小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/09/28 22:08:36|先週の礼拝から
愛される事・愛する事
尾山謙仁先生のお話から

 私は尾山令仁の息子で謙仁と申します。
ただ今、紹介に与りましたように、親と間違えられます。

牧師の息子で毎日教会堂に住んでいました。
私は、小学5年の時におじの葬儀に出て初めて死と向き合いました。
私は、祈りや聖書勉強等、信仰的な事は何でもしましたが、その時の葬式が嫌でした。
誰でも最後は死を迎えます。
今日の御言葉のように、お前は永遠の命を持っているのか、今死んでも大丈夫かと聞かれたら、確信がなかったからです。

今日の御言葉は、ニコデモというユダヤ教の先生が、真剣に悩んでいたところです。
それでイエス様に会いました。

私は先程の葬儀の場から逃げました。
何故か。
日本人(私)は、自分の身体の死に向き合って来なかったからです。
人生の中で大切な、身体の死を迎える準備の必要に気付かず、何の用意もないので死を恐れました。
私は17歳の時にイエスを信じ、初めて死の恐れから開放されましたが、それは一方的な神からの恵みだったのです。

それはイエス・キリストを信じるだけで、永遠の命が平等に得られるのです。
ただ私は聖書知識も何もないのにと言う人でも大丈夫です。
あなたのそのままの姿で、祈りや知識がなくても、ただそのままの姿で永遠の命が与えられるのです。
神様は、一方的に愛して下さっており、クリスチャンとはこの希望によって生きている人です。

ですから、行動がその信仰と相矛盾しているなら、周りの人に見抜かれるのです。
つまり、周りの人は気になって見ているからです。

聖書を見てみましょう。私たちは、偶然な存在ではなく全知全能の神によって創られ、全世界の中で一人しか存在していないオンリーワンの者なのです。
つまり私たちは、相対的な存在ではなく、絶対的な価値観の中で生きているのです。
だから他の人と比較するのではなく、神と自分だけの存在なのです。
しかし、この様に神によって創られたのに、普段は罪だらけの中で暮らしています。
そして、この世の悪い事に自分も浸っていると気が付いたら、他の人を出し抜いているのです。

自分がいよいよ死を迎える時、こんなはずじゃなかったと悔いて死を迎えるのか、それとも神の祝福と感謝の一生であったと、永遠の命の中に入っていくのか、祝福の道を選びたいものです。

一回限りの人生だから、神に喜ばれ祝福されながら、本当に感謝だったねと振り返り、栄光の神に喜ばれながら、この永遠の命の中に入っていたいのであります。
私はあなたを愛していると言われるお方なので、易しいわけですから。   ヨハネ3章16節        文責 H&K







2008/09/22 8:39:05|先週の礼拝から
神への愛・兄弟への愛
福田総理が辞任しました時に、次のような批判が新聞にのりました。
第一は、 「総理のメッセージが伝わってこない」 という事です。
第二は、 「あなたはこの国で何をしたかったのか」 という質問でした。

私たちの教会のメッセージは、ヨハネ13章34節の御言葉、この一点に尽きます。
教会に来られて愛されるのを感じられないなら、まだ 「メッセージが伝わっていない」 と言わざるを得ません。教会がすることは愛を伝える事です。

愛を知識として知るだけなら信仰として成長せず、永遠のいのちもありません。教会に来ている方々は、みな愛があるような方ばかりです。
しかし、本当に愛があるかどうか試す方法が1つあります。
「あなたは愛が無いですね。」 と言ってみてください。
その時、私がムカッときたら信仰も愛もない人と思って下さい。

人は、元来本当の愛を持ち合わせていません。
「愛のない私を御赦し下さい。」
と神の前に謙遜になれるかどうかなのです。
それとも、愛の人らしい事を何かしているでしょうか。
医者がカルテ上だけで診察し、手術も何も出来ないとしたら、信頼出来るでしょうか。
さて、神の愛とは何でしょうか。
「イエス・キリストです。」 キリストは、第一に、神の子なのに、この世に人の子として来られたのです。
第二に、人の罪を贖う、つまり身代りとなって十字架で死んで下さったのです。
ここに神の愛があるのです。
この神の愛から兄弟姉妹を愛する愛が生まれるのです(ヨハネT4章16節)。
この愛の事実を認められない人は、神の愛を知らない人という事で、
人を愛する事は出来ません(ヨハネT4章20節)。
この両者は切り離せません。
それはイエス様との緊密な交わりによるのです。

私は40年間、S社の営業マンでした。
競争社会の中で、人への愛の関係を真剣に学びました。
それはトップ営業マンになるためではなく、多くの方々を助けるためである事に気付いたのです。
「愛は自分の利益を求めず」です。
「世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう」 (ヨハネT3章17節)。

神に愛されている証しは、痛み・苦しみ・寂しさを持つあなたの病床にまで、キリストが伴って下さる。
これが神の愛なのです。
コリントT 13章13節







2008/09/14 23:29:29|先週の礼拝から
いつものように、日に三度
私は9月1日に米国からの宣教師の方々6人を引率して、東京見物に行ってまいりました。

その時に宣教師の皆さんから大切な事を学びました。
それは、CLCブックセンターへ行き、O・B・I、皇居、そして国会議事堂へも行きましたが、何処へ行っても、電車の中でも、一時間毎の連鎖祈祷をしていた事です。
「いつものように」。
さらに、米国の牧師は、至る所でトラクトを配布し、話しかけ、熱心に伝道をされていました。

さて今日の聖書、このダニエル書とライオンの関係は、世界的に有名な話です。

ダニエルはユダ部族の少年でしたが、バビロン王の命令によって、バビロンへ連行された(BC605)人物です。
ユダ族を亡ぼしたバビロニア帝国が、ペルシャに亡ぼされ、ダリヨス王が即位しました。

ダニエルは、人格も知識にも優れ、祈りに於いても、特別な霊の賜物がありましたから、ダリヨス王に目を付けられて、四人の大臣の中の一人に抜擢されたのです。

捕虜の身分なのに大臣。
他の大臣は、何とかダニエルを引き降ろそうと、口実を探しますが見つかりません。
ダニエルがいつも神に祈っている事を知っていた大臣達は、 「王よ、あなた以外に、いかなる神にも人にも、祈願をする者は、誰でも獅子の穴に投げ込まれると、禁令を制定して下さい。」 とダリヨス王に願い出たのです。

王が文書に署名したのを知ったダニエルは、抗議も嘆願もせず家に帰り、いつものように日に三度、いつものように二階の窓を開けたまま、エルサレムに向かって祈ったのです。
これが彼の習慣だったのです。

彼はまんまとこの法律に引っかかり、陰謀家たちの罠にはまり、ライオンの檻の中に投げ入れられてしまいました。
王もダニエルの事を心配し、 「あゝもうだめだ」 と覚悟を決めた事でしょう。

しかしダニエルほどに祈り、御言葉を信じきる人はいません。
こんな絶体絶命でも、彼は救われました。
神様が、ライオンの口をふさいだので、ダニエルは襲われませんでした。
そして王は、穴からダニエルを出すように命じ、彼を更に重要なポストに付けたのです。

この事件で最も大切な事は、ダニエルの祈りです。ルカ6章28節 「あなたを侮辱する者のために祈れ」 。
そしてイエスの十字架での祈り 「父よ。彼らをお赦し下さい。」 ルカ23章34節の祈りです。
この祈りが病気のいやしや、人生の大逆転の奇跡を生むのです。                      ダニエル6章10節







2008/09/09 15:47:10|先週の礼拝から
聖霊の導き
クレイグ・ハムラン先生のお話から

人生の中には、私達自身が予想もしていない神の働きが、必ずあるものです。
「いや私は何もしていない」 と思っても、神は 「私の愛する子なのです。」 と言い、思いがけない人から 「私はあなたのおかげで、教会に導かれました」 という様な言葉を聞く事があります。

私達は弱く力はありませんが、ピリポの伝道もそうでした。
その様子が使徒8章26節以降にあります。
「主の使いがピリポに向かって言った。 『立って南に行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。』
地図には、荒野と書いてあって誰も住んでいないところなのですが、そこへ行きなさいと言われた。

ピリポは誰もいないはずの所に(行って見ると)馬車が来て、カンダケというエチオピアの宦官が、エルサレムからの帰り道で、イザヤ書53章を読んでいました。
そして、御霊がピリポに 「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい。」 と言われたので、ピリポは走って行き 「あなたは、読んでいることが、わかりますか。」 と聞いたのです。
すると、その人は、 「導く人がなければ、どうしてわかりましょう。」 と言い、馬車に乗るように、ピリポに頼みました。

そこでピリポは馬車に乗り、 「イエス・キリストのことを言っているのです。」 と言って、説明しました。
主の僕が神から遣わされて、罪深い人間のために犠牲として自分が十字架にかかり、私たちのために死んで下さり、救い主としておいでになったのだ。
その方はイエスなのだ。
これが福音なのです。

ふと自分の出合った人に福音を伝え、それがきっかけとなり、この行きがかりの外国人が、クリスチャンになったのです。
この全く関係のない、エルサレムから遠い、アフリカのエチオピアの人に福音を伝え、それによってイエスを信じ帰ったのです。
そして水のある所で、ピリポは洗礼を授けました。

ふと主の言葉を聞いて、全く関係のない国へ 「行け」 と言われて、そこに誰かがいて、その人が信仰を持って、またその人が大きな働きをする。
そんな事ある訳がないと思うような事が、信仰の世界では起る(のです)。

これが主の働きであり、聖霊の導きによる、本当に不思議な出来事なのです。                 使徒8章26〜40節        文責 H&K







2008/08/31 20:17:16|先週の礼拝から
祈りを教えてください
藤田光一師のお話から

実は、今の若者達が教会を離れてしまっており、多くの人達が、福音を聞くチャンスを失っているという状況の中で、私は、八年程前から、結婚式というものを通して福音を伝えていく方法でやってみたいと思うようになりました。

日本の都市部では、8割以上の若者が、キリスト教式で結婚式をやりたいと望んでいるそうです。
それで、教団にわがままを言わせていただき、今年の四月から、教団の働きを休職とし、浦安のあるホテルの結婚式で、福音を語ることを始めました。
教会で、千人の人にチラシを配っても一人も来ないからです。
前置きは、この位にしましょう。

私が思います事は、聖書を開く時に、二千年の隔たりがあっても、人間の実情は変っておりません。
ですから、私にとって聖書は、今も人々に生きる力を与え、喜んで感謝出来る秘訣に富んだ書物であると思うのです。

皆さん、イエスの家族は、お金があって何不自由なく過ごしていたのでしょうか。
そんな事はないのです。
貧しいあまり、山鳩ひとつがいしか奉げられないような状況した。

イエスは、大工の息子ではなかったのか。
成長したイエスは、毎日汗を流して建設現場で働いていました。
こうした経験から、数々の言葉が出てきたと言えないでしょうか。
それでも神は、例えにありますように、朝5時から働いている人も、夕方雇われた人も、同じ報酬を恵みとして、与えられているのではないでしょうか。
しかし格差社会というものがあって、イエスは、最下層の中で生活し、どこにいるか分からない様な中に混じって石を運びながら、やがて、公けに立つ日を待っておられたのです。

そうして、イエスは、経験したこと全部をふまえて、人々に神の国のことを語り、十字架へと歩んで行って下さった事が、福音書の中心なのです。

十字架の上で 「父よ、彼らを赦したまえ。」 と叫んだ言葉の中には、人間の、罪の性質や弱さ等の全部を、御自身が見・聞き・経験した全部を、背負って下さり、その罪の代価を支払うという言葉であった、と言う事が出来るのではないでしょうか。

また、弟子たちに語った事の1つひとつに、私たちの日々の生活の中で 「祈りなさい。祈る心を忘れないように。」 という事が込められているのではないでしょうか。                          ルカ11章1〜4節   文責 H&K