小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2009/05/16 9:14:40|先週の礼拝から
最初の奇跡
万年諭先生のお話から

1)分からない
たまたま先週の久保先生と同じ聖書箇所を選んでしまいました。
憐れみをいただきながら共に学んでみましょう。
この箇所はイエスの最初の奇跡ですが、何故この奇跡を行なったのでしょうか。
それは、私にはわからないということです。何故この町を選び、この婚礼を選び、また水をぶどう酒に変えたのか、私たちの理解を超えたことをなさいました。
私の人生も数限りなく、何で、何での連続です。考えても考えても分かりません。
しかし、納得いかなかったとしても、あなたは私の主であり神(ヨハネ20章28節)です。

2)神の計画
次にこの奇跡を起して一番嬉しく、また一番感動したのは誰でしょうか。それはここには出席しない、またこの奇跡を覚えておられた父なる神様なのではないでしょうか。
喜んだのはここに出席していた人でもなく、手伝いの人でもないのです。
何故ならイエスは、全ての人の罪を、十字架にかかって贖うために死んで、三日目によみがえり、救い主として来られる神の子キリストなのだという証しとしての、最初の奇跡を行なったのです。
父なる神の計画は、一人子イエスを、この地上に、人として遣わし、贖い主としての生涯をスタートさせる事なのです。

3)神様の喜び
父なる神様がこの奇跡を喜んだ理由は、私たちとの関係を回復する第一歩だったからなのです。
どうやっても人は神様に近づく事ができなかったのに、イエス様が十字架の新しい道を設けて下さいましたが、その為の最初の公生涯の奇跡だったから、神が一番嬉しかったのです。
主の公生涯は、苦しみと悲しみ、十字架の死があるけれども、私たちと1つとなって生きるために、神が設けられた道なのです。神様の喜びは、私たちと和解をすることなのです。

4)幸いな人々
神と人との和解の時が、一人子イエスによって、間もなく訪れる最初の奇跡でした。
この奇跡を行ったイエス様を 「私の主、私の神」 として、信じて歩む人々は何と幸いな事でしょう。
ハレルヤ。       ヨハネ2章1〜11節 
  文責 H&K








2009/05/12 16:32:53|先週の礼拝から
初めの一歩
久保昌子先生のお話から ヨハネ2章1〜11節

1)訪問と結婚祝いの挨拶
今回で2度目の訪問です。昨日の芳賀功さん富子さんの結婚式は本当に祝福のうちに終わった事に感謝いたします。

2)概要
さて、何故 「初めの一歩」 かというと二つです。
一つ目は、イエスにとって最初の公けの奉仕だった事です。二つ目は、昨日の結婚式をスタートとすると、今朝が最初の礼拝でございます。
さて、ヨハネ2章の婚礼の記事で、2節に 「イエスも、また弟子たちも」 とある。その弟子達とは、アンデレとヨハネ、ピリポとナタナエルとペテロ計5人です。
婚礼の途中で、イエスの母マリヤは、 「ぶどう酒がありません」 とイエスに言います。
婚礼の客のもてなしをするのにぶどう酒がないのは、招待者にとって大ピンチですが、人生のうち、自分ではどうしようもない時こそ、神様の出番です。

3)不思議の実現
ところが、イエスは4節 「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」 と言われます。一見冷たいように見えますが、 「この問題は私に任せていただけませんか」 という意味なのです。
また、 「わたしの時はまだ来ていません。」 とも言われました。
このわたしの時とは、ヨハネ7章6、8節にも使われております。
この言葉は、人類の罪を一身に背負って十字架でいのちを捨て、贖いを完成する時を指しています。
その時は未だ来ていないと言われたのです。
否定的な言葉にもかかわらずマリヤは、 「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」 と手伝いの人達に言います。徹底した信頼です。
それでイエスは、 「水がめに水を満たしなさい」 と言い、 「今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい」 と言われたのです。
彼らは水を汲み、水がめの水を世話役のところへ持って行ったのですが、どうしてこんな行動をとれたのでしょうか。
マリヤの指示に従ったとも考えられますが、水がめは客人の足や身体を洗う水を貯めて置くためのものでしたし、先ほど汲んだのは確かに水でした。
イエス先生の指示通り、自分の判断を加えずに忠実に従ったのでした。こうして、良いぶどう酒が提供され、招待者の大恥じ(大ピンチ)は、イエスによって栄誉(チャンス)に代わり、弟子達の信仰は強められたのです。
イエスの栄光が現れたのです。

4)初めの一歩
この事に象徴的意味があるという。水がぶどう酒に変わったのは、 「新しい時代の幕開け、細かい決まりごとを行う時代から神の恵みに生きる時代へ、良い子を演じる背伸びの生活からありのまま生きる生活へ、律法の時代から内面的・生命的時代へと変わった」 という事の象徴だというのです。
イエス様が、メシア的働きをする 「初めの一歩」 なのです。
弟子達はこの事を目の当たりにして、イエスは神の子・キリストだということを信じたのです。
詩篇104篇15節に 「人の心を喜ばせるぶどう酒」 という言葉があります。
イエスの十字架の血によって、全ての人が新しく霊的いのちと力を与えられるのです。
イエス様の多くの奇跡の中で、最初の奇跡は、結婚を祝う場の人々の喜びのために奉仕する事でした。
イエスの信仰は喜びの信仰です。
11節、 「イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行ない、ご自分の栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた」 のです。
今日は、富子さんが加えられた栃木いこいの泉チャーチとして 「初めの一歩」 です。
御教会が神の栄光を発信する教会でありますようにお祈り申し上げます。       文責 H&K







2009/04/24 14:10:12|先週の礼拝から
恵みに応えて生きる
1)イースターの挨拶
今年もイースターを迎えることが出来て感謝でございます。
私はよみがえったイエスと共に生き、その恵みに応えて生きるということを覚えながら、今、ここに立っています。

2)感涙のメッセージ
皆さん。
聖書の中には、よみがえりの記事がたくさんありますが、あなたにとって、自分の人生に最も影響を与えている記事は、何処だと思いますか。
私の経験を思い返しますと、ヨハネ20章23節、 「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。」 です。
ここは、マタイ9章2節 「・・・・・・汝の罪赦されたり」 (文語訳)と重なり、私にとって感涙のメッセージになるのです。

3)弟子たちの恐怖と怯え
ヨハネ20章19節に、 「ユダヤ人を恐れて戸がしめてあった」 (新共同訳では、鍵をかけて)とあります。
弟子達は、イエスを拘束して訴え、激しく 「十字架につけろ」 と叫び続けて、叫びによってピラトに勝ったユダヤ人たちから逃れようと、恐怖の中にいたのです。同時にイエス様を、ユダヤ人たちよりも怖いお方として、怯えていたであろうと思います。
ヨハネ20章8節、イエスの墓は空っぽでした。
そして、ヨハネ20章18節、よみがえったという情報が、女達から入っていました。
でも彼らは女達の言葉を信用しなかったのです。
彼らには、マルコ14章31節、 「ペテロは力を込めて言い張った。 「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」 みなの者もそう言った。」 という自分達の大言壮語を、つい先程のように思い出せるのです。
“自分達はイエス様を裏切って、今ここにいる”という現実を突きつけられていたからです。
ペテロは、イエス様が警告して下さったのに、しかも、イエス様が尋問を受けているのに 「私はあの人を知りません」 と三度も言ったのだ。
あのゲッセマネで、イエス様が祭司長達から差し向けられた群衆に抵抗せず、拘束されるままにされたとき、マルコ14章50節「すると皆(弟子達)がイエスを見捨てて逃げた」のでした。これが罪ある人間の現実の姿です。
だから怯えたのです。弟子達にとって、十字架の死は底知れない絶望だったのです。

4)再会のイエス
再び、ヨハネ20章19節、戸がしめてあったのに、イエスが彼らの中に立って 「平安があなたがたにあるように。」 と言われました。

5)愛と赦しの主
次の20節、 「弟子たちは、主を見て喜んだ。」 のです。
何故喜んだのでしょう。それは 「私だよ、安心しなさい」 と言ったかのようにして、裏切りの罪も全て赦してくださったからです。
弟子達がお会いしたイエスは、復活の主であり愛と赦しの主なのです。
そしてヨハネ20章22節、 「聖霊を受けなさい。誰かの罪を赦すなら、その人の罪は赦されます。」 と言っています。
このような大きな罪を犯しても、尚かつ大きな恵みをいただいたのだから、 「その恵み(ご恩寵)に応えて生きる者にさせてください。」 と祈るばかりです。
ヨハネ20章19〜23節







2009/04/19 6:25:51|先週の礼拝から
一粒の麦
寺門松雄師のお話から

1)礼拝で考える事
皆さんにとって礼拝とは、どんな意味を持っていますか。
クリスチャンの原点でありますこの礼拝は、この世と一切遮断する事です。
そこで考える事は“死”についてです。
一般的な日本人にとって考えたくない事です。
それは言葉にとらわれ易いからです。

2)あなたの隣人を愛しなさい
キリスト教はみ言葉による信仰です。
私は教育主事をやってきましたが、学校の先生に一番読んでもらいたいものに聖書があります。
「あなたの隣人を愛しなさい」と言えば、反対する人はいません。
ですから私たちクリスチャンは、この世に出て行き、み言葉を自由に使って、多くの人に伝えるのです。
それによって、恵みも祝福も大きくなるのです。
それを小さな短冊に書いて人に贈れば、これで伝道になるのです。

3)墓に行っても楽しい
教会に来て、一番の恵みは、聖書が読めることです。
聖書を読んで、“死”を乗り越える事が出きるという事です。
人は誰でも全て死ぬからです。
そして、天国に行けるような死に方、これが必要です。
教会に来たら“死”に対する問題の解決が出来るのです。
ですから信仰を持つ事によって希望が生まれ、墓に行っても楽しいのです。
これは信仰によって人生をあきらめるのではなく、“死”を乗り越えていく事の現われです。

4)豊かな実を結ぶ可能性
ヨハネ12章23節を見ると 「人の子が栄光を受けるその時が来ました。」 と言っています。
栄光の中身は何でしょうか。それは神の御旨に従い、十字架に向かっていくことですが、イエスはそれを直接言わないで、次の24節、 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」 と言っています。
いったいこれは何のことを言っているのかと考え込むでしょう。しかし、教会に来て、礼拝に出て信仰を持つことによって、少しずつ分かってくるのです。

5)大切な事
さて、この麦とはクリスチャン一人一人ですが、そのまま何もしなければ実を結ばないというのです。
それは霊的でも直接でも死ななければ実を結ばないということです。
あなたは死んでいますか。
ここが信仰の一番大切なところで、あなた自身が信仰によって霊的に死んでいるかどうか、またそれによって実が結ぶかどうかにかかっているのです。
このように命がけの信仰がキリストに従っている姿です。
先ずイエスが言って実行しているように、伝道者自身もそのような姿になっていることです。
イエスは25節で、 「自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。」 と続けて語りました。
つまり、イエスに従おうとするならば自分を捨てるのです。(ルカ9章23節参照)

6)強くなって実を結ぶ
あなた方が強くなるためには、一粒の麦となって地に落ちて死ぬという信仰と覚悟が必要なのではないでしょうか。
世の教会の中には、自分だけを大切にし、自分だけを愛して、独りよがりの信仰のままでは、実を結ぶ事がないでしょう。
イエス様と共に生き、イエス様に従う事によって、復活のイエス様にお会いできるからです。
それが、“死”を乗り越え、信仰が希望に、神と人を愛する愛に、変わるのです。
ヨハネ12章23〜24節                文責 H&K







2009/04/06 9:51:24|先週の礼拝から
賛美の人生
1)不況でも 「賛美の人生」
今や、全世界だけではなく、こんな小さな町に至るまで、百年に一度と言われるような大恐慌に見舞われて、不景気風が吹いている時代で、私たちの小さな教会までも影響を受けています。
私たちクリスチャンも様々な痛みや嘆きに出会うのではないでしょうか。
このような中において、今日は 「賛美の人生」 ということで明るくいきたいと思います。

2)大伝道者パウロと災難
使徒16章16〜23節を見ると、歴史的大伝道者パウロと、そのお供をしていたシラスが、言いがかり的な災難に遭います。
占い師の女性が二人の後から付いて来て 「この人たちは、いと高き神のしもべたちで・・・・・・・」 と叫び続け、幾日もそうしていた。
困ったパウロが、占いの霊に 「この女から出て行け」 と言い、女性を占いの霊から開放したのです。
ところが、占い師の主人達は、女性が普通の女性になってしまったのを見て、パウロとシラスを捕らえ役人(長官)に訴えたのです。
こうしてパウロ達は、何度も鞭で打たれてから、重罪人のように牢に入れられました。
占い師の主人達にとって、占いで儲ける望みが無くなったとはいえ、パウロ達が鞭で打たれ、牢に入れられるような罪人なのでしょうか。
現代なら、罪人扱いされた立場の者にとっては、 「頭にきた」 というところでしょう。

3)牢獄内で賛美の歌
ところが25節 「真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると、ほかの囚人たちも聞き入っていた。」 というのです。
さすが信仰者パウロだと思います。
足には鎖をつながれ、寒さをこらえながら、想定外の事態の中でも、神だけを見上げつつ、心からほめたたえたのです。
どんな正しい事をしたとしても、パウロ達がこんな理不尽な裁きを受けた事で、始めたばかりの教会は恐怖に落とされたことでしょう。

4)看守達の疑問
一方、看守達は、こんな状況なのに歌など歌っていて、 「変わった人達だなぁ〜」 という思いと共に、 「何故なんだろう」 と不思議でした。
パウロ達にとって賛美は、普段の生活であり、習慣になっていたからであります。
ひいては、人間関係を良くし、友人が増え、究極的には幸せにつながるのではないでしょうか。
同時にそれは、パウロ達が占い師の主人達や役人を見つめず、反抗も反論さえもしないで、イエスの十字架と神を見上げ祈ったからでしょう。
ここがキリスト教信仰のポイントであります。
私達は主イエスを見るのです。
何も悪くないのにむち打たれ、つばをされ悪口を言われても絶対に反論せず、ただ十字架上のイエスを見上げており、 「彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 (ルカ23章34節)と言って進んでいったのです。

5)苦しい時の神頼み
何故ならパウロとシラスは、常に神をほめたたえ賛美の人生の中に生きていたからです。
教会の中に暗い事件ばかり起きたとしても、 「苦しい時の賛美頼み」 です。
明るく神をほめたたえる事によって、必ず祝福があるという事を覚え、経験させていただきましょう。
結局パウロとシラスは、その時とんでもない地震と、足かせが解けたことを経験し、看守の自殺を思いとどまらせ、救いに導きました。
従って今日のポイントはこのように、苦しさ、辛さ、痛みなどの中に在っても、賛美する事が出来たので、全ての神の業が広がっていったのです。ハレルヤ。
使徒16章21〜25節