小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/01/13 7:59:06|先週の礼拝から
私の力の神
新年日曜礼拝

私たちの教会の今年の御言葉(年間聖句)が与えられました。
詩篇46篇1、2節です。
元旦礼拝にもお話致しましたように、偉大なる神という避け所・力・助けがそこにあるので、私は恐れないという事でありました。

(世界規模の不況と身近なグローバル世界)
しかしこの世を見た時に、いまだかつて見た事もないような経済危機が直面していて、それらを前にして進んで行かなければならないのです。
D.宣教師来日予定が、資金調達遅れによって2週間遅れになりました。
景気が悪いのは日本経済だけではなく、いわゆるグローバルと言われる世界同時不況なのです。
大変な時期です。
「全世界に出て行って・・・・・」という御言葉がありますが、世界的規模で動く時代、グローバルな時代が来ているのです。

(神の力)
このような時、私たち自身に与えられる神の力とはどの様なものかを確認しておきましょう。
先ず、神(の力)は信じる私達を造り変えます。
パウロが、Tコリント1章18節で「十字架のことば、・・・・・・、救いを受ける私たちには、神の力です。」と証言し、更にエペソ1章19節で「神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。」と祈りました。
パウロは、ダイナマイトのような神の力を、既に経験して知っていたからです。
十字架と復活で現わされた福音は、人々を変え続け、キリストの誕生を境にして、「BC・AD」と歴史年号の数え方を変えさせた程です。

(身近で起る事)
神の力が私達にもたらすものを三つ挙げてみました。
@罪の帳消し――福音は、過去の罪を帳消しにします。
過去の失敗や罪にこだわって手放せないでいると、今を活き活きと生きられないのです。
コロサイ2章14節でパウロは「私たちを責め立てている債務証書を無効にされたからです。神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました。」と言っています。
罪の責任を拭い去り、今を生きるように過去から開放したのです。
A問題に勝つ力――問題に打ち勝つ力を与えます。
問題の無い人生はありません。
問題を自分の力、自分の能力、経験などで解決しようとする所に次の問題が発生し残ります。
それを止めて神の力に信頼するのです。
ローマ8章37節にも「私たちを愛してくださった方によって・・・・・・圧倒的な勝利者となるのです。」とありますように、私たちにはその問題を神の御手に委ねる事が赦されているのです。
神に訴え、信頼して待つなら、途方に暮れることなく導いて下さるという確信が与えられ、やがて解決が与えられます。
B人格を変える――私の人格を作り変えます。
私たちは変えられるものなら変えたい癖(性格)を持っています。
それを変えられたいと願い求めるなら、神がそれをして下さると信じる者です。
それは聖書の御言葉と聖霊の助けに焦点を合わせて、神の導きに従い続ける事です。
その事によってガラテヤ5章22節「御霊の実は、愛、喜び・・・・・・」のような御霊の実が結ばれていくと確信するのです。

(神の力の実現)
最後に神の力が私に働くためには何が必要かという事です。パウロはローマ12章2節で「心の一新によって自分を変えなさい。」と語りました。
さらに具体的に言えば、私の内側には自分中心的な物の見方・考え方がありますが、それを聖霊が気付かせて下さる時があります。
気付いた事柄を悔改めて方向転換をし、聖書のみ言葉を自分のものとして受け入れていく事が必要なのです。
一度に全ての古い自分を渡しきれないかもしれませんが、「信仰と心の一新による」事を求められています。
その時に神の力が内に働いて生き方に変革が起り、家族が回復し、教会が生き返り、変えられていくのであります。

今年こそ、こうした神の恵みを、味わい続ける年で受け続ける年でありたいですね。     詩篇46篇1〜2節







2009/01/09 19:26:20|先週の礼拝から
主の言葉は必ず実現する
1)動転して感謝して
今朝のお話は藤先生がなさるはずでしたのに、藤先生のお母様が突然倒れて救急車で運ばれるという事態になり、先生も付き添い者として一緒に出て行かれました。
動転しながら早い回復を祈りつつ送り出しました。

私の信仰生活も長いのですが、初めての経験です。
そしてお話の用意がありませんでしたが、指示されていたテーマに沿ったお話をぶっつけ本番で済ませました。

ところが、プログラムに沿った礼拝式が終わってのちの愛餐会の時に、藤先生とお母様と息子さんが、チャペルに戻ってきたのです。
びっくりしました。
私は思わず救われた気持ちでした。
昨年も教会にとって大きな試みが続いただけに、思わず天を仰ぎ感謝した事を思い出します。

2)用意された聖書の言葉(マリヤの信仰告白と祝福)
さて、ピンチヒッターの立場でお話した内容です。
今朝の御言葉は、ルカ1章45節 「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」 という、マリヤに対するエリザベツの祝福の言葉です。
必ず実現するという信仰から出てきたマリヤの祈り、38節 「あなたのおことばどおりこの身になりますように」 が裏付けとなっています。

3)私を動かした言葉
私が神学校に入る動機となった言葉は、マタイ17章20節 「この山に、 『ここからあそこに移れ。』 と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」 でした。
そして、神学校における最初の証しも同じ言葉で 「今、この御言葉を信じきるという信仰に立っているからです。」 と証しさせて頂きました。

もうあれから6年の歳月が流れ、今もこの御言葉を信じきるという信仰に立って進んで行こうと思っています。
それは人間の言葉によったからではなく、主の語りかけによって、 「主の言葉は必ず実現する」 と信じきって献身したからであります。

5)私の不信仰と悔悟
神学校卒業後少し経って、教会の開拓を始めようと動きはじめました。
しかし、教会開拓といっても甘いものではありませんでした。
外側から伝道を止めなさいという声が入り、誹謗中傷的な言葉が入るので挫折しそうになり、家内と相談し、ついに止めようと教区長に申し入れたのですが、一度受け入れた召命の御言葉を捨てる事に対して激怒されまして、御言葉の決意の重さと権威というものを改めて思い知らされました。

6)信仰更新の言葉
この時、改めて創世記39章2〜3節 「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。・・・・・・主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」 を通して、主の言葉は必ず実現するという思いを新たにし、教区長と共に手を取り合って悔改め、涙を流し祈ったのであります。

4)主が山を動かしていた
私は 「山が移る」 という信仰によって献身し、従ってまいりましたが、物理的に 「山が移る」 のは難しい事でしょう。
しかし、今、考えてみれば、祈りが聞かれていると思っています。
こんな無力な者であっても、いろいろな困難が有ったとしても、教会が建てあげられ、教会開拓という課題が実現しつつあり、今ここに立っているのであります。
祈りが聞かれて、共におられた主が山を動かしておられたと、今も信じております。
共におられる主を信じ続けたいと思います。
            ルカ1章45節







2008/12/29 22:20:42|先週の礼拝から
クリスマスを祝う
クリスマスおめでとうございます。
今年もクリスマスを祝う季節となりました。

この記念すべき日、救い主がお生まれ下さった日は、一般的な人々には正しく理解されて祝われている訳ではありません。
いまだに商売の道具に用いられ、デパートや飲み屋さんの商売のネタになっているのが現状です。
だから私たち自身も、心の底から祝福できないという複雑な気持ちであります。

ここで、私のクリスマスの記憶を思い出して見たい。
昭和30年代頃、私が経験した事は、東京銀座の光景を見たことでした。
丁度、経済の高度成長期で、三角帽子をかぶった酔っ払いが道路いっぱいに溢れていました。
そして50年代になると、何処ででもクリスマスパーティーが沸き返っておりました。

そして現在は、商売のネタでもありますが、キリストの降誕記念という知識が行きわたり、その恵みが分かりかけてきたように思います。
だから今、それを正しく宣べ伝えていかねばならないのですから、信仰の初歩と少し掘り下げた事を整理してきたい。

第一は、私たちの救い主であるキリストの誕生を祝う記念日であることを知って、新たに信じるチャンスとなり得る日であるという事です。
先ず、マタイ1章21節、 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。」 と告知された通り、 「私たち罪人を救うために、神がご自身のひとり子を世に遣わして下さった」 という事です。

また、ヨハネが、Tヨハネ4章14節で 「私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。」 と言っているのは、御子の立場を、神の計画に従ったお方、完全に仕えるお方として来られたと言っているのです。
しかも、馬小屋で産まれ、飼葉おけという汚く、臭い、最低の所に寝かせられるのを、よしとする仕え方です。

パウロは、ピリピ2章6〜8節で、 「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」 と言い、さらに、いろいろな書簡で 「神としての特権を放棄されて僕の姿をとり、肉体をもってお生まれ下さったのです。それは罪の報酬から受ける死から私たちが救われて、永遠の命を受けるために、ご自分の命を贖いの代価として、おささげになるためです。」 という事を言っています。

マルコ10章45節を見てみましょう。
マルコは 「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のために、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」 と表現しています。

パウロは、Uコリント9章15節で 「言葉に表せない程の賜物のゆえに、神に感謝します。」 と福音を伝える事を通して、神と人に仕える事を喜んでいます。

私たちの役割は、何でしょう。
先ず、御子が福音を完成させるために来られた事を知って喜ぶ事でしょう。
そして、この高いところから説教する事よりも、罪に沈み、力の無い人を助け、弱い人々を助けながら、御子による福音を伝える事を通して人々を愛する事であり、この事を通して、神に仕えるという事であります。

今年もそれぞれの所でクリスマスのお祝いをする事でしょう。
しかしどのように祝うにしても決して十分な祝い方はできませんが、私たちの救いのために、ひとり子をこの地に遣わして下さった神の愛を覚えつつ、お祝いしようではありませんか。             マタイ1章21節







2008/12/26 8:05:45|先週の礼拝から
全世界に出て行く教会を
皆さんクリスマスおめでとうございます。
雨が降る中を、オクサーナさんのコンサートに、ようこそおいで下さいました。

栃木いこいの泉チャーチで牧師の立場にある芳賀功でございます。
この教会の活動が始まって、はや三年目になりました。
私は44年間、日立の営業マンをやってきました。
商売のコツも掴みました。
そして定年後、また企業を起して 「ひともうけ」 しようと思ったのですが、ある事件をきっかけに妻の説得もあって教会開拓を始めました。(そのいきさつは私の出版した「営業部長は牧師になった」という本に記されております。)

さて、聖書の詩篇41章1節に 「幸いなことよ。弱っている者に心を配る人は。」 という言葉がありますが、身近に障害者がおられた事が、障害者に目を向けた教会開拓を始めた大きな動機のひとつでした。
今日、障害者をお招き致しましたのも、その一端であります。
同じように、この壁に掲げた 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」 (ヨハネ13章34節)が行なわれる教会でありたいと願っています。
愛の薄い現代社会で、弱っている方が増えているからです。
それぞれ、ルカ5章31節(口語訳)の 「健康な人には医者はいらない。・・・・」 に関係する事です。
そして、教会も 「健康な教会」 が求められているからです。

そして今、マルコ16章15節 「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」 との宣教命令が、この教会にも与えられている事を覚えております。
今日は、ウクライナからオクサーナさんに来ていただきました。
またアメリカから宣教師に来ていただいておりますが、世界を意識しながら福音発信ができるまでに、私たち個人もそして教会も成長したいのです。
是非この小さな教会のために祈って下さり、支援していただきたいと思っております。

またここは教会堂であり、私は牧師の立場にありますので、神の言葉である聖書を、毎週の礼拝の中でお話させて頂いております。
どうか週一回でなくても、年に一回でも二回でも良いですから、悩みがある時、教会で賛美したい時、商売がうまくいかず儲からない時、ほかにどんな時でも、牧師のメッセージを聞いて下さい。
トップセールスを経験した 「三流営業マン」 なのですから、必ず何かのヒントになると思います。
この教会に足をお運び下さいます様に、よろしくお願い致します。

皆様の上に、神の祝福がありますように。
今日の日を感謝しつつ。
(☆ オクサーナさんはウクライナ出身の歌姫です。写真をクリックすると大きくなります。)







2008/12/21 8:35:17|先週の礼拝から
すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。 
今年もクリスマスが目前に迫りました。
この時期になると各地のイルミネーションが光を放ち輝き始めます。
大平町では、県下最大のスタイル 「音と光のページェント」 としてイルミネーションを紹介し、町民の目を楽しませてくれています。
人は明るく照らされた所に集まりますから、そこで商売を活性化させようという狙いなのです。

人は明るさを求めて集まります。
2000年前のイスラエルも非常に暗い世相であり、人々は救いを求め、あるいは救い主を求めていた時代でした。
平和であり、平安な状態、笑顔を生み出す心の明るさを求めていたのであります。
2000年後の現代も同じであり、その光となる希望を相変わらず求めています。

以前、教会のセミナーで、あなたはどんな教会を望みますかという質問がありました。
私は、開口一番健康な教会で血液が通う明るい活気のある教会と答えました。
「全ての人を照らす真実の光を持って、クリスチャン一人一人がビジョンを持って、宣教に励む事です。
それはその人が来たら周りが明るくなったと言われたら、教会も伝道も80%は成功と言わなければならないでしょう。

第一の明るさは、その人を救い、生かすことのできる御言葉です。

昨日行なわれた中島姉の告別式後のことです。
納骨をするために墓地に行く途中のバスの中で、キリスト教の葬儀に初めて出席したという隣のおじさんが、 「いいもんだねぇ〜」 と感動しておりました。
式の中で読まれた聖書の言葉がいいと言うので、イザヤ41章10節をメモして差し上げましたら喜んでおられました。

詩篇119篇130節に 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」 つまり中島姉の告別式は、聖書の御言葉の光が伝わったので、大きな意味があったと言えるのではないでしょうか。
その人にとって、聖書の御言葉が光となったからです。

第二の明るさは 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来る」 という期待する喜び、私も例外ではないというアドベントの喜びです。

創世記1章3節では 「そのとき、神が 『光よ。あれ。』 と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。」 と宣言され、15節は 「 『天の大空で光る物となり、地上を照らせ。』 と仰せられた。するとそのようになった。」 と3節に対して念を押しているかのようです。

これについてパウロは、Uコリント4章6節で 「 『光が、やみの中から輝き出よ。』 と言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。」 と表現しています。
パウロは啓示によって、イエスの身代りの十字架の死と復活という希望の光が、創世記の言葉に隠されていた事を知ったと告げているのです。

そのパウロは、Uテモテ3章1〜5節で、終りの日には困難な時代がやってくると告げます。
「そのときに人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神をけがす者、・・・・・・」と19項目もの罪の状態を述べて警告しています。

現代は絶望的な夜の時代だと感じます。
終末の時代が迫ってきたとも言えます。
人に笑みをもたらす愛が冷え、どちらを向いても希望が無いのです。
だからどんな小さな光でも欲しいのです。

神は一人子をこの世に送って生まれさせて下さいました。
これは神の知恵の光なのです。
神は、この罪の無い御子イエスに、全ての人類の罪を負わせ、十字架で死なせたのです。
だから神は、御子を自分の罪からの救い主として信じつつ、御子を受け入れる全ての人を赦し、信じた人は、御子が復活し、共に生きて下さるので、感謝と喜びの人生へと導かれるのです。
これが光であるキリストであり、クリスマスの恵みなのであります。

イエスは言われました。
「私は世の光です。私に従う者は決して闇の中を歩む事が無く、命の光を持つのです」(ヨハネ8章12節)