小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/12/19 16:36:03|先週の礼拝から
たおれても起き上がる
今年もあと一ヶ月で過ぎ去ろうとしております。そしてクリスマスを前にアドベント第一週を迎えました。

私はこのような時期に、一年の終わりの時に、二人の姉妹の闘病のために真剣に祈る時となろうとは、そして長い試練の年となろうとは予想しておりませんでした。
神はこれらの多くの試練の時でも憐れんで下さり、慰めて下さり、今日はこのヨブ記のヨブさんのように、最後は必ず祝福に変えてくださるに違いないと、信じる者であります。

イザヤ53章3節では、イエスの事を 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」 と表現して、苦しむ者をはげまされますが、二人の姉妹達もこのヨブ物語のように 「たおれてもまた必ず起きる」 と信じます。

人は生きていく中でいろいろな生死に関わる問題で行き詰りますが、聖書学者はこれらを 「ヨブの問題」 と言い、私たちの人生の問題とオーバーラップさせて考えます。
人生にどうしてこんな理不尽な苦しみや試練があるのでしょうかと苦しんだ経験がありますか。
そこで聖書を神のことばとして信じますならば、真実を見つけ、助けを得ます。

ヨブという異郷の人物を通して、神はなぜそれを許しておられるのかということを、現在のテーマとして見ることが出来るのであります。
そういう意味で、このヨブ記は世界的に重用されている文書で、多くの方が救いを得る超一級品であります。

さて、ヨブ記1章1〜12節を見ると、ヨブという方は、潔白で、正しい人で、神を畏れる人で、財産や家族(子10人)にも恵まれ、幸せな家族でした。
しかしどんなに平和のように見えてもそれだけで終わらないのが人生です。

第一の試練は、突然の相次ぐ略奪と竜巻による子供達全員の死、そしてヨブ自身の悪性の皮膚病という連続した試練です。
第二の試練はヨブ自身の自らの正しさにしがみついていたので、彼の心は一点の曇りもないのに、あなたが苦しんでいるその皮膚病は何故起きたのかと、三人の友人にも非難され続けた事です。

よく世間では不幸は先祖のたたりだとか言う人がいます。
ヨブの友人のように、因果応報に基いた思考です。

三年前に始めた開拓伝道でしたが、当初は非難と軋轢の毎日でしたし、一年目に病で中田姉を、二年目に芳賀姉を 「あっ」 という間に天に召され、現在は中島姉が癌で余命何日と言われる大試練です。
「神様!何という事を」 と言って食って掛かる程でした。
顔で笑っても、心はいつも泣き面の連続です。

かつて 「私たち家族は神のものです」 と祈り、6人家族の内二人が献身して牧師になったのに、試練はそれだけではおさまらず、自己破産をさせて全財産を取り上げられ、三人目の献身をさせました。
しかし、神の目は 「そんなの関係ない」 とばかりに、開拓伝道の過程にまでも続いたのです。
しかし、これらの事の全ては神の御手の中にあるということです。

サタンの最終目的は何か。
神を呪わせることです。
ヨブ自身も自らの正しさにしがみついていたので非難されてしまいました。
そして四人目のエリフという人と神の言葉によって、信仰が本物になっていくのであります。

ヨブ記42章5〜6節、ヨブは「あなたのことを、耳にしてはおりました。
しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。
それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」と告白できたのです。

自由自在に動いているかに見えるサタンでも、背後で神が御支配されているというのです。
そこを通らなければ砕かれない固いものが、人と私の間に、神と私の間に、気付かなくても厳然と横たわっているのだろうと思います。
その固いものを神に触れていただいてこそ、徹底した救いに迎えられるのでしょう。

ヨブはその苦しみと従順があってこそ祝福され、ヨブ記42章10節のように、二倍の富にあずかったのであります。
ヨブ1章1〜12節







2008/12/04 21:01:34|先週の礼拝から
幸いなる信徒の責任
佐野謙次兄のお話から

山上の説教には八つの祝福(さいわい)がありますが、八つとも祈りの課題です。
天国は彼らのものという幸いと喜べという励ましです。

また、山上の説教が自分にとってどの様な意味を持っているのか、心に共鳴するものが無ければ、主イエスの教えの意味も価値も半減しています。

八つの祝福を具体的に見ていきましょう。

3節、 「心の貧しい人たち・・・・・・天国は彼らのものです。」 心とは内なる霊であり、貧しく天に向かって助けを呼び求める敬虔な人たちを指しています。
神の富と知恵力を受けます。
賽銭箱にレプタ二枚を入れたやもめこそ、イエスが目を留められた貧しい人です(マルコ12章41節)。

4節、 「悲しんでいる人たち・・・・・・慰められます。」 自分の不甲斐なさ、弱さ等により神から離れている自分を嘆く人たちです。
主イエスは悲しむ人を慰め、やがて再臨のとき天の御国の完成のとき悲しみが終わります。

5節、 「柔和な人たちは・・・・・・地を受け継ぐであろう。」 神の前に自己主張をしない素直に従う人たちであり、柔和は悲しむ者と義(神の正しさ)に渇く者の品性(人格・人柄)です。
譲りの地を賜わる恵みを約束されるのです。

6節、 「義に飢え渇いている人たちは・・・・・・飽き足りるようになる」 霊的必要を願望します。
義は神の重要な本質で、イエスを信じる義が、自分の全生活を支配する事を切実に望む人たちで、人間のために与えられた、飽き足りる程の神の義(神による正しさ)です。
ここに生死の分かれ目があります。

7節、 「あわれみ深い人たちは・・・・・・あわれみを受けます。」
神のあわれみ(十字架)を受ける価値の無い者が霊と体の救いを得たことを自覚して、悩みのうちに在る者をあわれむ。

8節、 「心の清い人たちは・・・・・・神を見るであろう。」 神の御前で心中少しの不正も無く神と人のために尽くす人に、神もご自身を現します。

9節 「平和を作り出す人たちは・・・・・・神の子と呼ばれる。」 人間の歴史の中の不安定の解決は、十字架による平和のみです。
マーティン・ルーサー・キング牧師は民族差別の中にあって無抵抗を貫き、ついにアメリカに平和をもたらし国民の祭日ができました。

10〜12節、 「義のために迫害されてきた人たち・・・・・・天国は彼らのものである。」 
神の正しさに生きる者は皆迫害を受けるが、その事さえ幸いです。
11〜12節は、主イエスのために受ける苦しみは幸いであるとの言葉です。

結論は神の正しさ(神の義)に生き続けるという事です。
主の祈りと使徒行伝と八つの幸いから目を離さない事です。
御国に招かれた一人ひとりが、聖霊によって歩ませていただくための大切なポイントです。
クリスチャンの地上における使命と責任は、神の愛とその義(正しさ)を証しする地の塩となる事ですから、自分で輝こうとせず、絶えず光を受けこの世の光として輝き続けるという事です。
神は(キリストは)光だからです。  マタイ5章1〜16節(口語訳)文責 H&K







2008/11/28 15:59:12|先週の礼拝から
神による想定外の出来事
今日のみことばの中心は、7節の 「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。」 という事です。
思い煩いという言葉には、ネガティブな、苦い、暗いイメージであります。
それは、人間がいろいろ考えたとしても、80%が想定外の出来事、即ち取り越し苦労に相当する事柄だからです。
悩まずに、神を信じ神に従って、明るく未来に向かって歩んでいこうではないかというのが、今日の結論です。

非常に現実的で、また分かり易い御言葉ではないでしょうか。
自分の判断と希望が、自分の想定内の事柄だけであるなら、明日という未知な世界の事で、ネガティブな思考からストレスを生み易く、これが思い煩いにつながるのであります。
「病は気から」 という言葉があるように病気や苦しみの80%が思い悩みや取り越し苦労だというのです。
「そんな事を言われても」と言うかも知れませんが、神に委ねるとはその事です。
何故なら7節 「神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 と神様がおっしゃるからです。

私共の教会も開拓伝道を始めて2年が過ぎました。
しかし信仰が薄いせいか思い悩む毎日でした。
でも会堂は与えられ、多くの先生方の応援があり、宣教師の先生方にも恵まれました。
これらの恵みは、窮状を訴えた祈りに対する答えでした。
私共にとって想定外の出来事でした。
しかし、神にとっては想定内の事であったと信じています。

メンバーのN姉、S姉は、現在も闘病中ですが、医師の言う事に振り回されず、神のなさる業に委ねたいと思います。

次に、思い煩いを克服するために、聖書は何と言っているか、見ておきたい。
5節 「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」
つまり思い煩う前に 「へりくだりなさい。」 と言っているのです。
試練に遭うと、(私もそうですが)肩に力が入り、身構えてしまい、神の恵みから外れ、自分の計画や力に頼んでしまいます。
これが一番危険なのです。

例え試練が来たとしても、いつも神の前に身を低くしていこうではありませんか。
思い煩わないでへりくだるというのは、神の力強い御手の下に一切を委ねて服する事です。
6節「神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださる」という事なのです。
ですから思い煩いを背負い込まないで下さい。
神の力強い御手を認めて、心にかかる一切の心労を御手の中におろして、主と共に歩んでいきたいと思います。 Tペテロ5章6〜10節







2008/11/23 19:42:04|先週の礼拝から
苦しみの足りないところを負う
中島總一郎兄のお話から

(紙面の関係で序論のほとんどを省略しました。)

パウロは、コロサイ1章24節で、 「キリストのからだなる教会のために、キリストの苦しみのなお足りないところを、わたしの肉体をもって補っている。」 と言っています。
皆さんにお聞きしたいのですが、 「キリストの苦しみのなお足りないところ(口語訳)」 とは何でしょうか。
キリストの受難で受けた苦しみで欠けたところがあったのでしょうか。
否、イエスが十字架上で 「完了した。」 と宣言された(ヨハネ19章30節:新改訳)ように、人が救われるための福音が完成するために、必要なことは全て終わったのです。
パウロは、完成し、私たちに託された福音に関与する事を言っているのです。

その第一は25節、神の言葉を告げ広める勤め(宣教)であり、第二は28節、教会に奉仕し、信徒の成長を助ける働き(育成)です。

これは、パウロが啓示された、彼独特の二大奥義と言われていますが、少し整理しておきましょう。
@パウロにとってこの奥義は、足りないところを満たす喜びなのです。
それはガラテヤ1章16節 「異邦人の間に宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示」 されたとあるように、彼の内におられるイエスによって、彼に託された異邦人への宣教だからです。
A次にパウロはこの二大奥義のために苦しむ事をも喜びとしました。コロサイ1章24節(口語訳)  「今わたしは、あなたがたのための苦難を喜んで受けており、・・・・・・」 と言っています。
これはパウロだけに委ねられたことではなく、私たちの信仰者に適用されるように期待されており、キリスト者一人ひとりに苦しみのなお足りないところを満たすように私たちは召命され委ねられているのです。

次にキリストの苦しみを負うとはどんな意味があるのでしょうか。
第一は神の僕として認められた委任状である。
第二はキリストの同労者として受け入れられた者の勲章であります。
第三はキリストと一心同体の者であると認められた認定証である。
Uテモテ1章8節(口語訳)に 「わたしと苦しみを共にしてほしい。」 と苦しみを共に負い合えるのは一心同体の者だけである。
Bこの苦しみは恵みとしての苦しみです。
キリストの苦しみのなお足りないところを負わせていただく恩寵はキリストに愛され、その力を与えられ、分担するに足る者(価する)として信頼された者にだけ来る神の恵みなのです。

結論です。
私たちもキリストの苦しみのなお足りないところ、即ち満たすべき宣教と育成の業に参加させていただき、そして御国において神から祝福され、神の栄光を受けられる者として、成長させて頂きましょう。
使徒 5章40〜42節、コロサイ1章24〜29節 参照
 文責 H&K







2008/11/17 7:59:42|先週の礼拝から
人が救われるのは宗教ではなく、主イエス・キリストから来るのです
栃木いこいの泉チャペルは、開拓伝道を初め、今年の10月1日で丸二年になりました。

信仰によるビジョンが与えられ、この間、イエス様から両手に抱えきれないほどの具体的な恵みと祝福を頂いてきました。
先ず、開拓伝道を始めるに当って、 「わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 (ヨハネ13章34節)との御言葉がビジョンとして与えられたことは、繰り返しお話ししてきた通りで、お題目ではなく、行動できた事は大きな祝福です。
さらに、宣教師とお交わりするようになって 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」 (マルコ16章15節)が、改めてビジョンに加わり、海外に向けて短時間ビデオによるメッセージ発信というチャレンジを受けております。
第二に、開拓伝道推進は、神がシナリオをつくって下さり、イエスが実行して下さったという事です。 シナリオの先が見えない時は、悲しみと苦しみが伴いましたが、祝福に満ちた山と谷でした。
私は、示された事々を、 「行け、行け、ドン、ドン」 とばかりに行動するのみでしたから。
第三に、神は多くの諸先生方を(40名程で、複数回)送って、応援してくださいました。
多くを教えられ、また励まされました。
第四に、一昨年8月には、新会堂が 「あっ」 という間に献げられ、この所で礼拝がささげられようになり、最近、駐車場が足らないという事でしたが、また、 「あっ」 という間に与えられました。(20台ほど)無料です。
私は思わず神を見上げ感謝し、救いと恵みは主イエス御自身からだと感謝しました。

それではイエス・キリストとはどういうお方なのでしょうか。
聖書はどのように言っているか。
第一に、イエス様という方は、神がどの様なお方であるかを、人間に分かるように示しておられる神の御子なのだという事です。
第二に、イエス様は、どうしたら人間が幸せで豊かな人生を歩む事が出来るのかという父なる神の知恵を、父から聞いて人に教えて下さった方です。
第三にイエス様は、人間の罪と、罪からの報酬である死と、神の審判である裁きから、私たちを救うために来られた救い主だという事です。
ただし、罪の死から勝利し、復活されたイエスご自身に、私たちが信仰によってつながり続ける事で、救いが進むので、イエスにつながっていない限り、救いの道も祝福もありません。

前述の恵みは、イエス様において私たちに永遠の昔から与えられていたものです。 (Uテモテ1章10節)
イエス様は、十字架の愛と復活を、神によって成し、死を滅ぼし、その福音によっていのちの不滅と永遠のいのちを明らかに示したのです。
ですから、私たちを救うのはキリスト教という宗教ではなく、イエスご自身が一人一人を救うという事実なのであります。
角度を変えて見ると、教会につながれば救われるのではなく、イエスにつながって救われた者たちが、教会を形成するのです。
私は不正で汚れきった人間だから、俺みたいな人間は神にたたられ、地獄に落ちると長いあいだ思っていました。
こうした思いが宗教の行き着く先です。
そのような者で何の資格も無い者のために十字架で死んで下さり、心から愛して下さったのは、イエス・キリストです。

その罪の中身を整理して置こう。
第一に、人間は自分の命の恩人でも裏切ってしまう性質を持っています。
その代表がペテロです。
第二に、人間は多くの恵みを受けても、情欲と不満の連続で、不平、不満、不品行、つぶやき等の罪の性質を持っています。
出エジプト(旧約)のイスラエルの民がそうです。
第三に、人間は人を見くびってしまう悲しい性質を持っています。
高学歴や、知識や、強い人は弱い人を暴力(戦争)によって滅ぼします。
男は女より強いに決まっているのに、助けない等、人間の弱さであり罪です。
第四に、こうした弱さのために、いつも失望し、不安がつのり、病気になり、自殺する罪さえ持っています。
人間は、自分の罪が分かっていないのです(ローマ7章14〜20節)。
これらの罪から人類を救うために、神はひとり子イエスを遣わしたのです。
この罪に気付いた時 「ごめんなさい」 と悔い改める事によって神の国に一歩近づくのです。
こんな拙い者のために、神はひとり子イエスを十字架にかけたのです。
ところがそのイエスを、神は復活させました。

あのパウロはイエスの復活の力の中に、日々を生きたのです。(ピリピ3章10〜11節)
ですからこの地上に於いて、一時間でも一分でも生かされる人には、神の栄光を現わす者となる事をイエスは期待しているのです。 Uテモテ1章9〜10節