小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/03/30 9:38:47|先週の礼拝から
我に返ったとき
1)神の創造世界
新約聖書にはイエス・キリストの、この世における生涯を記した福音書が、四つあります。
これ等の福音書を一言では表現できませんが、 「宇宙のような広がりをもつ人類の救いの知らせ」 だと、私は感じているのです。
人間には、この宇宙の果てを知り得ませんが、宇宙を創造した神様だけが御存知です。
聖書は 「天地は亡びます。しかし私のことばは決して亡びない」 (マタイ24章35節)と伝えています。
神のことばは永遠に生きるということです。

2)イエスの例え―「失われた者」
ルカ15章を見ると、イエスは四つ (いなくなった一匹の羊、紛失した一枚の銀貨、帰ってきた放蕩息子、弟を赦せない兄) の例えによって 「失われた者」 を説明しています。
それは持ち主(愛の神)の手から離れてしまった状態で、本来いるべき所にいない人間の姿を指しています。
その話のうち 「弟を赦せない兄」 の話を除く三つは、失われていたが、所有者の手に戻って、所有者は大変喜んだという結びです。

3)放蕩息子の気付き
その中で放蕩息子の話(ルカ15章11節〜)について、内容を確認しましょう。
彼は先ず、自分のみじめであわれな姿に気付き、同時に父の所の豊かさを思い出すのです。「我に返った」のです。
親からもらった財産を使い果たし、どん底に落ちた彼は、飢え、渇き、不平不満だらけで、不安でみじめな自分の心を見て、平安があった父との生活をふと思い出せたのでしょう。

4)放蕩息子の悔改め
彼はプライドを捨てて父の所に帰ろうとします。
しかし、父に自分のみじめな状態を見せ、謝罪しなければなりません。
それまで自分は悪くないと思っていたが、 「ごめんなさい」 と悔い改めたのです。
自分の判断による人生破綻を悔いて、雇い人の立場で、父の保護にあずかろうと決心したのです。
父の家に戻っていくと、父は無条件で、息子として迎えいれ、肥えた子牛をほふってまで、喜んで下さいました。
主は、十字架に架けられるほどに、私たちの帰りを待っておられるからです。ここに神の愛による赦しがあります。

5)ザーカイさんの救い
ルカ19章9〜10節、取税人ザーカイさんが、悔改めて救われた時、イエス様が 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」 と言われました。
つまりイエス様は、宇宙を創造した神の御支配から失われて(離れて)いる人々を、救う(一緒に生きる)ために、クリスマスの夜、地上に誕生されました。

6)他人事ではない
人間は本当にガンコですね。
あの弟息子のように、挫折を経験しなければ、幸せを発見できないのです。メンツもプライドも何もかも、かなぐり捨てて 「あなたの息子と呼ばれる資格はありません」 と言うほどに苦悩しなければ、悔改めたくない人が多いのです。
イエス様は、私たちの罪のために、十字架を負いました。その十字架は、御自身のメンツつぶしの極限の姿なのです。

6)御使い達の喜び
イエス様は、紛失した一枚の銀貨が見つかった話のあとに 「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15章10節)と言われました。
いつも待っていて下さる神のもとに帰り、本当の幸せを発見していただきたいのです。
ルカ15章17〜24節







2009/03/23 8:32:50|先週の礼拝から
絶望から復活へ
1) 記念会礼拝の挨拶
今日は、春子姉の一年目の記念会礼拝です。
私の身内も礼拝に出席しており、教会のメッセージを聞かれるのは初めてでございますが、どうか、これが最初で最後になりませんように希望しており、祈ります。

2)信仰の初めから
私が今、献身者としてここに立っているのは、芳賀春子という女性との出会いがあったればこそでした。
春子姉は、イエス・キリストの信仰を持っていたからです。
私は、昭和39年に姉と結婚出来ましたが、それは彼女が、牧師の 「この男はあとで神のお役に立つ人になるかもしれないから」 という一言を信じたからだという事を、後に聞いています。
彼女にとっても、多くの困難がありましたが、ついに月足らずのような私をも、救いに導いたのです。
私は、一年前に天に召された妻によって、この天地、宇宙を創造した神と出会い、献身の道を歩ませていただいているのです。

3)自己破産という穴ぼこから恵みを
そういう訳で、フルタイムの伝道者として献身する過程をお話しして、記念会礼拝のメッセージに代えたいと思います。
私は、昭和36年以来46年間、一貫して日立の営業マンとして勤めてまいりました。
その間、売上高日本一を3回連続で経験いたしました。
ところが、昭和63年、私が担当する顧客によって、会社が巨額の不良債権をこうむりました。
挫折と苦しみの中で絶望し、死を願いながら死ねず、会社に対して責任を果たすために、自己破産をして返済資金を捻出しました。
それは、名誉、地位(営業部長)、私財(家・屋敷)、退職金まで失い、家族がバラバラになり、失うものはもう無いというところまで、追い詰められることでした。
神が私のために掘ってくれた大きな穴ぼこで、その穴に落ちた私は、セールス時代に犯した大きな過ち(談合、贈賄、脱税)を、思い起させられたのです。
「売上高日本一」 は、ルール違反の結果であって、私の能力や勤勉さを示したものでは無かったのです。
こうして、繰り返し聞かされた十字架の話は、私の罪が赦されるための 「神の恵み」 であったと気付き、イエス・キリストによって現された十字架の愛の中へ、救われたのであります。

4) 「同じようにしなさい」 という言葉
Tコリント6章20節に、 「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。」 という言葉があります。
私は、この言葉を通して、献身を求められている事を感じておりました。
また、ルカ10章36節に次のような言葉があります。
「良きサマリヤ人」 と呼ばれている記事ですが、イエスは 「この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」 とたずね、律法学者が 「その人にあわれみをかけてやった人です。」 と答えます。
するとイエスは 「あなたも行って同じようにしなさい。」 と言われたのです。
これは、イエスが律法学者の一人に、愛を教えられた言葉です。
献身について迷っていた私に、このみことばによって、伝道者へと押し出して下さり、改めて十字架の真理を示して下さったのです。
それまでの私の献身は、亡び行く人々の隣人となって仕えるという、最も大切な愛の動機を欠いておりました。
そんな中で私は遅まきながら、残る人生を、主の御用のために捧げたいという願いが生まれ、老いの身を捧げる時がきたとの、確信を得たのであります。
こうして、福音宣教という働きを私の使命として受け取りました。

5)新しい勤め
今、良きサマリヤ人の如くに、日々神の愛に押し出されて、捧げて奉仕する者でありたいのです。
主の恵みが、皆様の上に臨んで下さいますように。
Uコリント4章8〜9節







2009/03/16 12:57:17|先週の礼拝から
生きて働く信仰
寺門松雄師の お話から

1)健やかであっても八十年詩篇90扁10節に 「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。」 とある。
このみことばによると、私は86歳ですから80年の生涯はすでにクリアしてしまっています。
従って私の人生はほとんど無いに等しいのに、生かされています。
だから、今日か明日か、いつ命をとられるのかわかりません。

2)自分の日を数える
続く12節では 「自分の日を正しく数えることを教えてください。」 と祈ります。
その日を自分勝手に生きるのではなくて、自分の日を正しく数えることを教えてくださいと祈っています。
つまり神が望むような生き方が、あとどのくらい残っているのかを祈るのが信仰によるのです。
それは神様に任せて生きるという事であり、また毎週の礼拝等の教会生活や交わりの中から、希望と力が与えられ、生まれるのです。

3)教え続けて頂いた信仰
私は、残された日を無駄に過ごしたくないのです。
戦争と病気で障害者になってしまい、親を恨むような状況に陥りました。
だが、そうではなく、私の体に障害を与えてまでも教え続けて頂いたのは、信仰という事でした。
それが私の信仰の成長につながりました。

4)人間関係の基本
さてピレモン6節の中に 「私たちの間でキリストのためになされているすべての良い行ない」 とあります。
私たちの間、即ち、その人間関係の基本は、夫婦の関係が中心だと思っています。
それは聖書のみことばによって結婚し、お互いがみことばに従って行くので、夫婦関係がよくなり子供も成長していく、私たちの間の基本だからです。

5)良い行いとは何か
さて、 「キリストのためになされる良い行い」 とは何でしょうか。パウロは自分の事をキリストの囚人と言っています。
私たちの場合はどうだろうか。
@みことばの提供
私の弟は信仰を持ってから刑務所の教誨師になりました。
囚人には、悪も良もいろいろいます。
囚人達をよく助け導いて、キリストのために良い行いをしたと思います。
同じ様に、魂に悩み苦しんでいる人に、魂に飢え乾く渇く人に、聖書の言葉を提供し人を喜ばす事も良い行いです。
障害者である自分も、これが一番の慰め、一番の喜びでした。
Aとりなしの祈り
兄弟のために、友人のために、救われるように祈る事が大切です。
ある時、祈っている友に 「あなたの持っている聖書を見せて下さい。」 と言って開いたのが、詩篇90篇だったのです。
それがきっかけで 「慰められた」 と言っていただけました。
B知識でなく信仰
私の友人で神学校を卒業した方がいたしましたが、その方は、頭の(知識の)信仰でした。
だから、なかなか人に聞いてもらえませんでした。
つまり、6節 「あなたの信仰の交わりが、生きて働く」 というのです。
交わりの中で、言葉だけで愛を語っても、行動が伴わないと偽善になってしまいます。
そのためには、具体的にあかしする事が大切です。
そうする事により、教会生活が豊かになり、幸福感がふくらんでくるのです。
C日本人の好みと応え方
日本人の未信者は、詩篇や箴言を教訓のように好みます。
だから、それに応えるように、知人友人に手紙を出したり交わったりする、今の時間を大切にして生きる、これも大切です。

6)私たちの希望
みことばを読んでいると、死は終わりではなく天国の門です。だから死は怖くないのです。死は希望に変わるからです。            ピレモン1〜6節           文責 H&K







2009/03/08 19:42:44|先週の礼拝から
主は生きておられる
坂本秀男氏のお話から

1)差別を受ける環境
えた、非人、部落民という差別を受ける環境の中に、私は生まれました。
現在はこれを同和と呼んでいますが、自分が同和であることを、高校生になるまで知らずに生活しておりました。

2)環境に伴う悲劇
それを知った時、自分が何故、同和で生まれてしまったのか、強く反発致しました。
そうして、私が高校2年の時に、実兄を自殺で失いました。
同和の人たちは、この様な悲劇的な生き方を何故しなければならないのかを、教えられませんでした。
私は、差別を受けた時にようやく分かるような始末で、北海道に家出をしてしまいます。
苦悩した末に、再び実家に戻り、6歳年上の女性と結婚しました。
しかし、女性の父親から、目の前で部落民と呼ばれた末の、かけおち結婚でした。

3) 暗闇の人生
前述の差別呼ばわりによって、心の傷を深く経験し、暗闇の人生が始まったのです。
父の事業を受け継いだ後の私は、賭博と女に明け暮れ、いつも300万円ほどの現金を持ち歩き、父の資産を売って得た2億円を使い果たすという生活へと入って行くのでした。
夜になると、毎日ルーレットに明け暮れました。
お金の価値感覚も麻痺し、一日の博打代が数百万円へと膨れ上りましたが、違和感がありませんでした。
確かにルーレットをやっている間は、何もかも忘れ没頭できました。
しかし、一晩中、夢中になって最後は一文無しになり、空しさだけが残るという毎日でした。

4)人生の嵐
こうした生活をして、気が付いたことが1つありました。
それはこの世の中で、自分にも分からない様な、何か大きな力が、働いているのではないかと感じたのです。
その頃、自分の会社が不渡り手形を2回出してしまったのです。つまり両目つぶれの倒産でした。一文なしになり、銀行取引が停止されたので、私は事業を破産させて家を出る事にしました。
それで妻から離婚されました。

5) 一人の女性
こうして後、韓国クラブに通っていた時に、一人の女性と出会い、教会に誘われました。
決して良い信徒ではありませんでした。
また、その時の生活を支えたのは、その女性でした。(のちに結婚する女性)

6)深く心に臨まれた方
そんな私の心に、神のことばが深く臨まれました。
それは、車中での出来事で、ヘブル11章3節、 「・・・・・・この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。」 であり、博打生活の頃からの、私の存在を不思議な形で思い浮かべながら、私を覆う巨大な神の業と、恵みとを、この目で見たように思いました。
私の存在より大切なものがあることに気付いたのです。今思えば少しおかしい言葉ですが、 「自分のいのちをあなたにささげます。誰にも負けない日本一のクリスチャンになりたい」 と告白していたのです。
神が私に語りかけているみことばによって、あの博打の罪を悔い、自分の人生を見つめ直したのでした。

7)新しい生活
今では、妻、子、私の三名は、朝に夕に、 「私たちの神である主は、生きておられます」 と唱和する生活をしております。  「主は生きておられる。ほむべきかな。わが岩。あがむべきかな。わが救いの岩なる神。」  Uサムエル22章47節                     文責 H&K







2009/03/03 17:02:20|先週の礼拝から
私はいのちです
1)テーマと言葉の意味
今日は、 「いのち」 というテーマです。 「十字架の愛と復活」 を信じる者に、人間本来の“いのち”を回復させて、その人の人間性を新しくして下さるという事が、今日の要点です。
そして、聖書が述べる“いのち”とは、一般的な“命”ではなく、聖霊によって本来の霊的いのちを回復した状態を指す場合がほとんどを占めています。

2)私の経験から
御存知のように、私は仕事に失敗し、自殺しそこなった男です。
北海道を飛び立ったあの飛行機の中で、生きる力をまったく失ったまま、 「44C」 と印字された座席番号を眺め、この飛行機が墜落すればよいと願っていた者です。
東京上空に近づいた頃、機長のアナウンスがながれ、 「私は、今回のフライトが最後になります。ご搭乗ありがとうございました」 と聞いたとき、無事故という機長の満たされた思いを感じました。
私の願いは、機長に失礼だったと感じ、 「私も生きたい」 と思いながら、生きる支えがないままでした。
仕事の業績を上げ、上司を喜ばせる事に全力を費やした結果でしたが、その労苦には生きるいのちが無かったのです。

3)ある大学生の答え
ある大学生に、人生のゴールは何かという質問をしたところ、しばらく考えたて 「墓場です」 と答えたそうです。ニヤッとしながら、墓に葬られるために日夜働き努力している事になると答えたそうです。
おそらく、人生のゴールを考えた事が無かったので、思い当たるままに答えたのでしょう。

4)イエスの地上の生活は
さて、イエスの地上における生活を要約すると、弱い人々を助け、苦しむ人々を慰め、人々に侮辱される十字架で死ぬ事が目標でした。
但しその死は、マルコ10章45節、 「自分のいのちを与えるため」 でした。
私があの時死ねば、今の自分がいない。
今、生きているのは、神によるいのちの中に生きているということが分かります。
今、十字架で現された神の愛が、私の内に芽生え、ゆっくり成長するのに気付きます。
神のいのちにあずかる道で、人生のゴールへと導かれつつあると思えるのです。

5)イエスのたとえ
ルカ10章25節の 「良きサマリヤ人」 のたとえをみると、まことのいのちを得る方法を、一見わかり易く、隣人に対して愛を実行する事だと言い、28節 「そうすれば、いのちを得ます。」 と保証しています。
そこにいた律法の専門家は、実行(行動)できないようでした。
しかし、十字架上の彼を思い起し、自分の罪を贖う子羊として受け入れる人にとって、よみがえりのイエス(神)が、永続する愛、まことのいのち、神の恵みとして、成長して下さるので、やがて行動に現れてくるのです。

6)パウロとヨハネの手紙から
パウロは、エペソ2章1節で 「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者」 と、いのちの無い(病んだ)状態を表現し、ヨハネは、Tヨハネ4章9節で 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。」 と、いのちを得た状態を表現しています。

7)永遠のいのち
ヨハネ3章16節は  「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」 と述べています。
このいのちは永遠の神から与えられる恵みですから、永遠の世界で生き続けるのです。
イエス様は、ヨハネ6章40節、 「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人達をひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」 と約束してくださいました。
ヨハネ14章6節