1)神の創造世界 新約聖書にはイエス・キリストの、この世における生涯を記した福音書が、四つあります。 これ等の福音書を一言では表現できませんが、 「宇宙のような広がりをもつ人類の救いの知らせ」 だと、私は感じているのです。 人間には、この宇宙の果てを知り得ませんが、宇宙を創造した神様だけが御存知です。 聖書は 「天地は亡びます。しかし私のことばは決して亡びない」 (マタイ24章35節)と伝えています。 神のことばは永遠に生きるということです。
2)イエスの例え―「失われた者」 ルカ15章を見ると、イエスは四つ (いなくなった一匹の羊、紛失した一枚の銀貨、帰ってきた放蕩息子、弟を赦せない兄) の例えによって 「失われた者」 を説明しています。 それは持ち主(愛の神)の手から離れてしまった状態で、本来いるべき所にいない人間の姿を指しています。 その話のうち 「弟を赦せない兄」 の話を除く三つは、失われていたが、所有者の手に戻って、所有者は大変喜んだという結びです。
3)放蕩息子の気付き その中で放蕩息子の話(ルカ15章11節〜)について、内容を確認しましょう。 彼は先ず、自分のみじめであわれな姿に気付き、同時に父の所の豊かさを思い出すのです。「我に返った」のです。 親からもらった財産を使い果たし、どん底に落ちた彼は、飢え、渇き、不平不満だらけで、不安でみじめな自分の心を見て、平安があった父との生活をふと思い出せたのでしょう。
4)放蕩息子の悔改め 彼はプライドを捨てて父の所に帰ろうとします。 しかし、父に自分のみじめな状態を見せ、謝罪しなければなりません。 それまで自分は悪くないと思っていたが、 「ごめんなさい」 と悔い改めたのです。 自分の判断による人生破綻を悔いて、雇い人の立場で、父の保護にあずかろうと決心したのです。 父の家に戻っていくと、父は無条件で、息子として迎えいれ、肥えた子牛をほふってまで、喜んで下さいました。 主は、十字架に架けられるほどに、私たちの帰りを待っておられるからです。ここに神の愛による赦しがあります。
5)ザーカイさんの救い ルカ19章9〜10節、取税人ザーカイさんが、悔改めて救われた時、イエス様が 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 と言われました。 つまりイエス様は、宇宙を創造した神の御支配から失われて(離れて)いる人々を、救う(一緒に生きる)ために、クリスマスの夜、地上に誕生されました。
6)他人事ではない 人間は本当にガンコですね。 あの弟息子のように、挫折を経験しなければ、幸せを発見できないのです。メンツもプライドも何もかも、かなぐり捨てて 「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」 と言うほどに苦悩しなければ、悔改めたくない人が多いのです。 イエス様は、私たちの罪のために、十字架を負いました。その十字架は、御自身のメンツつぶしの極限の姿なのです。
6)御使い達の喜び イエス様は、紛失した一枚の銀貨が見つかった話のあとに 「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15章10節)と言われました。 いつも待っていて下さる神のもとに帰り、本当の幸せを発見していただきたいのです。 ルカ15章17〜24節 |