小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/05/04 8:06:19|先週の礼拝から
イエス様は最高のカウンセラー
新井 秀 氏のお話から

イザヤは、神からの託宣を人々に伝え、救い主が来られることも伝えました。
その救い主の性質は 「不思議な助言者」 「力ある神」 「永遠の父」 「平和の君」 だと告げました。

今日は、その中から 「不思議な助言者」 英語でいう 「ワンダフルカウンセラー」 という側面を話そうと思います。

私の父は盲学校でキリストの伝道をしておりましたが、脳梗塞で突然召されました。
その後、母はストレスのため酒に溺れ、ついに中毒症状を起こして入院しました。

それから間もなく病室で信仰が変えられ、入院仲間の所へ行って 「イエス様は素晴らしい方だ」 といい 「キリストには代えられません」 という聖歌を歌って病室を回るようになったのです。

病床でイエス様から不思議に満ちた助言を頂いたのでしょう。

マタイ2章に 「東方の博士達」 が、イエス様に会う話が出てきます。

彼らはイエスに会い
「この上にもなく喜び」
「ひれ伏して拝み」
「贈り物をささげ」
「別の道から帰った」のでした。
幼子イエスを見て、変えられたのです。

2000年後の今も、信仰を通してイエスに会う人々は喜び・礼拝し・捧げ・今までと別の生活をするようになります。

イエス様を通して、不思議に満ちた助言を頂けるようになるからです。

あなたはイエス様にお会いしましたか。
まだでしたらなら心から求めることをお勧めします。
別の生活がありますから。
             イザヤ9章6節  文責(柿沼)







2007/05/03 0:18:01|先週の礼拝から
正しい人の三つの祈り
信仰を持つ人は祈ります。定期的な祈り、苦しい時の祈り、悔い改めの祈り、大事に向かう時の祈り、等など。

中でも基本的な祈りは教会(集会)で祈る祈りです。イザヤ書56章に「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。」と書いてあります。

一方、マタイ6章で、イエス様は 「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。」 と言っています。
人に見せるための祈りは避けましょう。

悪のかたまりの世界を生きてきた私は、自分の人生に絶望的し、自殺しようと思ったとき、苦しい時の神頼みでしたが 「神様助けて!!」 と祈りました。
続いて 「神様ごめんなさい」 という悔い改めの祈りでした。

そうして、十字架の赦しの信仰が与えられたのです。
信仰生活で悔い改めの祈りは欠かせない祈りでしょう。

ヤコブは5章16節で「互いに罪を言い表わす」(告白する)ように勧めています。

二つ目は、赦された者による隣人のための(互いのための)とりなしの祈りです。

三つ目は、前述の祈りを含め神に従順であり続ける事ができるようにという祈りです。
ヘブル書でパウロは「私たちのために祈ってください。」と言っています。
ですから私もお願いします。
私のために祈ってください。

そして、栃木いこいの泉チャペルに集う方々の救いのために祈ってください。
            ヤコブの手紙 5章13〜16節







2007/05/02 4:45:00|先週の礼拝から
互いに受け入れなさい
あなたは弱い人ですか、力ある方ですか。

日常生活の中で何かと人間関係の問題が起きますが、それを解決しようとしたとき、あなたは力の足りなさを感じるでしょう。
私達に特別な力が有るわけではありませんから、戸惑います。

ルカ18章で、イエス様は指導者達を 「自分を喜ばす者」 (自己満足者)として批判しました。
自分は正しく立派な者であると考えて、他者を低く見ている傲慢な者と非難したのでしょう。

パウロはローマ書15章で 「力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。」 と言います。

自己満足や自分の能力等を基準にしたのでは、和解も相手を理解することさえもできません。

パウロは、第Uコリント11章で 「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。だれかがつまずいていて、私の心が激しく痛まないでおられましょうか。」 とも言っています。

経験の浅い人の考え方を思いやりながら、神を喜ぼうとしています。

そしてロマ書15章では 「互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように」 と祈ります。

そのために聖書と信仰によって 「神が与える忍耐と励まし」 を頼りに、隣人の喜びと徳が高められるように努めるように勧めます。

私たち一人一人も、神を頼りに 「互いに受け入れる」 ことができるように、日々イエスを仰ぎましょう。  
                         聖書 ローマ15章1〜13節







2007/05/01 6:34:04|先週の礼拝から
受ける愛と与える愛
ある老いた母が、息子に言ったそうです。私に残された余命は少ない。
それで、この聖書をお前に渡そう。

これは私の母から 「毎日読むように」 と言って渡されたもので、生きるのに大切なことが書かれています。
あなたも毎日読んでください。

息子はたずねました。
聖書の中で一番大切なことは何処に書いてありますか。
老母は 「ヨハネの福音書3章16節とヨハネ第1の手紙3章16節ですよ」 と言ったそうです。

老母は愛を受けたなら愛を差し出す者になって欲しいと伝えたかったのでしょう。

「神は・・そのひとり子をお与えになったほどに、世(私)を愛された。
では、どうしたら喜んで愛を差し出す者にまで成長できるでしょうか。

ペテロ第一の手紙2章2節に 「生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
それによって成長し」 と書いてあります。

心の飢きんから守られるために 「みことばの乳」 にひたっていく必要があります。
聖書を1日1章以上読むように心がけましょう。

第Tテサロニケ人への手紙5章16〜18節 
「いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

祈りを習慣化するように努めましょう。
                    中心聖句 Tヨハネ3章16節







2007/04/30 6:23:29|先週の礼拝から
神なき経済社会の中で
神なき社会 (神を認めない社会) は、祈りの無い経済社会だと言えそうです。
今、取り組むべき課題は何かを考えるときに、 「最も大きな経済効果を生むテーマは何か」 と考えてしまうのです。

祈りが無いのです。

人は 「真の喜びを見出しつつ生きるために、今取り組むべき課題は何でしょうか」 と神に祈り求めながら、できることに着手していくべきでしょう。

コリント12:22に 「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。」 と書いてあります。

「大きな経済効果」 のみを追求しますと、自分の経済効果のみを求める方向にかたより、 「なくてはならないもの」 を忘れて弱者を踏みつけ、種々の社会問題に困惑して喜びを見失うのです。

イエスは十字架上で 「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」 と祈られました。
人々はキリストによる十字架の愛でしか、望ましいところに帰れないのです。
帰るところがわからないからです。

フランス人画家ミレーが描いた名画 「晩鐘」 の姿は 「祈りかつ働く」 がテーマです。
「畑の中での祈り」 そこはもう教会です。
祈りは神様との営みであり 「なくてはならないもの」 を見失わずに、経済活動を進める基本です。

日々祈り、かつ働くように祈りましょう。
                           マタイ6章10〜11節