小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/02/23 8:25:18|先週の礼拝から
主が造られた日
三浦喜代子先生のお話から

1)昨年の事
昨年、御教会が遭遇した二つの大きな試練、3月には春子夫人、12月には中島姉が召天なさり、本当に大きなショックを受けました。
特に御教会にとっては残念で、イエス様のみ心を計りかねていますが、主のなぐさめと励ましと、新しい力が与えられるように祈るばかりです。

私の母も90歳で召され、2008年は後々忘れられない年になる事でしょう。
私の母は健康でしたが、88歳の夏に足腰が弱くなって寝込み、突然イエス・キリストを信じますと告白したのです。
祈り続けて来たので、教会中の喜びでした。
ところが骨折して入院し、12月25日クリスマスの朝、召されました。
主がこの時を備えて下さったのだと分かって、母の死を受け入れたのでした。

2) 新しい年のみことば
さて、新しい年のみことばとして、詩篇118篇24節 「これは主が造られ(設けられ)た日、この日を喜び楽しもう」 が、示されました。
当時の私は介護で疲れ果て、喜び楽しむ気持ちにはなれませんでしたが、そのうちローマ5章3〜5節を新たに示されました。
パウロは患難さえも喜ぶというのです。
そこで 「主が造られた日」 という事に戻って三つのことを考えました。

@「主が造られた日」 とは何を指すのか
それはこの日、あの日、嬉しい日、思わぬ病で苦しむ日、感謝できないような日、絶望に陥る日も、神は、森羅万象の全てを造られ、一人一人に公平に、与えられたのです。
納得できない日も、お返ししたい日も含むのです。
その理由は、おそらく天に帰った時、神が一人一人に、ダイレクトに答えて下さるのでしょう。正解は分かりません。

A何故それを喜び楽しむと言われるのか
私たちの生きる一日一日は、主が私たちの成長のために、心をこめて造り、私のような欠点だらけな者に下さったのです。
私たちに下さった贈り物です。
一日の所有者は神であり、一日は神の財産でしょう。
そうなら私がとやかく言えるものではなく、反って、パウロのように 「患難さえも喜ぶ」 べき事柄なのでしょう。
ネヘミヤ8章10節には、 「主を喜ぶことはあなたがたの力です」 (口語訳)とあります。
「この主を喜ぶ」 とは、どういう事でしょうか。
それは孫が生まれると嬉しいのと似ていて、神がそばにおられるという事だけで、生きる力、また明日への希望となり楽しいからです。

B「主が造られた」 この主とは誰
主とは神のこと、イエス・キリストです。
その方はあまりにも大きいので語れません。
体験を通して感じた事なら私にも言えます。
私は5年前にガンを患い、すぐ手術をして、生死の境を通り、必ず主が栄光を見せて下さるとの信仰を下さいました。
それはその時、主はお声をかけて下さり、心配するな、思い煩うなと言って下さり、戦って下さいました。
私にとって主とはそういうお方です。

3)喜んでいなさい
だから主は言われます。
Tテサロニケ5章16〜18節 「いつも喜んでいなさい。」 主は人間の常識を超えて 「いつも喜べ」 と命じられるのです。
全ては十字架の勝利にあります。 死からのよみがえりの勝利なのです。
それを成しとげられたからこそ、イエスには自信があります。
だから 「いつも喜べ」 を断固として主は命じ、また励まして下さっています。
これは主が造られた日、この日を楽しもう。
詩篇118篇24節     文責 H&K







2009/02/11 16:50:47|先週の礼拝から
私が真理です
@先週の要点
先週イエス様は 「私が道です」 ということを言いました。
イエスは、なぜ道なのでしょうか。
それはイエスという道を通らなければ神の国に行けないからです。
神の国とは神ご自身が支配しているところの事です。

A今週のテーマ
今日は 「私が真理です」 という事を学んでみましょう。
裁判の時、裁判官は、被告人が有罪か無罪なのか、法律に照らして審理を尽くします。
それは、真理と同じような事で、求刑が真実かどうかということです。
この聖書も神であるイエス様が言っているのですから、信じるに値する真理そのものです。

B何の真理か
イエスに対するポンテオピラトによる審理の様子を見よう。
ヨハネ18章37節、ピラトの尋問に対し、・・・・・・イエスは答えられた。 「・・・・・・わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」 と答えました。
しかし、ピラトは分かりません。
38節、 ピラトはイエスに言った。 「真理とは何ですか。」 ・・・・・・と尋ねるのです。
イエスが、(ピラトに否、)私たちに示そうとしている事は、人間はどのように生き、何のために生きるのか、生きていく上で人生の土台となる真理は何か、私(イエス)はそれをあかしする(現わす)ために生まれ、そのために来たという事なのです。
イエスはこの時、神についての真理、神の言葉とわざ、神の愛を明らかにしようとしているのに、ピラトは分かりませんでした。

Cキリスト教の最大教理
「真理とは何か」 は大変重要な事です。
聖書の(キリスト教の)最大教理ですので、しっかり確認していただきたいのです。
皆さんは何と答えるでしょうか。
その答えは“十字架の愛と復活”に現されているという事です。
ピラトの前で、これが真理ですと答えたとしても、何の事だか分かりません。
イエス様自身が、真理の本質である十字架に架かろうとしているのです。
弟子ヨハネの受け止め方が明瞭です。
Tヨハネ3章16節、 「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。・・・・・・。」 
そして19節、 「それ(神が示された愛)によって、私たちは、自分が真理に属するもの(真理によって救われた者の意)であることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。」

D真理に属する平安
ヨハネの心を私の言葉で言うなら 「あゝ、そうか。この私のような罪深い者を赦すために、死んで下さり、それによって救われ、神をあがめられるという事は、あの十字架の死からよみがえったイエスが完成された、恵みとしての神の知恵だったのか。私は愛されているんだ。」 という事になるでしょうか。

Eまとめ
人間の全ての罪を知りながらこんなに小さく弱い汚れた罪人を、十字架によって救って下さるこの大切な真理こそ、神の力、神の知恵なのです。この真理にあずかり続けられるように祈ろう。
ヨハネ14章6節







2009/01/31 17:42:14|先週の礼拝から
私が道であり・・・・
@お話の要点
ヨハネ14章6節のみことばは聖書の中で最も重要で、基本的な教理であります。
そこで今日は 「私が道です」 を中心に取り上げ、6節を二回に分けて話したいと思います。

A召天者と教会のお墓
私たちの教会では、昨年二人の姉妹を天国へ送りました。
そして、家族や皆さんと墓地に行きますと、石塔の中心に墨痕鮮やかに、しかもくっきりと、 「私が道であり・・・・」 と描かれています。
その様子は、皆さんが口をそろえて、この御言葉を伝えている姿のように、私は感じます。

B“道”問答
さて、ヨハネ14章2〜4節で、イエスは 「・・・・・・あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます・・・・・・わたしの行く道はあなたがたも知っています。」 と言っています。
ところが5節で、トマスは 「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」 と聞き返します。

C道とその先
それで6節、イエスは 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 と言われました。
それは永遠のいのちを得るための主の道であり、真実の道であり、天の御国へ至るいのちへの道なのです。

Dいこいの泉チャペルへ来る道
教会に初めて来る方から 「栃木いこいの泉チャペルへ行く道を教えて下さい」 という電話をしばしば受けます。わかり易く説明したつもりでも、間違って通り過ぎ、迷ってしまう場合がありました。
それで、私は駅まで必ず迎えに行く事にしています。
私が一緒にいて道案内をしますと、安心でしょうし、間違わずに到着致します。

E父のみもとに来る道
イエスは 「私を信じなさい。」 と言われています。
私(イエス)が行く場所も分かります。
なぜなら私はその道そのものだからと言っておられるのです。
主(イエス)が用意した場所に行くには、イエス様という福音の列車に乗ればいいのです。
それは自分の判断の至らなさから、罪のためにボロボロになった人生、罪の奴隷になって負け続けている人生から、キリストの内に新しく生まれる人生、力ある勝利の人生、道であるイエス・キリストと共に歩む人生を選び取る事なのです。

F世の人の求め
世の人はさまざまな道を求めますが、私もそうでした。
夜中まで働き続けました。
そしてトップセールスマンになりました。
けれども、得たものは自殺という死への道でした。
40年間も教会に参加しながら、神と共に生きる道の素晴らしさに気付きませんでした。
だから、かえって私と神との間にある自分自身の罪という大きな溝を発見したのです。

Gイエスこそキリスト
私はその時、 「主よ。助けて下さい」 とすがり続けました。
その時イエスは 「私こそが救いの道だ」 と言われました。
それは、私自身の罪を赦すために、私に代わって十字架に架かり、死んで下さった。
そして神が、御前に新たによみがえらせて下さった事によって、新しく清い者として、明るい人生へと導かれるのだと信じています。(ローマ10章9節参照)
「イエスが道」 そのものなのです。
ヨハネ14章2〜6節







2009/01/25 23:56:44|先週の礼拝から
己が日を覚えて
寺門松雄師のお話から

1)自己紹介
私は大正12年生まれの86歳です。
人生100年と致しましても、神はあと何年生かして下さって、神の御用ができるかと思いながら、今日もこの講壇に立たせていただいております。
また、先に召された妻に日常の事を報告しておりますが、自分の生死だけは、神に任せる以外にございません。
ただ自分の時間は出来る限り神に使っていただきたいと願っています。

2)結核発病、信仰、伝道と牧会、引退、ギデオン
振り返って見ますと、私は戦後昭和20年、結核にかかり療養することになりましたが、伝染(感染)するので家に入れてもらえず、親子の絆の薄さを感じました。
それでも母親は、初めて教会に連れて行ってくれました(菊地牧師)。
信仰を持ち、伝道者の召しを受けて、茨城キリスト教短期大学で学び、卒業すると同時に、静岡県大井川教会に任命を受けて牧師になりました。
そこで30年伝道いたしましたが、妻が召され、その間いろいろ苦労がありました。
茨城県のキリストの教会という単立の団体に移り、16年間伝道し、その間60人程の方に洗礼を授けるという恵みも経験しました。
今は、牧師をリタイヤして、息子のいる小山市の病院に戻り、現在に至っておりますが、芳賀先生との出会いでギデオン協会に入り、この年になって再び宣教の業に参加させていただいております。

3)伝道の形
私はつね日頃、伝道というものは、何時でも、何処ででも、どんな形ででも、行なわなければならないと思っています。
だから、み言葉という命のパンを以って交わり、恵みを通して伝道するものだと思っています。
御教会のような形態が良いのではないでしょうか。

4)摂理の中を歩む
さて、今日のテキスト、詩篇90篇によると、モーセは神の人と呼ばれていますが、出エジプト記6章30節によると、彼も人間ですから、自分には出来ないと神の召命から逃げ出そうとします。
しかし、神に捕らえられます。クリスチャンも神に捕らえられた者です。

人生のはかなさ
モーセの逃げたい思いが90篇から滲み出しておりまして、3〜9節で、人生のはかなさをたとえて 「人の死は神によって定められる」 という事を言います。そして10節〜12節で、私たちの残されたわずかな年月をどのように過ごすか、何を考えるか、課題になるのです。それは年を重ねた者だけではなく若い人も同じで、いつ命を取られるか分からないからです。明日がないかもしれない、だから(人の)好き嫌いを止め、情熱を込めて隣の人を愛し、熱心に交わりをし、今を大切にして人間関係を深めるのです。

神の知恵
12節の「自分の日を正しく数える」とは何でしょうか。
どうして生まれてきたのか、何故ここにいるのか、何故日本人なのか、何故貧しいのか、自己存在理由とあるべき生き方の問題です。
それは神が教えてくれる知恵(摂理)なのです。そこでは天国へ行くための知恵を教えられるのです。

天国の門・希望の門
私は、ときおり小山市の聖地公園に行きます。
墓地は死の象徴で絶望のようですが、イエスを信じるクリスチャンにとっては、天国への希望があるというあかしなのです。
肉体の死や墓地は、悲しみでなく、天国の門、開かれた希望の門のようです。
信仰は天国への約束なのです。
いつかは死にますが、死は終わりではなく、むしろ喜びなのです。この望みがあるのがキリスト教信仰なのだよと教えているのです。
その信仰が足りなくても、神は助けて補って下さいます。

互いの愛と交わり
その意味でクリスチャンの生活で最も大切なのは、互いの愛を基礎とした祈りの交わりなのです。
教会の方と交わるのです。
隣人、隣に座る人と交わるのです。
それによって自分の人生を正しく数える事が出来、天国の準備が出来るのです。
使命
この事を伝えることが私の使命ですから、このような教会に参加させてくださった事に感謝しているのです。
詩篇90篇12節







2009/01/19 7:48:23|先週の礼拝から
玉蓮よ、日本に行きなさい
ソル玉蓮師のお話から

1)挨拶と自己紹介
私は韓国から参りましたソル玉蓮という婦人宣教師です。
1933年、韓国の忠清南道公州郡生まれの75歳です。
今、ローマ8章26節、 「御霊も同じようにして弱い私たちを助けて下さいます。私たちはどのように祈ったらよいか分からないのですが、ご自身が言いようもない深いうめきによって私たちのためにとりなしてくださいます。」 という御言葉で励まされています。

2)日本軍の暴挙
1940年、第二次大戦の時、朝鮮半島を征服していた日本軍は、 「内鮮一体政策」 によって韓国を植民地化し、日本に併合しようとしました。
それで、私たち小中学校生にハングル語を禁じ、日本語だけを教えるという暴挙をやりました。
至る所で神社礼拝を強要し、日本語を強制し、学校を建てて教育しました。
そのために私の年代だけは日本語が話せます。
だから私は、特殊な世代の韓国人なのです。
この日本語が出来るという能力を神に献げた結果、後年 「玉蓮よ、あなたは日本に行きなさい」 という聖霊による重荷が与えられる事につながっていくのです。

3)ガンとの闘いと神の導き
40歳を過ぎた頃、私に末期の子宮ガンが見つかりました。
祈祷院で、牧師先生に40日間の断食を命じられ、出来ないと思いつつ癒されたいと祈り、断食5日目に
「あなたには許す心がありません。
人を許しますか。
イエスは、あなたのためにこの世に来て、十字架に架かったのです。
あなたの意思でなく、私が導くので安らかでありなさい。」 と導かれました。
私玉蓮は、腹の底から悔改め、泣き続けました。
死という問題にぶつかり、聖霊の助けによって、少しずつ死の恐れが取り除かれました。

4)子宮ガンからの帰還
5日目から水が飲めるようになり大変な病との闘いの中、10日目から真っ黒な血がどんどん出て、やがて自分の体の中に闇のように巣食っていたサタンの働きが力を失い、許された喜び、嬉しくてたまりません。
「主よ、私は死んで生まれ変わりました。
あとのいのちはあなたのものです。どうぞ主のために遣わしてください。従います。」 と祈りました。

5)自分の姿を見る
この時季に、本当に生きておられる主を体験したことのない、弱く力のない、形だけのクリスチャンという自分の姿が見えました。
私は主より世を愛し、主より夫や子供またお金を愛し、自分を最も愛し、自分で実を結ぼうと努力し、自分で自分につまづいていたのでした。

6)ガンの癒しと世界宣教への導き
こうして肉の欲が去り、自己から開放され、Tヨハネ4章18節を確信し、そして水が飲めて、40日の断食が終わる頃は、復活の朝のようでした。
7年目に全くガンは癒されました。
断食が終わる頃から、 「あなたの35年間の苦しみは、世界宣教のためです」という計画を知り、日本に遣わされる事が神の御旨かと感じながら、 「神様、私は日本が好きではありませんし、力もなく無力な事を知っています。」 と訴えました。

7)日本宣教への導き
その頃(1981年)、日本で大きな世界宣教大会が開かれました。
そこへ行くのが御旨かどうか知ろうと友人と徹夜の祈りをして、その終わりの日に姉妹たちと幻を見たのです。
それは日本宣教の幻でした。
当時、日本に行くのは難しかったのですが、金牧師がそれを許し、助けてくださり、日本に渡りました。

8)初めての伝道
成田に向かう電車の中でした。
私の未熟な日本語が不安でしたが、初めてキリストを伝えた時、言葉が伝わりました。
金牧師に 「先生、私の日本語が通じましたよ!」 と叫びました。
「そうですか、聖霊様が助けてくれましたか。やはりあなたは日本のために召されているのですね」 と言われたのです。

9)終わりに
こうした不思議な導きによって、今、ここに立って証しさせていただいているのであります。
今でも慰められています。
そういう訳で私は、 「日本にリバイバル(信仰復興)が起りますように」 と祈る者です。
感謝いたします。           ローマ8章26節。      文責 H&K