三浦喜代子先生のお話から
1)昨年の事 昨年、御教会が遭遇した二つの大きな試練、3月には春子夫人、12月には中島姉が召天なさり、本当に大きなショックを受けました。 特に御教会にとっては残念で、イエス様のみ心を計りかねていますが、主のなぐさめと励ましと、新しい力が与えられるように祈るばかりです。
私の母も90歳で召され、2008年は後々忘れられない年になる事でしょう。 私の母は健康でしたが、88歳の夏に足腰が弱くなって寝込み、突然イエス・キリストを信じますと告白したのです。 祈り続けて来たので、教会中の喜びでした。 ところが骨折して入院し、12月25日クリスマスの朝、召されました。 主がこの時を備えて下さったのだと分かって、母の死を受け入れたのでした。
2) 新しい年のみことば さて、新しい年のみことばとして、詩篇118篇24節 「これは主が造られ(設けられ)た日、この日を喜び楽しもう」 が、示されました。 当時の私は介護で疲れ果て、喜び楽しむ気持ちにはなれませんでしたが、そのうちローマ5章3〜5節を新たに示されました。 パウロは患難さえも喜ぶというのです。 そこで 「主が造られた日」 という事に戻って三つのことを考えました。
@「主が造られた日」 とは何を指すのか それはこの日、あの日、嬉しい日、思わぬ病で苦しむ日、感謝できないような日、絶望に陥る日も、神は、森羅万象の全てを造られ、一人一人に公平に、与えられたのです。 納得できない日も、お返ししたい日も含むのです。 その理由は、おそらく天に帰った時、神が一人一人に、ダイレクトに答えて下さるのでしょう。正解は分かりません。
A何故それを喜び楽しむと言われるのか 私たちの生きる一日一日は、主が私たちの成長のために、心をこめて造り、私のような欠点だらけな者に下さったのです。 私たちに下さった贈り物です。 一日の所有者は神であり、一日は神の財産でしょう。 そうなら私がとやかく言えるものではなく、反って、パウロのように 「患難さえも喜ぶ」 べき事柄なのでしょう。 ネヘミヤ8章10節には、 「主を喜ぶことはあなたがたの力です」 (口語訳)とあります。 「この主を喜ぶ」 とは、どういう事でしょうか。 それは孫が生まれると嬉しいのと似ていて、神がそばにおられるという事だけで、生きる力、また明日への希望となり楽しいからです。
B「主が造られた」 この主とは誰 主とは神のこと、イエス・キリストです。 その方はあまりにも大きいので語れません。 体験を通して感じた事なら私にも言えます。 私は5年前にガンを患い、すぐ手術をして、生死の境を通り、必ず主が栄光を見せて下さるとの信仰を下さいました。 それはその時、主はお声をかけて下さり、心配するな、思い煩うなと言って下さり、戦って下さいました。 私にとって主とはそういうお方です。
3)喜んでいなさい だから主は言われます。 Tテサロニケ5章16〜18節 「いつも喜んでいなさい。」 主は人間の常識を超えて 「いつも喜べ」 と命じられるのです。 全ては十字架の勝利にあります。 死からのよみがえりの勝利なのです。 それを成しとげられたからこそ、イエスには自信があります。 だから 「いつも喜べ」 を断固として主は命じ、また励まして下さっています。 これは主が造られた日、この日を楽しもう。 詩篇118篇24節 文責 H&K |