芳賀富子師のお話から 主要テキスト:ルカの福音書8章11〜15節 ルカ8章には種まきのたとえが記されています。 イエスは自然の中で、人々の目線に立って日常的な出来事を通して真理を語られました。
T.種は神のことば 種は目に見えるところでは、取るに足りないように思われます。 ところが種のいのちが芽を出し育っていくと、枝を伸ばし葉が茂り、実をみのらせるのです。 マタイ13章32節には、種の中で最も小さなからし種について記されています。 蒔かれると、種には生命の力、発育する力と結実する力があることがわかります。 ルカ8章11節、神のことばという種にも、いのちと力があり、良い地に蒔かれると必ず実を結ぶのです。
U.種が蒔かれた地 ルカ8章5〜8節、蒔かれた種が4種類の地に落ちています。 当時のやり方は、種は人の手によって蒔き散らされるか、穴のあいた種の袋をロバに背負わせ、袋が空になるまで畠の中を歩き回らせるという蒔き方だったのです。 ですから種が悪かったのでも、農夫に手落ちがあったのでもありませんでした。 問題は種が落ちた土地にありました。
たとえと、その説き明かしをみましょう。 @5節、12節、“道端に落ちた種” 種は人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。 これはみことばを受け入れない心のことです。 偏見とか頑なさ、さまざまな理由で心を閉ざして、みことばを跳ね除けてしまう心です。 そこでサタンが来て、蒔かれた 「みことばを持ち去ってしまうのです。」 A6節、13節、“岩の上に落ちた種” 土が薄い地です。 芽を出して生えても水分がないので枯れました。 みことばを聞いた時には、喜んで受け入れます。 ところが日が昇ると(試練や困難などに遭うと)、 「根がないので」 枯れてしまうのです。 感情的で衝動的な心といえましょう。 B7節、14節、“いばらの中に落ちた種” 種は芽生え、育ちますが、同じ地にあったいばらが種の成長を塞いでしまいました。 いばらとは 「世の心づかいや、富や、快楽」 のことです。 このいばらは、みことばの成長を塞ぎ、神よりも他のものに熱中させるので、実が熟するまでにならないのです。 C8節、15節、“良い地に落ちた種” 「生え出て、百倍の実を結んだ」 良い地は、みことばを受け入れる人です。 実を結ばせるため、不必要な雑草や石ころやいばらを取り除き、よく耕された、砕かれた心のことです。 みことばを受け入れ、守り、よく耐えて、手放さないことが実を結ぶ鍵です。
V.聞く力 マルコ4章33節に 「彼らの聞く力に応じて、みことばを話された」 とある。 道端、岩の上,いばらの中に落ちた種はみことばを聞いたのですが、実を結ぶことができませんでした。 現代は人が“聞く力”を失いつつあるからではないでしょうか。 @聞き分ける力を失っていないでしょうか。 神の声と自分の声、神の声とサタンの声、神の声と世の声の区別はどうでしょうか。 ヨハネ10章3節、 「羊はその声を聞き分けます」、 神の声を聞き続けましょう。 A神の恵みに慣れて、みことばにたいするマンネリが生ずると新鮮な思いで聞く意欲を失うのです。 教えられようとする謙遜さを失うのです。 注意力を失うのです。 ルカ8章8節 「聞く耳のある者は聞きなさい」 と主は叫ばれました。 “聞こうとする耳”があるとき聞く力は与えられます。
終わりに みことばに聞くために、一日の初めに祈ることと、みことばを握って備えること。 事あるごとに神の声を聞き分けるためにも、みことばに耳を傾けることが大切です。 良い地のような心になれるよう、さまざまな世の欲望が迫るとき、みことばに聞き続けましょう。 箴言4章23節 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。」
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