皆さんイエス様が言われた言葉を、ため息をつくように言って見ましょう。 「あ〜〜ぁ、不信仰な、曲がった今の世だ。」 イエス様のお気持ちがお分かりいただけたでしょうか。
この 「曲がった」 のところを 「腐った」 と入れ替えた先生がおりました。 そんなところに病気の子がつれてこられましたが、 「お弟子達に、この霊を・・・・できませんでした。」
これに対しイエス様は 「あぁ〜、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。・・・」 と歎かれてしまいました。
不信仰とは、信仰の大小、強弱ではないのです。 キリストの業を引き出すように生きた信仰か否かなのです。 山を移す信仰と同質の信仰を望まれています。
私は3年前まで、 「腐った」 世の中の中心人物として働いておりました。 談合と賄賂と脱税という企業三悪の中にいたのです。
一方で教会では、愛が冷えていました。 これも 「曲がって」 います。
今、私達の立つところは開拓教会ですから、教会の外の人を愛することから始めなければなりません。 それには先ず、私たちが神に愛される器になることが必要です。
からし種ほどの信仰でいいのです。 イエス様が指摘なさるように、今の世が 「曲がった」 状態であることを認識すればいいのです。 曲がった世、即ち教会の外に向かって、二心の無いまっすぐな愛を、指し示す様になれるかです。
教会は愛の共同体です。 赦し、助け合う家族です。 愛の共同体として、弱い人達に手を伸ばすことを、神は望んでいます。 イエス様の嘆きを共に分かち合える様に祈ろう。
ルカ9章37〜43節 |