今年もあと一ヶ月で過ぎ去ろうとしております。そしてクリスマスを前にアドベント第一週を迎えました。
私はこのような時期に、一年の終わりの時に、二人の姉妹の闘病のために真剣に祈る時となろうとは、そして長い試練の年となろうとは予想しておりませんでした。 神はこれらの多くの試練の時でも憐れんで下さり、慰めて下さり、今日はこのヨブ記のヨブさんのように、最後は必ず祝福に変えてくださるに違いないと、信じる者であります。
イザヤ53章3節では、イエスの事を 「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。」 と表現して、苦しむ者をはげまされますが、二人の姉妹達もこのヨブ物語のように 「たおれてもまた必ず起きる」 と信じます。
人は生きていく中でいろいろな生死に関わる問題で行き詰りますが、聖書学者はこれらを 「ヨブの問題」 と言い、私たちの人生の問題とオーバーラップさせて考えます。 人生にどうしてこんな理不尽な苦しみや試練があるのでしょうかと苦しんだ経験がありますか。 そこで聖書を神のことばとして信じますならば、真実を見つけ、助けを得ます。
ヨブという異郷の人物を通して、神はなぜそれを許しておられるのかということを、現在のテーマとして見ることが出来るのであります。 そういう意味で、このヨブ記は世界的に重用されている文書で、多くの方が救いを得る超一級品であります。
さて、ヨブ記1章1〜12節を見ると、ヨブという方は、潔白で、正しい人で、神を畏れる人で、財産や家族(子10人)にも恵まれ、幸せな家族でした。 しかしどんなに平和のように見えてもそれだけで終わらないのが人生です。
第一の試練は、突然の相次ぐ略奪と竜巻による子供達全員の死、そしてヨブ自身の悪性の皮膚病という連続した試練です。 第二の試練はヨブ自身の自らの正しさにしがみついていたので、彼の心は一点の曇りもないのに、あなたが苦しんでいるその皮膚病は何故起きたのかと、三人の友人にも非難され続けた事です。
よく世間では不幸は先祖のたたりだとか言う人がいます。 ヨブの友人のように、因果応報に基いた思考です。
三年前に始めた開拓伝道でしたが、当初は非難と軋轢の毎日でしたし、一年目に病で中田姉を、二年目に芳賀姉を 「あっ」 という間に天に召され、現在は中島姉が癌で余命何日と言われる大試練です。 「神様!何という事を」 と言って食って掛かる程でした。 顔で笑っても、心はいつも泣き面の連続です。
かつて 「私たち家族は神のものです」 と祈り、6人家族の内二人が献身して牧師になったのに、試練はそれだけではおさまらず、自己破産をさせて全財産を取り上げられ、三人目の献身をさせました。 しかし、神の目は 「そんなの関係ない」 とばかりに、開拓伝道の過程にまでも続いたのです。 しかし、これらの事の全ては神の御手の中にあるということです。
サタンの最終目的は何か。 神を呪わせることです。 ヨブ自身も自らの正しさにしがみついていたので非難されてしまいました。 そして四人目のエリフという人と神の言葉によって、信仰が本物になっていくのであります。
ヨブ記42章5〜6節、ヨブは「あなたのことを、耳にしてはおりました。 しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。 それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」と告白できたのです。
自由自在に動いているかに見えるサタンでも、背後で神が御支配されているというのです。 そこを通らなければ砕かれない固いものが、人と私の間に、神と私の間に、気付かなくても厳然と横たわっているのだろうと思います。 その固いものを神に触れていただいてこそ、徹底した救いに迎えられるのでしょう。
ヨブはその苦しみと従順があってこそ祝福され、ヨブ記42章10節のように、二倍の富にあずかったのであります。 ヨブ1章1〜12節 |