小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/05/09 8:02:00|先週の礼拝から
人生の進路よし!
この町にザアカイという名の、収税人のかしらでお金持ちがいました。

彼は、お金と権力を持っていましたが、何か深い不満がありました。
人々から嫌われていたからでしょうか。

「イエスが町を通る」という噂を聞くと、どんな人か見たいと思い、すぐに表通りに走っていきました。
しかし、通りの両側は、人がいっぱいで、中の人は見えません。

ザアカイさんは、背が低いのに前のほうに入れてもらえません。
なのに、イエス様が目の前を歩いているらしいのです。

ザアカイさんは急いで前のほうに走って、いちじく桑の木によじ登りました。
お金持ちの見栄も有りません。
ザアカイさんがようやく下を見ると、イエス様がこっちを見上げています。

そして「ザアカイ。急いで降りてきなさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」というのです。

ザアカイさんは急いで木から降りて、大喜びでイエス様一行を自分の家に向かえ、もてなしをしました。

そして、今までの間違いに気付いたのです。
「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」と言いました。

笑顔で聞いていたイエス様は、「きょう、救いがこの家に来ました。・・・・」と言ってザアカイさんの救いを宣言しました。

こうして、間違った方向に向いていたザアカイさんの生涯は正しい向きになりました。                                           ルカ19章1〜10節







2007/05/08 7:44:25|先週の礼拝から
お母さん私を生んでくれてありがとう
「堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。」

このことばが、今年一年、私とこの教会に与えられたみ言葉です。
主ご自身がこうしなさいと言われたことをするのです。

主が命じられた事を行なうには困難が予想されます。
私たちはみ言葉を聞きながら従えないのです。
その困難さにとらわれるからですが、従って行く時に必ず祝福がともないます。

私たちの教会は、昨年、まさか会堂が与えられと思いませんでしたが与えられ、今日も生きて働かれる神のわざを期待しています。

これらのことが冒頭の聖句の主題であり意味なのです。

きょう、私たちが主のわざに励むとき、主はご自身の栄光をあらわして下さることでしょう。

あるお母さんが、息子の盗み癖に困惑して、厳しくしかりましたが、息子は 「僕みたいな子は、生まれてこなかった方が良かった」 と言ったそうです。

そのお母さんはショックを受けて、他人同士のような家族関係を悔いて改め、自分が腹黒い人間であることを家族に詫びたのです。

この後、家族は危機から守られ、息子は 「お母さん、僕を生んでくれてありがとう」 と言ったそうです。

このお母さんの行動は、聖霊の働きで、主のわざでした。
「罪から来る報酬は死です」 が、十字架の贖いを信じて赦される以外に真の解決がないのです。

その決心と行動によって、お母さんの古い自己は死んで、イエスと共に生きたのです。
こうして、家族も生きたのです。

主のわざに励みましょう。
                       Tコリント15章58節







2007/05/07 8:24:59|先週の礼拝から
かっこ悪くても仮面をかぶらない
本日は、2006年最後の礼拝となりました。

今日の視点は、仮面をかぶらない姿で主の前に出て行く祝福を、ペテロの生き方を通して見て行くことにあります。

ペテロは、 「あなたは生ける神の御子キリストです」 と告白して、 「あなたはペテロ(岩)です。」 と祝福されますが、やがて十字架にかかるイエスの発言を否定して 「下がれサタン」 と叱られ、海の上を歩くイエスを見て、 「私に水の上を歩いて来いと命じてください」 と言い途中まで歩いていくが、波を見て恐ろしくなり溺れてしまう。

イエスが足を洗ってくださったときなど、手も頭もと必要以上に願ってしまい、たしなめられる。

そして、大きな失敗を経験します。

それはまさに、受難の最中のイエスを前にし、 「この人は知らない」 と言って、三度もイエスを否定したのです。

しかし、復活したイエスは、問題だらけで、裏切りの負い目に苦しむペテロに対して、 「あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」 と三度も特別に声をかけて心の傷を癒し、信仰を強められました。

御前にあるがままの姿で出る者の、足らないところを「医者を必要とするのは・・・・病人です。」 と言って癒されます。
主の前 (教会) にあっては仮面を外し、弱さ・病・罪をさらけ出し、ありのままの姿で出るときに素晴らしい人生の扉を開いていただけるのです。
                     マルコ2章15〜17節







2007/05/06 0:30:29|先週の礼拝から
赦すためです
十字架の上でイエスはこう言われました。
「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」
                         ルカ23:34

ある女性の話を紹介したい。
彼女は農家に嫁ぎ、大変な労苦のため、一人息子と無理心中を図りました。
そして、息子は死に自分は助かってしまったのです。

殺人罪です。
裁判の結果は執行猶予でした。
しかし、閉鎖的な時代の農家でしたから、 「人殺し」 と呼ばれて追われ続け、最後に教会を訪れました。

牧師は、3ヶ月待ちなさいといい、その間、祈りつつ待つように指導されました。
何も起きませんでした。

牧師にどうしたらよいか、相談しました。
もう1ヵ月、待ちなさい。
あと2カ月。
6ヶ月経た時、別居していた夫が彼女の元に戻ってきたのです。

更に農家の両親と和解するため、両親の部屋を備えた家を新築したそうです。
そして最近、困難でしたが、和解できそうだという。

その彼女が得ている結論は、何だったか。
「人の心は、私を無罪にしません。しかし、イエス・キリストはその権威によって 『汝の罪赦されたり』 と宣言して下さいました。
感謝にあふれました。」 と言う。

更に 「自分の子供を殺した罪は、誰によっても赦されることはありません。しかし、この私の罪をイエス様の十字架によって赦されたと思うと、人の言葉が心に刺さらなくなりました。」 という。

彼女は今、この赦しを伝えるために修養生として学んでいる。

クリスマスの意義も 「人を赦す」 ということにあるのですね。
                          マルコ 2章10節









2007/05/05 3:33:13|先週の礼拝から
この方にいのちがあった
クリスマスの前約4週間に亘り、降誕祭に備える期間をアドベント(待降節)といいますが、今日はその2週目です。

イエス様の弟子ヨハネは、 「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。 」と結論を先に書いています。(ヨハネ1:4)

その時代のイスラエルは、ローマに支配されていて、人々の心は今の日本のように暗い時代でした。

それは同時に 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」 時なのでした。

イエスは 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」 (ヨハネ8:12)と言われ、多くの不思議を行い、神の栄光を現されたのでした。

「雷の子」 というあだ名を付けられたヨハネ(マルコ3:17)は、イエスに触れ 「愛の使徒」 と呼ばれるように変えられました。

先に召された中田冨美子姉は、その経験について 「暗いトンネルから光へ」 と表現していました。

OBIの修養生たちは皆、イエスの愛を人々に伝えたくて、これまでの仕事を手放して、聖書を学んでいます。

書き始めたらキリがありません。

まもなく、2000年前にユダヤのベツレヘムで起きたことを記念する日が、来ようとしています。
お互いに励まし合って待ちましょう。
神の愛に注目しましょう。
              ヨハネ1章4〜9節  2006年12月10日のお話から