小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/05/14 22:58:40|先週の礼拝から
曲がった世に救いを
皆さんイエス様が言われた言葉を、ため息をつくように言って見ましょう。
「あ〜〜ぁ、不信仰な、曲がった今の世だ。」 イエス様のお気持ちがお分かりいただけたでしょうか。

この 「曲がった」 のところを 「腐った」 と入れ替えた先生がおりました。
そんなところに病気の子がつれてこられましたが、 「お弟子達に、この霊を・・・・できませんでした。」 

これに対しイエス様は 「あぁ〜、不信仰な、曲がった今の世だ。いつまで、あなたがたといっしょにいて、あなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。・・・」 と歎かれてしまいました。

不信仰とは、信仰の大小、強弱ではないのです。
キリストの業を引き出すように生きた信仰か否かなのです。
山を移す信仰と同質の信仰を望まれています。

私は3年前まで、 「腐った」 世の中の中心人物として働いておりました。 
談合と賄賂と脱税という企業三悪の中にいたのです。

一方で教会では、愛が冷えていました。
これも 「曲がって」 います。

今、私達の立つところは開拓教会ですから、教会の外の人を愛することから始めなければなりません。
それには先ず、私たちが神に愛される器になることが必要です。

からし種ほどの信仰でいいのです。
イエス様が指摘なさるように、今の世が 「曲がった」 状態であることを認識すればいいのです。
曲がった世、即ち教会の外に向かって、二心の無いまっすぐな愛を、指し示す様になれるかです。

教会は愛の共同体です。
赦し、助け合う家族です。
愛の共同体として、弱い人達に手を伸ばすことを、神は望んでいます。
イエス様の嘆きを共に分かち合える様に祈ろう。

                       ルカ9章37〜43節







2007/05/13 6:39:11|先週の礼拝から
いのちより大切なもの
星野富弘さんが書かれた詩の中に、こんな言葉があります。

「いのちが一番大切だと思っていたころ、
生きるのが苦しかった。
いのちより大切なものがあると知った日、
生きているのが嬉しかった。」

この詩を通して星野さんは
「あなたは命より大切なものを持っていますか。」と、言っておられるようです。

日本では「死んだらおしまいよ。」と言うのを聞くことがありますが、富弘さんは命より大切なものをつかんでいるようです。

星野さんの問題提起は何でしょう。
「生きているのが嬉しい」と続きますから、「本当に人生を豊かに、嬉しいのを実感して生きるには、自分のいのちより大切なものがあるなぁ。」と気付いて、この詩が与えられたのでしょう。

富弘さんは、神が愛してくださっていることに気付かれたようです。
車椅子生活で何も出来ない自分を、そのままの姿でいいと言われるお方が居られるのに気付かれたようです。

自分中心に考えるような、罪だらけの者のためにいのちを捨てると言われたイエスは、もっと凄いいのちを持っておられるのだと気付いて、その凄いいのちで俺を支えていてくれるのだと気付いて、「生かされて生きている」と気付いたのでしょう。

知人の熊倉さんという障害者も同じようなことを言われます。
熊倉さんは「私にとってほんとうの幸せは何か。こんなみじめな姿の私を、このままで愛してやまない神に出会ったことだ。これが私の宝物であり、いのちだ。」と言う。

ハレルヤ。

ヨハネによる福音書 10章11〜18節







2007/05/12 7:17:49|先週の礼拝から
私の心だ、きよくなれ
 内田 彰 師 のお話から

私は、このたった3節だけの短い部分ですが好きです。
ところで、このライ病の原語は、ヘブル語で「ツァラアト」と書いてあり、ライ病のほかに何か別の病気も含んだ用語のようです。

レビ記13章によれば、この 「ツァラアト」 が発症した人は、 「汚れている」 と宣言され、宿営の外の洞窟のような雨風をしのぐだけの場所を探して住み、人に出会った時は 「自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、 『汚れている、汚れている。』 と叫ばなければならない。」 と規定してありました。

山から降りてきたイエスに会うために、彼も洞窟のような仮の住まいから出てきました。
人が大勢います。 『汚れている』 と叫びます。
親しかった友人が振り向いて離れます。
少し進んで 『汚れている』 と叫ぶと、イエスの周りにいた人達がどよめいて道を空け、冷たい視線と非難の声が届きます。

彼はひれ伏して 「主よ、お心一つで、私をきよめることがおできになります。」 と告白します。 
すると、彼には誰かの暖かい手が触れるのが判り、 「わたしの心だ。きよくなれ。」 との声を聞こえました。
顔を上げると、イエスがそばにおられ 「ツァラアト」 がきよめられていたのです。

イエスの心は、本当の幸せを摑むように導こうとして優しく潤んでいます。
キリストは神なのです。
彼は、血肉のからだが癒される経験を通して、御霊に属するからだを、心の内に準備していただいたのではないでしょうか。
                マタイによる福音書 8章1〜3節

                 文責 管理者







2007/05/11 5:44:40|先週の礼拝から
見えるようになる
T・N姉が白内障の手術を受けられましたね。
それで、目の不自由な人が、イエス様によって癒されたお話です。

この目の不自由な人を観察しましょう。
彼は道端に座っていましたが、聞こえる音の様子から大勢の人がいるのを感じ、イエスが通ることを聞き出します。

歩けない人を癒した人は確か 「イエス」 という人だと、誰かが言っていたな。
俺も直りたい。
俺だって見たい。

「私をあわれんでください。」 と大声を出す。
「ダビデの子よ」 と叫ぶ。
人に制止されてもかまわない 「あわれんでください。」 と叫び続けます。
そしてついに、イエスは足を止め、その人に声をかけます。
「何をしてほしいのか。」 と聞かれ、 「主よ。目が見えるように」 と言えたのです。

物乞いをしていた時、彼が求めていたのはお金でした。
しかし、イエスの前に出た時、本来必要なものを求めたのです。

彼は、福音を感じとっていたのだろうか。
主のわざが現され、主を崇めました。

さて、福音を見えなくするものは何か。
傲慢、自己絶対化、不安や戸惑いを抱える、などでしょう。
目が開かれる人は誰か。イエスに信頼し、熱心に、チャンスを逃さず、求める人でしょう。

私たちにどれほどの信仰があるでしょう。
福音は、失意のどん底でも、絶望の中でも、再度立って生きる勇気を私たちに与えてくださいます。
             ルカ 18章35〜43節







2007/05/10 0:16:47|先週の礼拝から
真の豊かさ
群衆の中の一人が、遺産相続の調停を願っているのを見て、イエス様は「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。」と言われた。
なぜなら人は、世の富に関して貪欲に支配され易いから。

貪欲とはむさぼりのことで、もっと多く欲しいと思う心であり、満ち足りない心です。
おもに、物欲と肉欲です。

イエス様は、例えの中の金持ちに対して、なぜ「愚か者」とまで言われたのでしょう。
畑の豊作は、神からの贈り物なのに、穀物や財産を蓄えて、神を見失っているからです。
神からのいのちの供給が絶たれるのです。

平成バブルの崩壊で5万人が自殺したそうです。
多くの日本人は、健康に気をつけるがいのちを大切にしないように見えます。

最近ある人が、 「心の弱い人たちのために役立てるように」 と多額のお金を提供し、それを見た人が 「俺はたとえ1万円でも無理だ」 とつぶやいたそうです。

さて、神の前に富む 「まことの豊かさ」 とは何でしょう。神が与えたいと望んでいるもの(愛、喜び、平安、寛容、・・・)に富むことが、 「まことの豊かさ」 であり、他のものは添えて与えられるものでしょう。

多額のお金を提供した人は、 「添えて与えられたもの」 を 「主の業」 として、提供したのです。

富を得ても、その富が神に代わることがないように、神に心を向けて生きられるよう、絶えず祈ろう。
                ルカによる福音書 12章13〜21節