小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2011/03/07 8:08:17|先週の礼拝から
みことばに聞く
芳賀富子師のお話から  主要テキスト:ルカの福音書8章11〜15節
     
ルカ8章には種まきのたとえが記されています。
イエスは自然の中で、人々の目線に立って日常的な出来事を通して真理を語られました。

T.種は神のことば
種は目に見えるところでは、取るに足りないように思われます。
ところが種のいのちが芽を出し育っていくと、枝を伸ばし葉が茂り、実をみのらせるのです。
マタイ13章32節には、種の中で最も小さなからし種について記されています。
蒔かれると、種には生命の力、発育する力と結実する力があることがわかります。
ルカ8章11節、神のことばという種にも、いのちと力があり、良い地に蒔かれると必ず実を結ぶのです。

U.種が蒔かれた地
ルカ8章5〜8節、蒔かれた種が4種類の地に落ちています。
当時のやり方は、種は人の手によって蒔き散らされるか、穴のあいた種の袋をロバに背負わせ、袋が空になるまで畠の中を歩き回らせるという蒔き方だったのです。
ですから種が悪かったのでも、農夫に手落ちがあったのでもありませんでした。
問題は種が落ちた土地にありました。

たとえと、その説き明かしをみましょう。
@5節、12節、“道端に落ちた種” 種は人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。
これはみことばを受け入れない心のことです。
偏見とか頑なさ、さまざまな理由で心を閉ざして、みことばを跳ね除けてしまう心です。
そこでサタンが来て、蒔かれた 「みことばを持ち去ってしまうのです。」
A6節、13節、“岩の上に落ちた種” 土が薄い地です。
芽を出して生えても水分がないので枯れました。
みことばを聞いた時には、喜んで受け入れます。
ところが日が昇ると(試練や困難などに遭うと)、 「根がないので」 枯れてしまうのです。
感情的で衝動的な心といえましょう。
B7節、14節、“いばらの中に落ちた種” 種は芽生え、育ちますが、同じ地にあったいばらが種の成長を塞いでしまいました。
いばらとは 「世の心づかいや、富や、快楽」 のことです。
このいばらは、みことばの成長を塞ぎ、神よりも他のものに熱中させるので、実が熟するまでにならないのです。
C8節、15節、“良い地に落ちた種” 「生え出て、百倍の実を結んだ」 良い地は、みことばを受け入れる人です。
実を結ばせるため、不必要な雑草や石ころやいばらを取り除き、よく耕された、砕かれた心のことです。
みことばを受け入れ、守り、よく耐えて、手放さないことが実を結ぶ鍵です。

V.聞く力
マルコ4章33節に 「彼らの聞く力に応じて、みことばを話された」 とある。
道端、岩の上,いばらの中に落ちた種はみことばを聞いたのですが、実を結ぶことができませんでした。
現代は人が“聞く力”を失いつつあるからではないでしょうか。
@聞き分ける力を失っていないでしょうか。
神の声と自分の声、神の声とサタンの声、神の声と世の声の区別はどうでしょうか。
ヨハネ10章3節、 「羊はその声を聞き分けます」、 神の声を聞き続けましょう。
A神の恵みに慣れて、みことばにたいするマンネリが生ずると新鮮な思いで聞く意欲を失うのです。
教えられようとする謙遜さを失うのです。
注意力を失うのです。
ルカ8章8節 「聞く耳のある者は聞きなさい」 と主は叫ばれました。
“聞こうとする耳”があるとき聞く力は与えられます。

終わりに
みことばに聞くために、一日の初めに祈ることと、みことばを握って備えること。
事あるごとに神の声を聞き分けるためにも、みことばに耳を傾けることが大切です。
良い地のような心になれるよう、さまざまな世の欲望が迫るとき、みことばに聞き続けましょう。
箴言4章23節 「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。」







2011/02/27 23:43:40|先週の礼拝から
父の形見
芳賀  功 師のお話から    主要テキスト:ヨハネ6章16〜21節

T.父の形見
父は、新築や出産にともなう祝いの掛軸や床の間の飾り掛軸画を描く絵師でしたが、八十歳のときに母が天に召され、その年に信仰を告白して受洗しました。
それ以来、聖画に転向し、その第二作が“イエスの海上歩行”です。
父が私に残した唯一の財産です。
わたしは、いつしかこの絵を題材にメッセージをして見たいと願うようになりました。
父は、この絵を通して何を言いたかったのだろうか。

U.父の晩年
父は明治四十年生まれ、99歳で召されました。
因習の強い会津の片田舎で育ち、定年後、趣味を生かして絵師として過ごすが、信仰を持ってから、仏壇内を整理し十字架を入れました。
仏壇を廃棄しなかったのは親類・知人などに気遣われたのでしょうか。
そして9年後“イエスの海上歩行”を完成させます。
信仰告白に到るまでの古い因習との戦いなど、複雑なゆれる思いと、その後の内的戦いが 「わたしだ。恐れることはない。」 によって静められ、励まされたのだろうか。
父の信仰を指導されておられた遠藤牧師(日基―会津高田教会)によって、会津若松の市役所に展示されたのです。
信じて描き、委ねた結果は、公的場所における宗教画の展示という、不思議で異例な扱いを受けたのです。
多くの人の目に触れた事でしょう。
わたしにとってその絵は、しばらくしてから父の形見になりました。

V.この絵の特徴
この絵の特徴は、イエスの顔にあります。
Kさんはイエスの顔は中々かけないものですと言い、これ程までに正面からかけたのも珍しいと、また 「この顔は父正友さんの信仰がそのまま出ていて、 『恐れるな』 と言っているかの様です。」 ともいわれた。

W. ほどなく目的の地に着いた
さて、ヨハネ6章20節、 「しかし、イエスは彼らに言われた。 『わたしだ。恐れることはない。』」 とありますが、この 「わたしだ」 というのは何だと言っているのか。
ギリシャ語ではエゴー エイミー,(エゴーはエゴイズムのエゴーです)エゴーは“わたし”、エイミーは“・・・である”の意味です。
英語では It is I、イスラエルでは ヤハウエ といいます。
つまり海の上を歩く方は誰ですかに対し、“わたしがそれです”という文章になります。
普通ならば水に沈むはずの人間イエスが、この時ばかりは神の姿をもって水の上を歩いたのです。
奇跡は主なる神そのものがなさった事なのです。
弟子たちにとって、正体不明の人影が 「湖の上を歩いて舟に近づいて来られる」 のを 「見て、恐れた」 が、人の子としてこられた「イエスを喜んで舟に迎えた」 のです。
こうして 「・・・・ほどなく目的の地に着いた。」 のです。
要するに、私たちにとって波や嵐が重要なのではなく、イエスを救い主、神として迎えたときに、すぐに望む港に導かれたという事の方が重要なのです。

おわりに
私たちは毎日、嵐のような中に生きています。
イエスがいそうもないようなところから、突如として 「わたしだ。恐れるな」 といってくださるとき、イエスに気付かされる事があります。
そのような生活の中で、どんな悩みも、どんな問題が起っても、イエスを持つ限りにおいて、解決できない事はない。
わたしはこの絵に向き合うとき、 「恐れることはない。」 ということばを思い起こすのです。







2011/02/21 17:56:21|先週の礼拝から
みことばの味わい
芳賀富子師のお話から   主要テキスト:エレミヤ書15章16節

エレミヤは15章16節で 「私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました」と語っています。
ここに3つのことをみることができます。
@神のことばの発見、Aみことばを食べること、B喜びが与えられる。
この中で鍵となるものは「みことばを食べる」ということです。

T.みことばを食べる
出エジプト16章にマナという不思議な食べ物のことが記されています。
これは神がイスラエルの民に与えた食べ物です。
朝ごとに集める事、その量も時も事細かく示しています。
神は40年の荒野の生活を、このマナで養い続けて下さいました。
民は潤され、満ちたりて、争いからも守られたのです。
みことばを食べるとは私たちの心が豊かにされ、愛と忍耐とわきまえが養われるということです。
ヨハネ6章35節、いのちのパンであるみことばを食べることは、イエスを信じるということでもあります。
エレミヤ15章では、 エレミヤが語るメッセージに、民が心を開くどころか、悔い改めず、頑固になっていく姿に、彼は自己憐憫と挫折を味わっていたのです。
しかし、彼とみことばは、食べ物のように一体でした。
みことばを食べ、苦悩の中で、神のみことばを思い起こして支えられているのです。

U.みことばの発見
エレミヤ15章16節で 「私はあなたのみことばを見つけ出し、・・・・」 と記されたが、民が食べていたマナは、見つけ出した食べ物ではありません。
与えられたものです。
それを集め、調理することは民がなすべきことです。
民は示されたことに従うことで、マナを得ることができました。
それは行動であり発見ともいえるでしょう。
詩篇119篇には、みことばの宝石が輝いています。
11節、罪を犯さないため、・・・・あなたのことばを心にたくわえました。
24節、あなたのさとしは・・・・私の相談相手です。
103節、あなたのみことばは・・・・なんと甘いことでしょう。
130節みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。
すばらしいみことばを発見するためには、まず読むことです。
聖書は不思議な本です。
祈りつつ読み続けていくうちに、目が開かれ、発見があります。
そこに主の豊かな恵みを知るのです。
毎日1章を読むことをスタートしましょう。

V.みことばの力
エレミヤ15章16節 「・・・・あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。・・・・」 とあります。
詩篇16章11節は 「あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち・・・・楽しみがとこしえにあります。」と賛美する。
神ご自身が喜びと楽しみの源泉であるからではないでしょうか。
イザヤ30章21節では、導きを求めている人に 「・・・・これが道だ。これに歩め。・・・・」 と言うことばを聞かせます。
また傷ついている心を癒してくれますとあかしするのは、詩篇147篇3節。
詩篇119篇105節では、迷いやすい私たちにみことばの光を示してくださいます。
また、みことばの力をここにみることができます。

W.終わりに
食べ物には甘さ,辛さ、苦さ、酸味等々とありますが、味わうことなく知ることはできません。
“みことばが私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました”と告白できるよう、みことばを読み続けましょう。
みことばを味わいましょう。







2011/02/16 14:49:44|その他
アフリカにあるマラウィ共和国の子供達
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 写真をクリックすると拡大します

私は、9月16日から10月にかけて、マラウィ共和国に行ってきましたが、裸足で生活する子供達が、今も心に残っています。何とかならないだろうか。

日本の子供達が使い古し、小さくなって履けなくなって、着られなくなって、ゴミとして捨てられている靴や衣類でも、彼らにとっては貴重な生活用品です。私共の教会だけでは力不足ですので、具体策を思案中です。
覚えて、お祈りいただければ幸いです。


2月4日の近況報告
多くの方々からのご協力によりまして、援助物資輸送をすることになりました。お礼申し上げます。
従って、援助物資の収集を、とりあえず締め切らせていただきましたので、合わせて、ご報告申し上げます。

2月16日の近況報告
先週8日(火)、皆様の祈りとご協力によってマラウィ向けの援助物資(古着60kg)第一便が発送されました。感謝。







2011/02/16 13:42:01|先週の礼拝から
みことばに生かされて
大津 孝行先生のお話から  主要テキスト:ヨハネ1章1〜5節

T.イエスが私のために死んで
私はフルート演奏が専門ですが、最近は音楽朗読劇もやっております。
神様との出会いと救いの証詞を致します。
私がフルートを始めたのは小学五年生の時でした。
教会には4歳の時に興味があって家の近くの教会の前を通ると胸がわくわくして、ここにはいい事があると思い、大人になったら行かねばならないと思っていました。
私は自分の意思で日曜学校に行きました。
一方、私は体が弱くて、アレルギー体質で、喘息で、何度も死線をさまよいました。
そして教会から離れていた中学生の時、家の近くにアメリカの宣教師が越してきましたので、また教会に行くようになりました。
しかし、後から来た人たちがどんどん洗礼を受けていくのを見て、取り残されたような気分になったのです。
そして私がこのまま自動車事故で死んでしまったら地獄にいくと考えると恐くなり、日曜学校で頂いたみことばカードのことばが脳裏を駆け巡りました。
ビリーグラハム大会に参加し、信じられないのに前に出て、祈ってもらう経験もしたが、やはり信じられなかった。
けれども、その時ばかりは黙示録3章20節 「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。・・・・」 とのみことばで、心をゆすられ、イエス様が戸を叩いていたのに、私が開けなかったのだと気付いて 「イエス様ごめんなさい。わたしの罪を赦してください。」 と祈り、洗礼を受けたいと牧師にお話をしました。
その時、ガラテヤ2章20節のみことばをいただき、イエスが私のために死んでくださった事が分かったのです。

U.父の死と音楽葬
一人ひとりがイエスに出会って信じるのだなぁということです。
ですから、イエスを伝える時の私たちは案内人であって、いのちの水を飲むかどうかを決めるのは、その人とイエス様の問題です。
私の父は自分の商売に失敗して倒産し、ストレスの中で肺ガンが確認され、3日後になくなりました。
父を神様がどのように導くのかと祈っておりましたら、召される一時間前にイエスを信じますと告白致しました。
それで音学葬をもって送りだしました。
これらの事を通して私たち家族の上に素晴らしいみ業が起りました。
他の方も同じような告白をしたからです。
その時に、あの 「千の風になって」 が思い出され、こんな良い歌をと思いながら歌詞を替えて 「天の神に会って」 として替え歌としました。

V.命がけで聖書を運ぶ人
私は2010年1月1日から、朝ごとに聖書を読ませてくださいと祈りました。
不思議と今日まで続けさせていただいており、その霊的祝福は日々大きくなっています。
今の日本は、経済的に恵まれておりますが、神への感謝を忘れて、何でも有って当たり前、平和ボケしてしまっております。
今でも、クリスチャンとして生きようとして迫害されている人がおり、聖書を手にすることさえ禁じられている国々があります。
命がけで聖書を運ぶ人、命がけで宣教している人もおります。
なぜでしょうか。
それはみことばは生ける神のことば、真理そのもので、命をかけるに値する最も気高いことだと確信したからでしょう。
ギデオンの人たちは、今も聖書をアフリカなどに届けています。

W.ことばは神
神は、私たちに直接語ってくださるために、イエス・キリストという御姿をもって地上に生まれました。
罪深い遊女や取税人ザーカイなど、しいたげられた人々に優しい言葉をかけて下さいました。
イエス様が十字架に架けられ三日目によみがえり、その後天に昇りました。今、私たちは聖霊によってイエス様と交わることが出来ます。
そして聖書を通して神のことばを聞く事が出来ます。
ヨハネ1章1節に 「・・・・ことばは神とともにあった。ことばは神であった。」 とありますように、ことばは神であり、いのちです。 みことばは光です。
みことばは私の人生の道であり、行くべき方向の目印としての光です。
みことばは人間を変える力があります。
みことばは、私を励まし、力づけ、父に救いをもたらし、人をも変えました。

X.お勧め
ですから毎朝、聖書を1章だけでも読んでください。
新しい事がはじまります。
ヨハネ1章5節、神のことばと共に歩むなら、サタンは逃げ去ります。みことばによって暗闇から勝利する事が出来ます。