小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/02/08 10:34:51|先週の礼拝から
この方以外に救いはない
井川 克彦 師のお話から  主要テキスト:使徒4章12節

T.分かったこと
私は1982年1月1日に茨城県日本宣教会という教団に於いて結婚を前にしていた時に、小林亜星(作曲家)の長男(クリスチャン)の誘いで教会に行ったのが初めてでした。
説教者は本田弘慈先生でしたが、内容は良く分かりませんでした。
なぜかキリストが十字架にかかる場面が強く思い出されます。
みことばが一つひとつ語られて、最後に説教者が 「今日、イエス・キリストを信じて新しい歩みをしたい人は前に出てきてください。」 と言ったときに、 「あゝそれは自分の事である」 と分かりました。
そして前に出て行き悔い改めの祈りをして、イエスを受け入れ救われました。

U.過去の失敗があったから今の自分がある
私はそれまで多くの失敗や挫折を致しましたが、それらの事が次々に思い出されて、それらはみな神様がなされて主のわざなのであることを知らされ、新しく生れ変る自分を感じ取り、新しい歩みをしたいと思ってスタート致しました。
そして過去の挫折や失敗を肯定的に思えるようになって、それがあったから今の自分がある。
だから、イエス様に今とらえられて、今の自分があると思いました。
次の日に自分の人生がまったく変わっていたと感じる経験でした。

V.偶然ではない
本田弘慈先生がその時の様子を 「翌日、あなたの顔が別人のような顔で、教会に来るにふさわしくなく、怖い形相になっていた」 と言っていました。
それで自分は本当に救われて変わったんだと実感致しました。
そして、そこに共に居た小林亜星の息子や妻やその友人達が泣いていた。
一人の人(私)が救われたときにその背後に多くの人の祈りがあるんだと感じました。
その場に私が偶然出席していたというよりも、必ず誰かが祈っていてくれたということが分かるのです。
幸せをハッピーと言い、語源はハプニング、偶然の出来事と感じます。
しかし神の恵みは、思いがけず突然やってきたように感じることでも、偶然ではなく、背後の祈りと神のご計画とがあるのです。
自分に与えられた場所が、嫌なところであったとしても、そこが偶然のように見えても、神様の計画による祝福の場所であり、神の摂理なのです。
その出会いは偶然ではないのです。それはイエス様との出会いです。

W.人類救済の歴史
使徒4章12節 「この方以外には、だれによっても救いはありません。」 とありますが、私はこの時、確かに主の御名によってイエスを信じました。
さて、人はあらゆる偶像をもってそれに手を合わせ、これが私の神だ、私を救って下さいと言うが、聖書は“人の手によって造られたものの所には私はいない”(エレ51章17節、ハバ2章19節など)と言っています。
神はどういう方なのかを知らないと多くの失敗をします。
救いはこの方以外にないと歴史が証明しています。
歴史をヒストリーと言う。
つまり、ヒズ・ストーリー ← イエスの物語 = 人類救済の歴史なのです。
B・CとA・Dの区切りから、今年は主の年2011年と言います。

X.貧しい人も、障害者も、普通の人も
イエスの誕生は、飼葉おけの中で生まれ、最も身分の低い、しいたげられた人に光が当てられ、羊飼いたちが最初に拝みに来ました。
そして、最初に救われました。
それは、この世の汚い心の罪のために死んでよみがえるために生まれたという、救いの歴史であります。
その主の愛が、私たち自身の中に入ったときに、人は変えられるのです。
しかし、私のうちに自己中心があると、百%神に求めたり従うことは無理です。
神はそのような方を探しておられ、悔い改めに導き、救いたいと願っておられます。
ローマ8章28節では 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・・・」 と言っています。
私たちがどのような姿、形であっても、私には必ず神のご計画があるということです。
あの五体不満足なヘレンケラー(見えず、聞こえず、話せない)が、神の救いによって 「私を必要としている人がいる」 と知って、行動する愛の人に変えられました。
神のご計画はどんな人でも、目的を持って造られた存在なのです。
それによって多くの実を結ぶならば、神によろこばれることなのです。
だから人間にとってこの方の御名による以外に救いはないのです。







2011/02/01 15:29:51|先週の礼拝から
罪がもたらす結果
芳賀 功 師  主要テキスト:マタイ5章29〜30節

T.紹介
今日は札幌市にお住まいの笠巻さん(77歳)をお招き致しました。
彼は地元の実業高校(電気)を卒業と同時に北海道電力に入社され、昭和29年2月7日に鉄塔の碍子点検中に3300Vもの高電圧によって感電し、両腕を失われました。
2級障害者です。
彼のキリスト教との出会いと、入信の動機などを、伺っておりました内容にしたがってお話致します。

U.転機の始まり
彼は、当時、全国的な有名人であった賀川豊彦師のファンで、賀川先生に会いたい、話を聞いてみたいということだったそうです。
昭和26年高校在学中に、賀川豊彦先生講演会の集会案内を見て出席し、その集会後、市内の札幌北光教会に導かれ求道、自分の罪深さを知らされ受洗されました。
しかしその後も自分の罪の根は変わらず、職人肌の遊び人で、飲む、打つ、買うの性質は変わりませんでした。

V.経験1
ある時、聖書のみことばでマタイ5章28〜30節 「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです。もし、右の目が、あなたをつまずかせるなら、えぐり出して、捨ててしまいなさい。からだの一部を失っても、からだ全体ゲヘナに投げ込まれるよりは、よいからです。」 を示されました。
彼はこのみことばを読んだときに、罪のために肉体の一部を切ってしまうなんてとんでもないということでまったく意に介さず、馬鹿にして批判をしていたそうです。
こうして、依然として罪が彼をむしばみ、罪のもたらす誘惑に負けて、酒と遊郭におぼれていたのです。

W.経験2
一年ほど経ったある日、会社の工事点検部に配属になり、四人の作業員と共に率先して鉄塔に登ったのです。
電源は遮断してあると勘違いをするという不注意で感電。
両腕を失いました。
その時、鉄塔から8m下に落下されましたが、幸いその日は大雪で、その雪の上に落ちて命をとりとめたのです。
そしてマタイ5章30節 「もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい。」 を自分のみことばとして受け止め、右手首までありましたが、右肘の上部で切断することを受け入れました。
義手をつけるためでした。
こうしてみことばが現実となるとは思いませんでしたとにこやかに言われる。
彼にとって不思議な体験だったのです。

X.証人としての働き
彼の経験は、罪を犯す手を失い、神の尊い御名の片腕(義手)を得たのです。
そして彼は、1987年に日本国際ギデオン協会に入会し、聖書贈呈とともに、各方面に出かけて、主の証人として用いられているのです。
そしてヨハネ8章11節 「わたしもあなたを罪に定めない。・・・・今からは決して罪を犯してはなりません。」 との声を聞くとき、私の義手は神からの恵みであったと思わされるのです。
ヨハネ9章3節 「・・・・神のわざがこの人に現われるためです。」 主の道を歩む人生に、主が導かれたのです。

Y.罪がもたらすもの
罪は周囲の人を傷つけ、苦しめ、誰よりも神ご自身の心を悲しませます。
この手そのものが家庭や家族を苦しめます。
体の中に深く根を張った習慣を変えるというのはさらに難しいことで、それに生き方まで変えるということは骨身をけずるほどの痛みがともないます。
ダビデも目から罪が入り破滅をもたらしました。
そうした罪に立ち向かうためには、罪を十字架につけることです。
もしこの罪に陥った時には十字架を仰ぐ事ではないでしょうか。私たちも、ヨハネ8章11節 「わたしもあなたを罪に定めない。・・・・今からは決して罪を犯してはなりません。」 との、内側からの声をきいて罪を犯さない主の道を歩む人生を選択していただきたいと思います。







2011/01/24 8:37:54|先週の礼拝から
さらに大きなわざ
芳賀 功 師のお話から  主要テキスト:ヨハネ14章12〜13節

T.今日のみことば
今日のみことばは、ヨハネ14章12〜13節、 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。・・・・・」 です。
私たちが神に何かを求める時に、必ず 「主イエス・キリストの名前によって・・・・」 と言うのは何故か。
ヨハネ16章24節に 「わたしの名によって・・・・・求めなさい。」 とあるからであり、イエス・キリストが私たちに対する約束の救い主だからです。

U.祈りの心
どのような心をもって祈るべきなのでしょうか。
私は、以前、アルコール依存症でした。
お酒の誘惑にまけてばかりいたのです。
その頃の私は、上司のツケで飲んでいたので、私のために祈って下さいと言える資格はなく、最低の男です。
まとわり付く罪によって、ゴミ捨て場に捨てられるチリのような人間ですから、祈る資格さえない者です。
しかし、私のような者を御前に近づけようと十字架の贖いを完成してくださいました。
それはチリのような者であっても、十字架の贖いを自分のためとして受け止め、思い切ってイエスの御名を呼ぶ者に対して、さらに大きなわざを実現したい、 “そうしてあげたい” というのがイエスの御思いなのです。
だから祈る者も、十字架の贖いを感謝しつつ、神が望まれるような者になりたいと願い、神に喜ばれるような生き方を選び取ろうとすることです。
イエスの霊は、それを助け、願いが実現するまで護り続けて下さいます。
だからイエスの名によって祈るのです。
イエスの名前による祈りが自分の欲望とか、悪い習慣が見つからないようにとか、子が親の幸せを願わないような祈りは、意味のないことです。

V.大きなわざ
12節で 「わたしを信じる者は・・・・さらに大きなわざを行ないます。」 イエス様が行なわれた不思議なわざより、さらに大きなわざを行なうと言われました。
私はこの約束を信じました。
イエス様は水をぶどう酒に変え、死んだ人を生き返らせましたが、それよりもさらに大きなわざとは何でしょうか。
それを整理しておきたい。
第一は不平を言わないでキリストを愛するように人をも愛することができるようにかえられるという大きなわざです。
第二はみことばに従うことができるというわざです。
それは13節にもあるように、父なる神の栄光のために、イエスの名によって祈る人の祈りに、必ず答えてくださると信じているからです。
従ってキリストの名によって祈る事の重大さというものを感じるのです。
同時に、私たちが感じることと、イエスが言われる大きなわざとは全く違うのです。
私たち人間が驚くようなわざよりも、一人の魂が悔い改めて心から神を信じ御国に帰る者となることの方が、ルカ15章10節 「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」 とあるように、 「それよりもさらに大きなわざ」 とはこのことで、どんな奇跡よりも大きなわざなのです。

W.キリストにある永遠のいのち
イエス・キリストのいのちを与える御名はただ1つ、イエスの御名しかありません。
そのいのちとは私たちの主、イエス・キリストにある永遠のいのちです。
ヨハネ20章31節 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」







2011/01/17 14:44:13|先週の礼拝から
みことばを慕い求めて
芳賀富子師のお話から  主要テキスト:Tペテロ1章23節〜2章3節

Tペテロ1章23節に 「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から・・・・生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによる・・・・」 とあります。
新しく生まれた者として神のことばを慕い求めているでしょうか。

T.捨てること
慕い求めるためになすべきことは、先ず2章1節 “捨てる” ということです。
5つ記されてあります。
すべての悪意・すべてのごまかし・いろいろな偽善やねたみ・すべての悪口、みな内面の事です。
キリストの十字架の身代わりの死によって、罪は赦されました。しかし罪の性質が依然としてありますから、このような悪いものが内側から出て来るのです。
頑張って捨てることには限界があります。
キリストを信頼して、祈りつつ主を仰ぎ続けるとき、少しずつかもわかりませんが、捨てることができるように変えてくださるのです。

U.みことばを慕い求めるとは
2章2節 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。」 とある。
私たちにとってこのことは、聖書のことばを読むということです。
みことばに心を傾け、みことばが何を教えようとしているのかを、祈りながら読むときに、聖霊は理解できるよう助けてくださいます。
エレミヤという預言者は 「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。」(エレミヤ15章16節) と表現しています。
からだの健康管理には注意をはらったとしても、私たちの心の健康管理にどれだけ関心を向けているでしょうか。
私たちもエレミヤのように心の糧であるみことばを毎日食べましょう。

V.みことばを慕い求める目的
2章2節後半、 「それによって成長し、救いを得るためです。」 私たちの信仰が成長するということが目的です。
からだの成長は目に見えますが、信仰の成長となるとわかりにくいものです。
みことばという食べ物を好き嫌いしないで、心に受け入れていくときに、品性の実(ガラテヤ5章22〜23節)を結ばせてくださいます。
また様々な誘惑・罪からも、みことばによって勝つことができるのです。(詩篇119篇132節)
みことばを慕い求めることによって、神の喜ばれることを最優先にできる歩みに成長させて頂けるのです。

W.主がいつくしみ深い方であること
困難な時代のなかで、私たちを取り巻く社会に、世界に、何が起ころうとしているのかわかりません。
けれども確かなことは、2章3節、いつくしみ深い神がいつも共にあってくださることです。
このお方をさらに深く知り、豊かな交わりを深めることができるため、みことばに親しみ、みことばを日ごとの糧と致しましょう。







2011/01/10 22:13:07|先週の礼拝から
互いに愛しあいなさい
芳賀 功師のお話から  主要テキスト:ヨハネ13章34〜35節

T.あいさつ
新年明けましておめでとうございます。
2011年を迎え、私たちに与えられたみことばは、ヨハネ13章の 「・・・・新しい戒め」 です。
私たちの教会が開拓をスタートしようといていたとき、このみことばが示され、今も建て上げられつつあります。
いわば、栃木いこいの泉チャーチのベースです。
今朝はこのみことばを改めて味わってみましょう。

U.新しい戒め
イエスは最後の晩餐の席で、同34節、 「・・・・新しい戒めを与えましょう。・・・・互いに愛し合いなさい。」 と語られましたが、古い戒めでもあるのです。
それは、旧約聖書のレビ記19章18節 「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」 また、申命記6章5節 「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」 とある。
しかし私たちは愛する者でありたいと思っても自分の力ではどうしても愛せない、愛することなんか出来ないという現実があるのです。
それは愛された事がないといっても過言ではないからです。
イエスは、この古い戒めに対して、十字架による死という贖いの業と、復活という希望をお見せになり、“信じる者たち”というグループ、新しく生まれる者たちに対して、新しい戒めといわれたのです。

V.新しい戒めの本質
イエス様はこれから十字架に向かおうとしておられるのに、その時の弟子たちの心の中は、誰が一番偉いかと議論していましたから、ねたみや野心がうごめいていたでしょうか。
その時イエスは十字架上で死ぬことにより、神の救いを計画通り完成させようとされていたのです。
その十字架から新しい愛の道への出発をと願っておられるのです。
これがイエス・キリストによって新しく生まれる者に対して、ご自身の愛を思い起こさせながら、互いに愛し合うことができるようにという神の思いでしょう。
更に、よみがえられたのち、宣教を通して人々を愛するようにということも、弟子たちに求めています。
このイエスの言われる愛とはどのようなものでしょうか。
第一はユダヤ人の間だけの愛ではなく、神を信じる者か信じない者か、神を愛する者か愛さない者か等にかかわらず、全ての人を愛せよという戒めです。
第二は、Tヨハネ3章16節 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。」 とありますように、与え尽くす愛、苦難を耐える愛、犠牲の愛なのです。

W.新しい愛の道への出発
第三は人を愛する力を与えられる戒めです。
私たちは自分に反対する人や嫌う人を愛することはできませんが、イエスの十字架の死、復活、天に上げられ、 「聖霊が・・・・臨まれるとき、・・・・力を受けます。」 という約束をしてくださいました。
ですから誰であっても、神から離れていることを悔いてキリストにつながるとき、新しい愛の力が注がれていくのです。
愛の書と言われいるTヨハネ4章7節では 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」 と諭して下さいます。
神によって生れた人間は、どんな事があっても、たとえ裏切られたとしても、苦しい目にあっても、愛さずはいられないのです。
同11節 「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」
Tコリント13章3〜4節 「また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」