尾山謙仁先生のお話から
私は尾山令仁の息子で謙仁と申します。 ただ今、紹介に与りましたように、親と間違えられます。
牧師の息子で毎日教会堂に住んでいました。 私は、小学5年の時におじの葬儀に出て初めて死と向き合いました。 私は、祈りや聖書勉強等、信仰的な事は何でもしましたが、その時の葬式が嫌でした。 誰でも最後は死を迎えます。 今日の御言葉のように、お前は永遠の命を持っているのか、今死んでも大丈夫かと聞かれたら、確信がなかったからです。
今日の御言葉は、ニコデモというユダヤ教の先生が、真剣に悩んでいたところです。 それでイエス様に会いました。
私は先程の葬儀の場から逃げました。 何故か。 日本人(私)は、自分の身体の死に向き合って来なかったからです。 人生の中で大切な、身体の死を迎える準備の必要に気付かず、何の用意もないので死を恐れました。 私は17歳の時にイエスを信じ、初めて死の恐れから開放されましたが、それは一方的な神からの恵みだったのです。
それはイエス・キリストを信じるだけで、永遠の命が平等に得られるのです。 ただ私は聖書知識も何もないのにと言う人でも大丈夫です。 あなたのそのままの姿で、祈りや知識がなくても、ただそのままの姿で永遠の命が与えられるのです。 神様は、一方的に愛して下さっており、クリスチャンとはこの希望によって生きている人です。
ですから、行動がその信仰と相矛盾しているなら、周りの人に見抜かれるのです。 つまり、周りの人は気になって見ているからです。
聖書を見てみましょう。私たちは、偶然な存在ではなく全知全能の神によって創られ、全世界の中で一人しか存在していないオンリーワンの者なのです。 つまり私たちは、相対的な存在ではなく、絶対的な価値観の中で生きているのです。 だから他の人と比較するのではなく、神と自分だけの存在なのです。 しかし、この様に神によって創られたのに、普段は罪だらけの中で暮らしています。 そして、この世の悪い事に自分も浸っていると気が付いたら、他の人を出し抜いているのです。
自分がいよいよ死を迎える時、こんなはずじゃなかったと悔いて死を迎えるのか、それとも神の祝福と感謝の一生であったと、永遠の命の中に入っていくのか、祝福の道を選びたいものです。
一回限りの人生だから、神に喜ばれ祝福されながら、本当に感謝だったねと振り返り、栄光の神に喜ばれながら、この永遠の命の中に入っていたいのであります。 私はあなたを愛していると言われるお方なので、易しいわけですから。 ヨハネ3章16節 文責 H&K |