小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/04/29 0:10:58|先週の礼拝から
悲しみは笑いに
田島師のお話から

私たちも悲しむことがあります。
涙を流すこともあるのです。
主はイスラエルの涙をご存知でした。

ローマの圧政に苦しみ、救い主を見出せない悲しみがありました。
自分の罪で悲しむ者もいたことでしょう。

悲しみを笑いに変える主は、ひとり児を世に送り、人々に十字架を与えてくださいました。
十字架は悲しみの場所です。
愛する人を見失った場所だからです。

でも後に喜びに変えられる場所です。
十字架は苦しみの場所です。
でも近づくとき楽しみが与えられる場所です。

正しい方が悪い私たちの身代りとなってくださった場所だからです。(ペテロ3:18参照)

十字架を通して父を仰ぐことが赦されています。
だから、私たちが十字架に近づくかぎり永遠の楽しみが付いてきます。
今日も十字架を仰いで生きましょう。

悲しむものは幸いです。
その人は慰められるからです。
            マタイ5章4節







2007/04/28 8:45:23|先週の礼拝から
偉大なる神
今日は 「偉大なる神」 というタイトルです。

「十戒」という映画を見た方は、チャールトン・ヘストンが演じたモーセが、 「十戒」 を刻んだ石の板を抱えて、山を降りてくるシーンを思い浮かべるかと思います。

山のふもとでは、金で牛の像を作り、それをおがみ、踊るシーンがありますが、あの 「牛の像」 が代表的な偶像です。

あの 「牛の像」 と 「偉大なる神」 を比較して見ましょう。

「牛の像」 は高価ですし、光を反射して輝いて見えます。
しかし、人が作った像ですからそこに置いてあるだけです。
それに対して、真の神は霊ですから、人の目で見ることはできませんが、人を限りなく愛して霊の交わりをなさろうと働く方です。

そして、人に見えるように、ひとり子イエスを人の世に生まれさせてくださいました。
そして、神を現させてくださいました。

人は人としてのイエスの生き方やことばとのかかわり方を通して、 「ああ!神はこういうお方か」 と愛に気づくのです。

だから私たちは偶像を拝まないだけでなく、本当の神を現されたキリストに目を向け、信仰による救いを喜んで生き、イエスを通して神と深く交わり、神の愛の広さ、長さ、高さ、深さを体験的に知って 「偉大なる神」 を見出していくのです。

それを表していくことのできる者になりたいと思います。

エペソ書3章17〜19節







2007/04/26 13:23:37|教会イベント
賛美歌コンサート

小さな教会の初めての行事です。
賛美歌コンサートを開くことになりました。

風薫る五月  日曜日の朝  心と身体を癒しにきませんか!!
明日に不安を感じる貴方   心も身体も疲れてしまった貴方
そんな貴方の心に届く    プチ・コンサートです。


GUEST
   日本名 : 石垣 茉耶(いしがき まや)
   韓国名 : ウー・チョンハ
1963年 韓国  ソウル市生まれ
1976年 釜山浸礼教会にて受洗
1986年 総会神学大学  宗教音楽科卒業
1990年 宇都宮キリスト教会
      現在宇都宮にお住まいで 活動中。

   伴奏者 : 佐藤 美穂
      宇都宮市上河内にお住まいで 活躍中


SCHEDULE
      日時 : 5月20日(日) 午前10時30分〜
      場所 : 栃木市 “いこいの泉チャペル” にて


CONTENTS
      当日は7曲から8曲の賛美歌を中心にお届けします。
      なかに 2曲ほど韓国語の歌も披露されます。
      茉耶さんのピュアな歌声にきっと貴方も癒されるときに
      なると思います。
      楽しみにお出かけください。

左の画像は 上から
      石垣茉耶さん
      “いこいの泉チャペル”の案内地図
      “いこいの泉チャペル”の外観です。
クリックすると拡大画像が見られます。

← ←
なお、いつもの聖書の話の要約をみるには、左側のコンテンツの下に書かれているタイトル名をクリックしてください。







2007/04/26 6:28:44|先週の礼拝から
聖書の世界
今日は 「聖書の世界」 について、共に学びたいと思います。

今、私達の手元にある聖書は、AD325年のニカヤ公会議で、私達の信仰と生活の規範に必要な正典として認められたもので、66巻の文書です。

そして聖書全体は、ヨハネ5:39にあるようにイエス・キリストを表現し、イエス・キリストを指し示し、そのイエスが永遠のいのちであり、永遠のいのちを私達に与えるお方であることを伝えているのです。

パウロは、ピリピ3:8で「私の主であるキリスト・イエスを、知っていることのすばらしさ」と表現しました。
聖書が示すイエスを知ることがすばらしいのです。

次に、神は聖書により、御自分をどう表現しておられるか見ましょう。

先ず「すべてのものを造られた方は神です」と宣言します。(ヘブル3:4)
今、科学者たちは、創られたものがどのように動くのか、何故、そのように動くのか、どんな性質があるのか、何故、そうした性質が保たれているのか、などを調べて、いろいろな事が分かってきています。
創られたものは、驚くほど素晴らしく創られています。

次に、祈りを聞かれる神だと言います。
私達の祈りに耳を傾けておられ、祈りに応えてくださるのです。

更に、聖書の神は父なる神です。
例えが良くないかも知れませんが、愛し合っている夫婦でも別れてしまえば他人です。
ところが父と子の関係はどんな悪い子でも、変わらない関係です。
絶対的関係です。

生んでくださった方は一人です。
神は私達のお父さんです。

私達の神は変わらないお方です。
いつまでも私達を愛して見守ってくださる父なるお方が聖書の神です。
                         ヨハネ5章37〜39節







2007/04/25 6:37:38|先週の礼拝から
我よわさをほこらん
原田時近さんのお話から

牧師の息子として生まれた私は、昭和17年、家族と共に満州の開拓団におりました。
12歳のある日、突然「特高」(特別高等警察の略)がやってきて、父を逮捕しました。

家族は満州鉄道で働くしか生きる手段がなく、悲惨な状態が続きました。

終戦に満州から引き揚げ、母方の実家に身を寄せましたが、経済的に貧しい日々が続きました。
定時性高校に通いましたが、学費の支払が出来ず「生徒会長の君がそのようでは困る」と言われて苦しみ、米が買えず、サツマイモしか手に入らない状態でしたから、昼食時に弁当がないことが普通でした。

父親への反抗心から酒・タバコにふけり、牧師の息子である私の信仰は、神を否定していました。
集会に出席しながら「傷の跡に手を入れてみなければ信じない」と心が叫んでいました。

牧師の家庭が嫌でした。
なぜ牧師の息子なのか。
運命とは、人生とは何かを考えていました。

高校卒業後、建築の事業をおこし、当時の景気の波に乗って業績を伸ばしました。
そんな時、腎臓結核を病み、片方の腎臓を除去しました。

回復を願う夜、聖書に触れ神を求めました。
否定していた神を求めたのです。
その時、背後に暖かく柔らかい何かを感じ、いつも聞いていた神の愛に気づきました。

そう語る原田さんは「私の力は、弱さのうちに完全に現れるからである。」という言葉は真実だったと言っています。
                      中心聖句 Uコリ12章10節

文責 N・K