井川 克彦 師のお話から 主要テキスト:使徒4章12節
T.分かったこと 私は1982年1月1日に茨城県日本宣教会という教団に於いて結婚を前にしていた時に、小林亜星(作曲家)の長男(クリスチャン)の誘いで教会に行ったのが初めてでした。 説教者は本田弘慈先生でしたが、内容は良く分かりませんでした。 なぜかキリストが十字架にかかる場面が強く思い出されます。 みことばが一つひとつ語られて、最後に説教者が 「今日、イエス・キリストを信じて新しい歩みをしたい人は前に出てきてください。」 と言ったときに、 「あゝそれは自分の事である」 と分かりました。 そして前に出て行き悔い改めの祈りをして、イエスを受け入れ救われました。
U.過去の失敗があったから今の自分がある 私はそれまで多くの失敗や挫折を致しましたが、それらの事が次々に思い出されて、それらはみな神様がなされて主のわざなのであることを知らされ、新しく生れ変る自分を感じ取り、新しい歩みをしたいと思ってスタート致しました。 そして過去の挫折や失敗を肯定的に思えるようになって、それがあったから今の自分がある。 だから、イエス様に今とらえられて、今の自分があると思いました。 次の日に自分の人生がまったく変わっていたと感じる経験でした。
V.偶然ではない 本田弘慈先生がその時の様子を 「翌日、あなたの顔が別人のような顔で、教会に来るにふさわしくなく、怖い形相になっていた」 と言っていました。 それで自分は本当に救われて変わったんだと実感致しました。 そして、そこに共に居た小林亜星の息子や妻やその友人達が泣いていた。 一人の人(私)が救われたときにその背後に多くの人の祈りがあるんだと感じました。 その場に私が偶然出席していたというよりも、必ず誰かが祈っていてくれたということが分かるのです。 幸せをハッピーと言い、語源はハプニング、偶然の出来事と感じます。 しかし神の恵みは、思いがけず突然やってきたように感じることでも、偶然ではなく、背後の祈りと神のご計画とがあるのです。 自分に与えられた場所が、嫌なところであったとしても、そこが偶然のように見えても、神様の計画による祝福の場所であり、神の摂理なのです。 その出会いは偶然ではないのです。それはイエス様との出会いです。
W.人類救済の歴史 使徒4章12節 「この方以外には、だれによっても救いはありません。」 とありますが、私はこの時、確かに主の御名によってイエスを信じました。 さて、人はあらゆる偶像をもってそれに手を合わせ、これが私の神だ、私を救って下さいと言うが、聖書は“人の手によって造られたものの所には私はいない”(エレ51章17節、ハバ2章19節など)と言っています。 神はどういう方なのかを知らないと多くの失敗をします。 救いはこの方以外にないと歴史が証明しています。 歴史をヒストリーと言う。 つまり、ヒズ・ストーリー ← イエスの物語 = 人類救済の歴史なのです。 B・CとA・Dの区切りから、今年は主の年2011年と言います。
X.貧しい人も、障害者も、普通の人も イエスの誕生は、飼葉おけの中で生まれ、最も身分の低い、しいたげられた人に光が当てられ、羊飼いたちが最初に拝みに来ました。 そして、最初に救われました。 それは、この世の汚い心の罪のために死んでよみがえるために生まれたという、救いの歴史であります。 その主の愛が、私たち自身の中に入ったときに、人は変えられるのです。 しかし、私のうちに自己中心があると、百%神に求めたり従うことは無理です。 神はそのような方を探しておられ、悔い改めに導き、救いたいと願っておられます。 ローマ8章28節では 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる・・・・」 と言っています。 私たちがどのような姿、形であっても、私には必ず神のご計画があるということです。 あの五体不満足なヘレンケラー(見えず、聞こえず、話せない)が、神の救いによって 「私を必要としている人がいる」 と知って、行動する愛の人に変えられました。 神のご計画はどんな人でも、目的を持って造られた存在なのです。 それによって多くの実を結ぶならば、神によろこばれることなのです。 だから人間にとってこの方の御名による以外に救いはないのです。
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