」 とあります。
ですからすべての人に、どんな人にもという事ではないということです。
ヨハネ3章16節の 「神は、・・・・世を愛された。」 という世は、例外なくすべての人々です。
神に愛されていることがわかり、神のみ子が十字架で死んでくださったことにより罪の赦しを頂けることを信じる者に、神にすべてを委ねることができる人々に、神もまたすべての事を働かせて益としてくださるということなのです。

U.神が益としてくださる目的はなんでしょうか。
益となるようにとは、善となるようにとの意味でもあります。
クリスチャンにとって益とか善とはなんでしょうか。
ローマ8:29節 「神は・・・・御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定め・・・・」 とあるように、イエスに似たものとなるということです。
人間は神が創造され、必要なすべてが備えられたエデンの園で、神に背くという罪を犯してしまいました。
神のかたちに似せて創造された人間は、このときから神のかたちをゆがめて破壊したのです。
私たちは、このキリストによって新しい人に変えられ、神のかたちを回復されていくのです。(ガラテヤ4章19節、Uコリント3章18節、Tヨハネ3章2節)
クリスチャンのゴールは、キリストに似たものとなることです。
私たちは時代の嵐の中で、困難や試練に直面することを避けて通ることはできません。
私たちの過去も、現在も、将来も、すべて神はご存知です。
どのような状況にあっても、神に信頼し、任せていく者に、神もまたすべてを働かせて、私達を造り続け、整えてみ子に似せてくださるのです。

V.益としてくださる神と共に生きる幸い
(a) ローマ8章31節、神は私たちの味方であります。
かつては、神に背を向けていた者です。
神の側に立つものとされたということはなんと驚くべき恵みでしょうか。
(b) 32節、 「御子をさえ惜しまずに死に渡された・・・・」 のです。
最も愛する者をです。
私たちを救うために、御子を死に渡すという代価を払われたのです。
そして私たちのすべてを知っておられる神は、イエスのかたちが、私たちの内に外に(品性)かたち造られていくために、必要のすべてを備えて恵んでくださるのです。
(c) 33〜34節、キリストは、私たちのためにとりなしをされる。
様々な問題の中で、サタンも働いています。
私たちの信仰を萎えさせてしまうことが少なくありません。
ルカ22章32節、ペテロの失敗を見抜いておられた主は、彼の信仰がなくならないよう祈られたのです。
私たちの信仰のためにも祈ってくださいます。
(d) ローマ8章37節、 「・・・・圧倒的な勝利者となるのです。」 神の愛は私たちに勝利を与えてくださいます。
順調なときではなく、逆境のただ中での勝利です。
御子が勝利者だからです。

終わりに
人間的なことに思いや視点がいくとき、神のみこころを見失ってしまうことがあります。
現実にはマイナスに思えること、自分の立場が不利に見えたとしても、神がすべての事を働かせて益としてくださる、最善にしてくださる事を信じ、新しい年も主を信頼していきましょう。







2010/12/27 12:46:11|先週の礼拝から
まことの光
芳賀  功 師のお話から   主要テキスト:ヨハネ1章:9〜13節
クリスマスおめでとうございます。
いま、ゴスペル歌手、上原令子さんの証詞と賛美をお聞きしました。
戦争や紛争ありましても、こんな小さい教会でも、この日だけは、世界中でクリスマス礼拝が行なわれています。

T.光から離れている世の人
今日のみことばは、ヨハネ1章9節 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」 のに、11節 「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。」 とある。
暗い世相の中にあって神のひとり子を通して、いのちと、希望の光として、恵みとまことを与えて下さろうとしておられるのに、迎えようとせず、関心も持たなかったのです。

U.自分を見失って
キリスト教国のルーマニアから来た福音歌手の女性が、日本を見てびっくりしたそうです。
どの町へ行ってもギャンブルのパチンコ店、13年連続で年間3万人を越えた自殺者数、希望を失ってうつになる方が多く、歓楽街ではクリスマスケーキを食べて、ガールフレンドとラブホテル。
街では父親とすれ違ったままの子供たちがあふれている。
まことの光である救い主は、この日本のどこに行ったのでしょうか。
私の家内がクリスチャンでしたが、結婚当時の私もそれを否定し続け、夜の薄暗い歓楽街に出て酔いつぶれていた頃に、人類のための救い主であられるイエス・キリストが、家畜小屋で生まれたというクリスマスメッセージをぼんやり思い出していたのです。

V.迎えるこころ
そのイエスの誕生の次第は、ルカ2章6〜7節 「マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」
と記されている。

私の孫の一人が通う救世軍幼稚園においてクリスマス劇があり、拝観したときの記憶です。
マリヤとヨセフがベツレヘムに到着したとき、マリヤは月が満ちて陣痛が始まる。
出産が近い。
マリヤの手を引いて宿屋を訪ね歩く場面であります。
 「子供が生まれそうなのです。今晩だけでも泊めて下さい。」 「泊めるような部屋はありません。」 と何軒訪ねても、満員だとの一点張りです。
「場所がない。」 「部屋がない。」 「ほかに行ってくれ。」 の声。
部屋は真っ暗になり、灯りも消えて、とうとう馬小屋しかないという場面になります。
皆さん。救主イエスが人間の姿で生まれようとした時に、畳一枚のスペースもお貸しできないのです。
神は人を愛するあまり、神の栄光の座も、かんむりも、全てを捨てて、人となって生まれ、救いの道を開くために、十字架の上で死ぬために来て下さったにもかかわらず、ベツレヘムにはイエスを迎える人は一人もいなかったのです。

皇室関係者を迎える時の、戦前における日本人の意識は、ピカピカの馬車に乗せ、立派な洋服を着て迎え、整備し直した道路を通り、落ち着いていて明るい迎賓室へと案内するのでしょうか。
二千年前に、ひとり子の神が救い主として世に誕生した時には、ベツレヘムの山村の飼葉おけの中でした。
糞や尿の匂いが漂う小屋の片隅。
それは私自身の汚い心という思いでありましたが、イエスの誕生は、神の愛や喜びや平和を与えるための誕生だったのではないでしょうか。
12〜13節 「この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」

W.そして、今も・・・・
私たちの心のドアを叩き続けておられるイエスを、心に迎える余地はないのでしょうか。
このような心の冷たさは、神の光だけが追放できます。
神はまことの光です。
私たち人間はなんと光を避け、光を嫌い、神のまことの光から逃れようとしているというのでしょうか。
まことの光であるお方は、あなたと私の心の中から冷たさを追い出し、私たちをあたたかい光として下さるお方なのです。
ヨハネ1章12節 「しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」 のですから。







2010/12/21 16:33:58|先週の礼拝から
ことばは人となって
芳賀  功 師のお話から   主要テキスト:ヨハネ1章:14〜18節

T.ひとり子が来られた
今日のみことばは、ヨハネ1章14節が中心です。
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。
私たちはこの方の栄光を見た。
父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。」 
とあるように、神がひとり子なる人(人間)としてのイエス様をこの世に与えて下さいました。
これがクリスマスの事実であります。
教理的な用語では、受肉して人間と同じ姿をとられたことですが、理屈では説明できない聖霊による不思議な御業であります。

U.救い主が来られた
神様のご計画によって、ひとり子が誕生したのであります。
それは罪人である私たち人間を救うために十字架によって死ぬために来て下さったのです。
マタイ20章28節 「人の子が来たのが、・・・・多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

V.みことばが来られた
ヘブル1章2節 「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。・・・・」 とありますが、ヨハネが画期的な新しいこととして加えたのは 「ことば」 が人になったと言い換えた点です。
14節の 「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。・・・・」 と言うのです。
これはギリシャ語の 「スケノー」 という言葉で、心の中にみことばが天幕を張って宿ったということです。
そして終わりの時に、再び救い主が来られて神の栄光が私たちの間に宿るのを待ち望んでいるということです。
15節ではバプテスマのヨハネのことばを引用して 「・・・・叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである。』と私が言ったのは、この方のことです。」とヨハネは確信に満ちた証言をしました。
この方はみことばが受肉した方なのであります。

W.恵みとまことの実現
こうして、イエス・キリストという方に、恵みとまことが 「満ちておられた。」 とヨハネは主張したのです。
14節〜18節までの事は、旧約の、特にユダヤ教の律法に対して、イエスにこそ救いがあることを説明し賛美しているのです。
ですから、16〜17節では 「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」 とは、律法はモーセによって与えられ、新約の恵みとまことは、イエス・キリストによって実現したからです。
つまり、イエス様が現れるまでの時代は律法の時代でしたが、イエス様の誕生を通して、恵みとまこと、つまり十字架の愛と神の真実が実現したからです。

X.神を見る者
更に、18節前半に 「いまだかつて神を見た者はいない。」 とあります。
ところが、18節後半に 「父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」 とありますように、神を見る者がいるとすれば、 「父のふところにおられるひとり子の神」 こそ、目に見える生ける神の子なのです。
このイエスを信じた者は、イエスによって神を見る者とさせていただき、みことばなるイエスによって恵みとまことをいただくのです。

Y.最高の答え
私たちは、イエスが生まれていなかったら、今ここにはいません。
私たちは、イエスの無限の満ち満ちた恵みの上に、結び合わされているのです。
私たちは自分を見たとき、愚かで、知恵も浅く、力もない者です。
失敗や自分の汚い思い(罪)によって、本来の人間としての姿を失いかけているのです。
しかし、私たちがこの偉大なみことばであられるお方に連なっております時に、どんなに深い悩みと、大きな問題があったとしても、このイエスこそが、全ての解決の主であり、最高の答えなのではないでしょうか。







2010/12/12 21:47:14|先週の礼拝から
イエス・キリストの誕生
芳賀 富子 師のお話から   主要テキスト:マタイ1章:18〜25節

アドベントの第二週の礼拝です。マタイの福音書からイエス・キリストの誕生を学びましょう。

T.聖霊による誕生
マタイ1章18〜20節、イエスの母マリヤはヨセフの妻と決まっていましたが、一緒にならないうちに身重になったのです。
ヨセフはこのことを知り、彼女と離縁を決断しようとおもったのです。当時この事は姦淫の罪にあたるからです。
ところがみ使いが夢の中に現れ、マリヤの胎に宿っている者は聖霊によるのですと告げられました。
ルカ1章35&37節には、マリヤにみ使いが 「聖霊があなたに臨み・・・・生まれる者は・・・・神の子と呼ばれます・・・・神にとって不可能なことはひとつもありません。」 と告知しています。
不思議なことですが、イエス・キリストの誕生は私たちと同じような人間的な誕生ではなかったのです。
へブル4章15節、 「私たちの大祭司は・・・・罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みに会われたのです。」 ですからイエス・キリストは人性と神性の二つを兼ね備えた聖霊による誕生でありました。

U.救い主としての誕生
マタイ1章21節 「・・・・その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」 イエスという名は特別、使命を与えられた名前でした。
イエスこそ、罪から救ってくださる方です。
イエスの救いは罪からの救いです。
罪ある人と共に生活し、交わりそして彼らを救い助けられたのです。
マルコ2章17節、ルカ23章42節、イエスは神のひとり子であられたのに、罪人の世に誕生され、罪人と共に生活されました。
その人としての最後はのろわれた者がかけられる十字架刑に処せられたのです。
イエスが、十字架の上で処刑されたのは、私たちのためであり、人類の罪の赦しの救い主になられるために、ご自分から選ばれたのです。

V.預言の成就としての誕生
マタイの福音書は系図を重要視するユダヤ人を対象に記されたと言われます。
マタイは預言の成就としてくる方を、1節で 『ダビデの子孫』 と、21節では 『イエス』 と呼び、さらに23節で 『インマヌエル』と呼んでいます。
預言の成就によって、神のみ子イエス・キリスト、目に見えない神が歴史の中に、人間として誕生してくださったと言うことは、なんと驚くべきことでしょう。
しかしヨハネ1章11〜12節に見るように、イエス・キリストはその誕生から死に至るまで歓迎されなかったのです。
神のみ子であるイエスの誕生は貧しいものでした。
その生涯も苦難の歩みでありました。
けれども 「神と共にある方・神が共にある方」 であります。
ですから罪赦されて神の子とされた特権とは、主がそうであったように、神が私たちと共におられる 「インマヌエルの神」 の恵みにあずかることができることです。

終わりに
マタイ28章20節 「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 と約束されて、イエスは天に上げられていきました。
この約束は聖霊が与えられることをもって実現しました。 それはキリストを信じる者の心に住んでくださる神として、インマヌエルなる神として、イエスを与えていただくことができるという恵みです。
クリスマスとは、このイエスを私たちの心に、主としてお迎えすることであります。







2010/12/07 22:26:08|先週の礼拝から
人生の大転機
芳賀  功 師のお話から   主要テキスト:Tペテロ3章18〜19節、4章6節

T.記念日 
本日は、召天者記念礼拝です。
故、N・新吉さんが天に召されて一周年となりますが、あわせてN・H姉、H姉、N・T姉の記念会とさせていただきます。
人間には誕生日以外に何かしらの記念日というものがあります。
私の場合は7月24日で、生涯忘れられない日です。
それは今から21年前、死と向き合って、そこから死なずに済んだ日であります。
世間では、これを自殺未遂と言いますが、今わたしがここに立っているのもこの記念日のおかげです。
全てこの一日で起り、人生の大きな転機になりました。
さらに2010年3月2日の出来事も、わたしにとって転機となりました。
それがN・新吉さんが召された日であります。
愛する人や、親族など、親しい人の突然死に直面したら、衝撃を受けます。
それがN・新吉さんの死であり、彼の人生の転機になったのではないでしょうか。

U.一年前のこと 
彼との面会は、小山警察署の遺体安置所でした。
そこから教会に運んだのです。
そして、いくつかの障害を越え、教会で葬儀をして、教会の墓地に葬ったのであります。
N・新吉さんは、それまで教会には何の縁もない方でしたが、このような記念会を開いていただけたのは、神のあわれみであります。
何故なら、クリスチャンであるN兄にとって、新吉さんはかけがいのない弟だからです。

V.神によって生きるため
こうして、共に天の御国に行ってもらいたいという、切なる願いを持ち続けたN兄に与えられたのは、Tペテロ3章18節  「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」 同19節 「その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。・・・・・」  同 4章6節 「・・・・・というのは、死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、それはその人々が肉体においては人間としてさばきを受けるが、霊においては神によって生きるためでした。」 という聖書のことばでした。
“信仰をもたずに亡くなられた家族は、救われないでしょうか・・・・”というクリスチャンの問いかけに対し、ペテロを通して答えたみことばです。

W.イエス様の支配 
召された方への伝道は、もはや私たちにできません。
私たちは、罪のゆえに神から見捨てられたような者でしたが、神は、イエス・キリストが十字架において私たちの罪の身代わりとなられたことによって、救いに入れて下さいました。
N・新吉さんも人間の目から見れば、見捨てられたように思われ、また神様からも絶望的な状況に置かれたように、私には思われました。
しかしながら、イエス様の支配の及ばない所はないのです。
それは、私たちの希望であり、なぐさめです。