小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/04/24 4:30:37|先週の礼拝から
わたしのことばがあなたがたにとどまるなら
私達の信仰とは何か。
聖書信仰です。
みことば信仰です。

聖書にある言葉の一つ一つによる、活かされる体験、赦される体験などを通して生じる神 (ことば) との信頼関係が基礎です。
ですから神と私とのつながり方は、100人100様で、極めて個人的なものです。

しかし、その内容には他の人も認められるもの (客観性) をもっている必要があります。
私達は、他の人も認められるものを他の人に伝えること (伝道) をゆだねられます。

ですから聖書信仰とは、私達の生きる土台・行動の規範を聖書に求めるということにつながっていきます。

さて、今週の聖書に 「わたしのことばがあなたがたにとどまるなら」 とありますが、 「聖書の言葉がとどまる」 とは、どんな状態を指すのでしょうか。

続きを読むと重大問題です。

聖書の言葉が記憶されていることは当然です。
単なる記憶を超え、私達の行動・生活・人生が 「みことばによってコントロールされる」 まで成長するのです。

みことばで苦しむときもありますが、みことばが私達の生活に根をおろし、行動の動機が私でなく、みことばにかわり、人生がコントロールされるのです。
これが聖書信仰なのです。

毎日聖書を読んだとき、そのみことばに生活がつくり変えられるように、祈りたいものです。

                  中心聖句 ヨハネ15章7節







2007/04/23 0:15:52|先週の礼拝から
絶えず祈り、すべて感謝
先週は 「いつも喜んでいなさい」 を学びました。
今日は、それに続く二つの言葉です。

先ず 「絶えず祈りなさい」 ですが、 「絶えず」 とは文字通り連続してという意味ではない。
しかし、祈らないで何かを成し遂げるのは不可能です。
つまり、永遠に価値のあることをするためには、祈らないまま、神の恵みに励まされないままでは、出来ないのです。

ですから、日常的に祈る必要があるのです。
日常的に感謝と願いを神に捧げ、神の栄光の表れを待ち望む必要があるのです。

イエスは御自身の働きがすすめばすすむほど、神(父)のことば・神の力にたよるため、お一人で祈られました。

続く言葉、 「すべての事について、感謝しなさい。」 の意味です。
これは神の愛を受けて、愛の神に感謝しなさいという事です。
神は私達にどのようなことが起きても、その事のために私達が悲しんでも、神の愛は変わりません。

逆境の時、喜べない時、祈れない時、涙する時、心に傷を受けて前進できずに苦しむ時ほど祈りに導かれます。

こうして、みことばの光が傷を照らすことを通して、喜びを覚え感謝があふれ、神の慰めとあわれみによって、気付かぬうちに心の傷が癒えているのです。

どうか、傷付いた心が、イエス様の力強いみことばによる勝利と解決が現わされますように。

                  中心聖句 Tテサロニケ 5章16〜18節







2007/04/22 9:27:47|先週の礼拝から
いつも喜んでいなさい
テサロニケTの手紙は現代人に必要な多くのメッセージを含んでいます。

今日は時代の空気に左右されずに生きる、三つの秘訣のうちの一つ「いつも喜んでいなさい」を取り上げました。
残り二つは来週にお話します。

さて、この世の人々の喜びは、主に何でしょうか。
先ず身体に関する(健康)事でしょう。
次にお金(経済)、そして名声(他人による評価)に関することでしょう。

これらの事は私達に大きな影響を与えますが、変化するものです。
喜びにも影響しますが、無くなってしまうこともあります。
健康は大切ですが、誰もいつかは、死に直面するのです。

皆さんはどんな時に喜びを感じるでしょうか。
健康・お金・名声がふさわしく与えられることは大切です。

しかし、クリスチャンだけの喜びがあります。
ガラテヤ5章22節に「喜び」が出てきます。
これはイエスのいのちにつながった時に与えられる御霊の実の一つです。

この喜びは一時的なものではなく、いつまでも取り去られることの無い喜びです。
神様からいつでもいただけるのです。
状況にかかわらず喜ぶことが出来るのです。
イエスにつながり「御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ5章25節)と勧められています。

中心聖句 ガラテヤ書 5章16節







2007/04/21 9:50:18|先週の礼拝から
私のイエス・キリスト
三浦喜代子師の話からの要約

イエス・キリストはどのようなお方か。
私にとっては不安を取り去り平安を与えて下さる神です。

私は15歳のとき受験のプレッシャーで苦しみ、妹の勧めによって教会へ行くようになり、イエスを信じ洗礼を受けました。
罪を赦され今日から神の子、平安を得て、高校受験も合格。・・・・。

結婚生活では、夫が遊びと快楽を求めて1年以上に亘り乱行に耽りました。
33歳のとき交通事故に遭いました。

心の痛みから神を疑いましたが、聖書を読みますと、エレミア31章3節に 「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。」 とあります。
求めていたものが与えられていることを知りました。

36歳のとき2人の娘を引き取り離婚しました。
強い女と言われました。
神の愛が私を強くしたのでしたが、母子家庭でも 「かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった(列王17章16節)」 のでした。

そしてキリストの証しを書くという使命が与えられ、家族が救われました。

二人の娘は献身者になり、父が86歳で救われ天に帰り、母が今年7月88歳で受洗。感謝でした。

私のイエス・キリストは、夫の乱行、母子家庭の生活苦など、空しさと悲しさから、内にキリストが満ちてくださる喜びの生涯へ移して下さっています。
           中心聖句 コロサイ書1章27〜28節


三浦先生、遠方の小さな教会へわざわざおいでくださり、お話を聞かせてくださってありがとうございます。ブログ管理者







2007/04/20 13:46:01|先週の礼拝から
互いに愛し合いなさい
日本での自殺者は、ここ数年3万人を下らないそうです。
今朝の新聞に、「生きていくのが嫌に」と題した遺書の紹介を含む中学生の自殺の記事があり、皆さんに紹介しました。

今日のメッセージのテーマは「互いに愛し合いなさい」ですが、人は誰も愛されないでは生きられないのです。

イエス様は、パリサイ人達に『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という旧い戒めを提示されました(マタイ22−39)が、
弟子達に対しては、「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。・・・わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13−34)と言われました。

旧い戒めは自分を基準にするものですから、自己中心的生き方に流れてしまって、愛の実践は難しいようです。
しかし新しい戒めは「私(キリスト)があなたがた(私達)を愛したように」です。

この戒めは、私達の思いを絶えず「今も生きておられるイエス様の愛」に向けてくださいます。
私達は、愛のない自分を見せられながらも、愛されていることを思い起こしながら「互いに愛し合う」ように導かれるのです。

いつもイエス様が愛してくださったことを覚えながら、共に生きていきましょう。
            中心聖句 ヨハネ13章31〜35節