中林理恵子師のお話から
私が御教会で御用をするのは今回で2回目です。 このたびは栃木いこいの泉チャペルという事で、新会堂のもとでメッセージをさせていただくのは本当に感謝です。 新会堂でこれからという時に私の母が召されて、私共の家族もまた教会においても大きな悲しみでした。 教会の牧師である父も歳をとってきまして不安な面もありますが、先のことは神の導きに委ねるしかございません。
さて、 「ゴールを目指して」 という事ですが、ヘブル12章1節は、私たちの信仰生涯をマラソンに例えた表現で、天国を目指すレースなのです。 それはどんなレースなのか、共に考えて見ましょう。
私は高校時代に13.5kmのマラソンを経験しました。 舗装道路だけでなく、山道があり、悪路があり、ラストスパートありで、マラソンも大変です。
信仰生活のレースは何を考えて走るのでしょうか。 それは今日の聖書(ヘブル書12章1〜2節)が答えです。 一切の重荷とまつわりつく罪を捨ててとあります。
ここで言う一切の重荷とは何か。 将来の不安とか心配が背中に重くのしかかってくる。 自分で何とかしようと思ってもかえって分からなくなってしまう。 これが重荷なのです。
また、まつわりつく罪、別の訳では絡みつく罪とも言っていますが、お金や権力の欲というような自己中心的欲です。 それがサタンに捕らえられると具体的で大きな罪過(犯罪を含む)へと発展していくのです。 自分で取ろうとしても絡み付いて取れないのです。
これらの罪や重荷は、レースの邪魔になるから捨てなさいと言う。 自分でどうにもならないのがこの二つです。 しかしながらこの全ての重荷を背負うから私のもとに持ってきなさい。 私の背中に乗せなさい。 どうしようも無い罪を、私が身代りに十字架で死んだのだから、何回でも持って来なさいとイエス様が言って下さるのです。 自分を見て、あれも駄目これも駄目と言い、また、罪だらけで弱いよ、すぐつまずくよ、と言うような者をあえて選び、ただ愛して下さり、十字架によって赦して下さって、永遠のいのちを得るまでにして下さったのです。 信仰の歩みの邪魔なものを、イエスのもとに持っていって、悔改めて神に委ねていく歩みにしていただきたいのです。
次にマラソンでも、苦しい時を耐え、ここが一番辛いというところを通過しなければならない様に、信仰のレースもそのような時が誰にでも必ず来ます。 私の母のことを話しますと、私は20年間反抗していました。 その頃も母に反攻中でしたが、隣の部屋で子供達のために耐えて一生懸命祈っている姿をよく見かけました。 それでも母には、体の不調との戦いがあり、辛い人生でしたが、あの祈りがあったからこそやってこられたのです。 祈りによって神から力と慰めを頂いて通り抜けたのです。 私はとても母のようにはなれませんが、それを目指したいのです。
ヤコブは 「試練を耐え忍ぶ人は・・・・・・神を愛する者たちに約束された命の冠を受ける・・・」 (ヤコブ1章12節、口語訳)と書いています。 神の国というゴールに、約束された命の冠が待っています。 「良くやった、忠実なしもべよ」 と言って下さる方が待っていて、今までにない喜びを下さるのです。
だから、 「忍耐をもって走り続けようではありませんか。」 と言われるのです。 走り続け、走り抜き、必ずゴールしなさいという事です。 信仰のレースは、誰かに抜かれても、つまずいても、転んでも、立ち止まっても、かっこ悪くてもいい、必ずゴールして下さいと言っているのです。 神の栄光が待っていて、ここにいる皆さんが誰一人漏れずにゴールして、神の栄冠を頂きたいと思うのです。 コースから外れて脱落しそうな方を助けて、共に走り続けるレースに参加して頂きたいと思います。
それでも、自分の力だけでは走れなくなります。 ペテロはイエスから目を離した時に海の中に沈んでしまいました。 だから、 「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。」 (ヘブル12章2節)と勧められています。 導いて下さるイエスから力を頂きながら、イエスと共に走るのです。 どんな時でもイエスは共に泣き、もう走れなくても背負って下さって走ってくださるのです。 私たちの信仰の生涯も、先が見えないような時でも、信仰のたすきをしっかり握って、イエス様の御言葉の声によって走れば、イエスを見失うことがありません。
先に天国に行かれた先輩の信仰によっても励まされます。 大丈夫だよ、私達が待っていますよと言って下さるのでしょう。そのゴールを目指して、走り抜こうではありませんか。 ヘブル書12章1〜2節 文責 H&K
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