小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/04/18 7:52:58|先週の礼拝から
未来を信じる
今回、いこいの泉教会に導かれ、ここでメッセージを語れることに感謝を覚えております。

ここで教会が開拓されようとしていることは、神様の導きです。そして、この集会も神の導きです。

この教会は、神から発せられたという事を、覚えてください。
人間が計画したのではなく、神の計画であると信じたので、メッセージをたずさえてきました。

先ず、ヨハネ14章12〜14節を見ますと、イエス様を信じる者は、イエス様のわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行なうというのです。
これは信じ難いことですが・・。

 ヨハネ5章19節以降を見てください。
いのちが与えられます。ヨハネ15章11節ではイェス様の喜びが私達の内にあって、喜びが満たされるとあり、16節ではイエス様の名によって神に求めるものは何でも、神が私達に与えるようになると続きます。

祈りは聞かれるのです。
大きなわざとは何でしょう。今、この小さい群れを通して、神を信じていのちに至る人々が新しく生まれ、喜びに満たされ、聖霊によって一つとなって生きるというのです。

こうして、「たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされ」るのです。
内にあるものは大きいのです。

中心聖句 ヨハネ14章12〜14節







2007/04/17 7:57:18|先週の礼拝から
あの人もこの人も例外なし
人間の罪の種類は、三種類あげられます。

一つ目は法律上の犯罪です。
二つ目は道徳上の罪です。
ウソをついたりだましたりすることですが、「みんながするから怖くない」と思うのです。

やっかいなのは三つ目です。

それは神を恐れない罪で、自分には神など必要ないという生き方です。
神を知ろうとせず、自分が神であるかのように自分自身で総てを決定する生き方です。

自己中心的生き方で、私たちのすべての罪の根っこです。
隣人の成功や持ち物などを見てねたみを感じ、無視しあい、争いを起こし、殺しあうようになり、愛を失って永遠の滅びに向かって走っていくのです。

あの人もこの人も例外なく、その途中にいます。私達は方向転換が必要なのです。
神が遣わされたイエス・キリストによる贖いのゆえに、あたいなしに義と認められるのです。
キリストが私たちの身代金となってすべての罪を背負い、神のさばきを受けてくださったからです。

神の恵みによる信仰によって永遠のいのちを得るのです。
したがって、良い行いをしなくてはならないのではないのです。
間違いに気付いたら、方向転換をして神様を知ることを求めていきましょう。

ローマ 1章28〜32節







2007/04/15 22:30:06|先週の礼拝から
神の霊とその働き
聖霊とは何でしょう。(この小さなブログで扱えるよう内容ではないのですが、無理した短く表現してみました。)

人間は身体の内面に心が、心の奥に魂が保たれていると考えられますが、聖霊とは魂(霊)への神の働きかけです。

聖霊を言葉で言うなら、
第一に助け主です。
そば近くにおられてとりなしてくださる方です。

第二に心の中にキリストを迎え入れる風(神の息吹)です。
キリストを迎えた人は主にあって生きるものとされるのです。
しかし、実際の霊的体験は、個人ごとに皆違います。

罪のために人間の尊厳を以って生きられず、キリストの十字架と復活への信仰によって、生きるようにしてくださる神の働きかけ、それが聖霊なのです。
                                        ローマ8章26〜28節







2007/04/14 5:52:35|先週の礼拝から
逆転人生
教会生活などで苦しみを経験してのち、形勢逆転を経験することがあります。

ただそれには「わたしのためにいのちを失う者」という条件があります。
キリストのためにいのちを犠牲にし、自分を否定し、死に至るまで従っていく者だけが永遠のいのちを得るからです。

一方、「自分のいのちを救おうと思う者」に対し、「まことのいのちを損じたら、何か得な事があるか」といわれます。
永遠という霊的世界で大逆転を見るには、イエスに従うか否かで決まるのです。

自ら進んで自分の十字架を負い、ついて行きたいと思う人を、キリストは求めております。
                                   マタイ16章24〜28節







2007/04/13 9:20:55|先週の礼拝から
ほんとうの救い主
真の救い主とは、どういう方でしょうか。

聖書で預言された様に 「多くの苦しみを受け、捨てられ、殺されるお方」 なのです。
「私たちの罪の代償を、自分のいのちで支払い、罪から贖う」 という世界で唯一の福音なのです。

ところが、弟子のペテロは 「そんなことが起こるはずはありません。」 と贖いを阻止してしまい、イエスから厳しく叱られます。

十字架こそ救い主の姿であることを確信するイエスは、その道を歩みとおされました。

イエスこそ、神のみ心に従って歩んだ真の救い主、人類に与えられた唯一の贖いぬし、主キリストなのです。
                                       マタイ16章21〜23節


管理者注 : 贖いとは何
罪・けがれ の結果(裁き)から免れるため、金銭や物品を差し出す。
一般的には ・買い求める ・つぐないをする ・つみほろぼしをするなどの意味で使われる場合が多いようです。

聖書が伝える 「贖い」 とは、金銭や物品でなく、イエス御自身を差し出されたという。