小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/11/09 21:58:49|先週の礼拝から
ゴールを目指して
中林理恵子師のお話から

私が御教会で御用をするのは今回で2回目です。
このたびは栃木いこいの泉チャペルという事で、新会堂のもとでメッセージをさせていただくのは本当に感謝です。
新会堂でこれからという時に私の母が召されて、私共の家族もまた教会においても大きな悲しみでした。
教会の牧師である父も歳をとってきまして不安な面もありますが、先のことは神の導きに委ねるしかございません。

さて、 「ゴールを目指して」 という事ですが、ヘブル12章1節は、私たちの信仰生涯をマラソンに例えた表現で、天国を目指すレースなのです。
それはどんなレースなのか、共に考えて見ましょう。

私は高校時代に13.5kmのマラソンを経験しました。
舗装道路だけでなく、山道があり、悪路があり、ラストスパートありで、マラソンも大変です。

信仰生活のレースは何を考えて走るのでしょうか。
それは今日の聖書(ヘブル書12章1〜2節)が答えです。
一切の重荷とまつわりつく罪を捨ててとあります。

ここで言う一切の重荷とは何か。
将来の不安とか心配が背中に重くのしかかってくる。
自分で何とかしようと思ってもかえって分からなくなってしまう。
これが重荷なのです。

また、まつわりつく罪、別の訳では絡みつく罪とも言っていますが、お金や権力の欲というような自己中心的欲です。
それがサタンに捕らえられると具体的で大きな罪過(犯罪を含む)へと発展していくのです。
自分で取ろうとしても絡み付いて取れないのです。

これらの罪や重荷は、レースの邪魔になるから捨てなさいと言う。
自分でどうにもならないのがこの二つです。
しかしながらこの全ての重荷を背負うから私のもとに持ってきなさい。
私の背中に乗せなさい。
どうしようも無い罪を、私が身代りに十字架で死んだのだから、何回でも持って来なさいとイエス様が言って下さるのです。
自分を見て、あれも駄目これも駄目と言い、また、罪だらけで弱いよ、すぐつまずくよ、と言うような者をあえて選び、ただ愛して下さり、十字架によって赦して下さって、永遠のいのちを得るまでにして下さったのです。
信仰の歩みの邪魔なものを、イエスのもとに持っていって、悔改めて神に委ねていく歩みにしていただきたいのです。

次にマラソンでも、苦しい時を耐え、ここが一番辛いというところを通過しなければならない様に、信仰のレースもそのような時が誰にでも必ず来ます。
私の母のことを話しますと、私は20年間反抗していました。
その頃も母に反攻中でしたが、隣の部屋で子供達のために耐えて一生懸命祈っている姿をよく見かけました。
それでも母には、体の不調との戦いがあり、辛い人生でしたが、あの祈りがあったからこそやってこられたのです。
祈りによって神から力と慰めを頂いて通り抜けたのです。
私はとても母のようにはなれませんが、それを目指したいのです。

ヤコブは 「試練を耐え忍ぶ人は・・・・・・神を愛する者たちに約束された命の冠を受ける・・・」 (ヤコブ1章12節、口語訳)と書いています。
神の国というゴールに、約束された命の冠が待っています。
「良くやった、忠実なしもべよ」 と言って下さる方が待っていて、今までにない喜びを下さるのです。

だから、 「忍耐をもって走り続けようではありませんか。」 と言われるのです。
走り続け、走り抜き、必ずゴールしなさいという事です。
信仰のレースは、誰かに抜かれても、つまずいても、転んでも、立ち止まっても、かっこ悪くてもいい、必ずゴールして下さいと言っているのです。
神の栄光が待っていて、ここにいる皆さんが誰一人漏れずにゴールして、神の栄冠を頂きたいと思うのです。
コースから外れて脱落しそうな方を助けて、共に走り続けるレースに参加して頂きたいと思います。

それでも、自分の力だけでは走れなくなります。
ペテロはイエスから目を離した時に海の中に沈んでしまいました。
だから、 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 (ヘブル12章2節)と勧められています。
導いて下さるイエスから力を頂きながら、イエスと共に走るのです。
どんな時でもイエスは共に泣き、もう走れなくても背負って下さって走ってくださるのです。
私たちの信仰の生涯も、先が見えないような時でも、信仰のたすきをしっかり握って、イエス様の御言葉の声によって走れば、イエスを見失うことがありません。

先に天国に行かれた先輩の信仰によっても励まされます。
大丈夫だよ、私達が待っていますよと言って下さるのでしょう。そのゴールを目指して、走り抜こうではありませんか。  
ヘブル書12章1〜2節   文責 H&K







2008/11/04 13:36:02|先週の礼拝から
あなたたちと一緒に食事をしよう
中林篤朗師のお話から(野外礼拝にて)  ルカによる福音書14章15節

みなさん、今朝は食事してきたでしょうか。
食事出来なかった人もいるかもしれません。
ダイエットで制限している人もいるでしょう。
忙しい人もいて食べられない人もいるでしょう。
しかし、食事すると元気が出ます。

でも、悲しい事があります。
世界中では食べ物が足りなくて、毎年四万人の方がなくなっています。
それで、食べ物の事を考える日として、10月16日を世界食料デーと決めています。

さて、私たちはどうしたら食事をおいしくいただけるでしょうか。
大勢の人と一緒に食べるとおいしいし、好きな人と一緒に食べるとおいしいでしょう。

ところでイエス様は、誰と一緒に食事するとうれしいのでしょうか。
それはですね〜、聖書を見ると、み〜んなと食事したいと言っています。
私と一緒に食事すると心の中が喜びでいっぱいになって、平安になって、元気になりますよ〜。
そしてみんなが天国に来た時に食べるように、素晴らしい食事を用意してまってるよ〜。
だけどね〜。
私と一緒に食事したくないと言う人もいます。
また、わたしみたいな人ヤダと言うんじゃないけど、心配な人もいるんじゃないかな〜。
あなたはいつもの生活で、イエス様と一緒に食事していますか〜。

イエス様はあなたの事が大切で大好きなのです。
どのくらい好きかというと、イエス様はあなたの罪を赦し、身代りになって十字架にかかってくださる程に、あなたがたが大好きなのです。

罪を赦して永遠のいのちを下さる程に、あなたが大好きなのです。
お話が終わったら、みんなで仲良く食事しましょうね。
目には見えませんがイエス様と一緒に食事しましょう。
イエス様が用意してくださる食事を一緒に致しましょう。

みことばを読みます。
「神の国で食事する人は何と幸いな事でしょう。」 
お祈りします。
あなたのお恵みに感謝いたします。
いつか天国でイエス様と一緒に食事できるという約束をありがとうございます。
     ルカ14章15節   文責 H&K







2008/10/20 13:20:04|先週の礼拝から
その日彼らはイエスと一緒にいた
万年諭先生のお話から

ヨハネ1章には、様々な表現で 「一緒に」 と採れる言葉が何度も出てきます。それは今日のタイトルにもありますように 「一緒にいます」 又は 「共にいます」 「・・・の中に」 「私たちの間に住まわれた」 「ついてくる」 といった御言葉です。

私達クリスチャンは、イエス様を信じて完了ではなく、イエス様と 「一緒に生きる」 という継続した関係の大切さを示しています。

マタイ18章20節を見ると、 「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」 と言われました。イエスの名によって集まり、たとえ食事やバーベキュウをしたとしても、主はその中にいて下さると私は信じます。
だから私たちはイエスの名によって集まるべきなのです。

教会がそうなのです。
イエスの名によって集まるところが教会として成立するのです。

クリスチャンは、イエスといつも一緒です。イエスからから離れると愛が冷えていきます。
来週は野外礼拝だそうです。
イエス様も参加されておりますから、皆さんも是非参加してください。

マタイ1章23節は、
「見よ、処女がみごもっている。
そして男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
と告げています。
ここは、私達がイエス様と一緒にいたいと願う以上に、イエス様の方から私たちに近づいて下さっていると伝えている部分です。

神の御姿を捨てて、人と一緒におられると呼ばれるように、人の子の姿をとって女から生まれ、私たちの間に住まわれました。

ザーカイの場合も、人の子のイエス様が近づいていって、 「あなたの家に泊ることにしてあるから」 と声をかけて下さったように、私たちのために罪を背負い、身代りの死をとげられた程に、 「あなたと一緒にいたいよ」 と言っておられるのです。

そうして、私自身による私自身に対する評価がどんなに悪い状態であったとしても、神は 「あなたは高価で尊いから離れたくありません」 と言って下さり、インマヌエルと呼ばれることを望んでおられます。

インマヌエルであり続けてくださるイエス様と共に、日々悔改めながら歩み続けましょう。イエス様を信じて完了ではなく、信仰生活のスタートと前進ですから。
        ヨハネ1章39節    文責 H&K







2008/10/13 17:10:04|先週の礼拝から
清いという名の男
今朝は皆さんが良く御存知のザーカイさんの物語です。
ちなみにこのザーカイという人の名前の意味ですが清いという事です。つまり清く正しい人間になってもらいたいという両親の気持ちの表れです。

さて、聖書は過去のザーカイの人生を報告しませんが、お金があれば何とかなる、金銭で皆を見返せるという人生観を持った様です。
ザーカイはエリコの町に住んでいました。
そのリコの町は、通商の要所であり、ローマに納めるあらゆる税の発生するところでしたから、ザーカイは税金を集める仕事を請け負ったのです。
そうして、19章1節では 「この人は取税人の頭で金持ちであった」 (口語訳)と書いてあるように、仕事で成功しました。

しかし、取税人は、律法学者達にとって、弱者いじめで一人勝ちの様に見え、ローマの手先で売国奴であり、民衆に嫌われ、信任されず、自分でも人徳が生まれない事に気付いたのです。

そうして、神をも恐れぬ悪辣な行為と見られ、罪人と評価されたのです。
彼自身は、神も人をも愛する事が無かったので、今のまま人生を終えるとしたら、天国に入れないという渇きがあるのに、友がおらず、孤独だったのでしょう。

そんな折、罪人と交わり、病人をいやし、遊女に説教までしているイエスという教師と、そのイエスがエリコの町を通るという噂を聞いたので、何としても会ってみたいという思いになっていきました。
そして走って行って、道路わきのいちじく桑の木に登った時、イエスの声を聞いたのです。
「ザーカイ。いそいで降りて来なさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 と言う。

何と優しく愛に満ちた言葉でしょう。
彼は、暖かい言葉をかけられた事がなかったので、心底から喜んだのです。

食事の席上だろうか。
横になっていたか、座っていたかしていたのに、8節、立って主に言った・・・・ 「・・・・・半分を施し・・・・・四倍にして返します。」 と喜びながら発言したのです。

ザーカイの人生が変わったのです。
イエス様が、そばにいてくれるのが嬉しいのです。
それで神と人を愛する喜びを見つけたのです。
イエスは 「きょう、救いがこの家に来ました。」 と紹介し 「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです。」 と言われました。
環境や状況が異なる現代でも、イエス様は 「・・・・あなたの家(心)に泊りたい・・・・」 と言っておらる。
あなたは、イエス様をどのように思われていますか。
ルカ19章1〜10節







2008/10/11 10:21:21|先週の礼拝から
三種類の人間
戸川偕生 先生のお話から

私の母は、栃木県日光の煎餅屋の娘でしたから、私の半分は栃木県人です。
本日お招きにあずかり、親しみを感じています。

私は、父が開拓教会を始めた教会神奈川県鎌倉の腰越独立教会から参りました。
私は、牧師にだけはなりたくありませんでしたが、サラリーマン時代に導かれて神学校に行きました。
その時は、神学を勉強しておくだけならいいだろうとかんがえていました。
その時に芳賀兄との出会いがあり、招かれて今ここに立っています。
神のなさる事は人の思いをはるかに越えて不思議な業をなさる方で、常に最善をなさる方です。

さて、今日の聖書箇所は、あの有名な姦淫の女のところです。
8章1節、朝早く宮に入ると、人々がイエスのもとに集まったので、教え始めていたが、そこにパリサイ人達がやってきて、姦淫の現場で捕らえられた女を連れてきたのです。

当時絶大な人気があったイエスを落し入れるため、女をだしにしてイエスを告発する理由を得るためでした。
イエスをねたんでいたからです。

その法律的背景はこうです。
当時のローマの法律では、ユダヤ人が自分の国内問題でも、勝手に死刑にしてはいけないし、また、この女を許せと言えばユダヤの律法違反になるのです。
ユダヤの律法ではこういう女を石打の刑にせよと書いてあるからです。

どう答えるのかイエスに聞いたのです。
その時にイエスは 「あなた方のうちで罪の無い者が、最初に石を投げなさい」 と言ったのです。
この言葉で律法学者たちが、自分の罪を思い出し、立場は逆転してしまいました。

私たちは、元来罪の根を持って生きているのですが、年を重ねた人ほど、罪の意識が増すと言われています。
最近の○○フーズと言われる社長さんの場合は、人をだましてでも儲けたいという誘惑があったのです。

聖書は、年長者から出て行ったと伝えています。
また10節、 「婦人よ。あなたを罪に定める者は無いのか」 「誰もいません」 という会話を残していますが、この言葉の裏には 「婦人よ。私が、あなたの罪の罰を代りに受けますよ」 というイエスの意志があります。
これが私たち人類に与えられた素晴らしい救いの福音です。

ここには、三種類の人間がいたのです。
イエスと女の様子を観察しようとする律法学者は、自分の罪を隠したまま見ていて、罪の世界に戻るのです。
この女性は、自分の罪のために死を覚悟でイエスの前に立ち、赦されたのです。
民衆は、好奇心で見ていただけで、自分の罪さえも気付かずに、他人の事のみ気になるのです。

私たちも教会に来るが、人を見て、 「あの人より私」 と批判する相対的な考えに留まっていないだろうか。
自分は神の前に立ってどうかという事が大切です。
神に導かれて歩み、人を見ない信仰者でありたいものです。

罪を悔改めた時、初めて平安があるのですから。 ヨハネ8章1〜11節    文責 H&K