小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/05/20 6:51:45|先週の礼拝から
神が共におられる生涯の祝福
神が共におられる生涯とはどんな生活だろう。

創世記にヨセフの人生が語られているが、39章には、 「主が・・共におられ」 と言う言葉が4回も出てくる。

ヨセフは、父ヤコブの年寄り子であったので、他の兄弟達より深く愛されていました。
それが、ヨセフ自身に自惚れを生み、兄弟達のねたみと憎しみを生む。

ある時、兄たちは、ヨセフを水の無い穴に落とした後、通りかかったイシュマエル人に売ってしまい、商人は、エジプトに連れて行って、パロの家来であるポティファルに売る。

ヨセフは、その家で良く働き、家全体の管理も任される様になりますが、体格が良く美男子であったため、主人の奥さんに言い寄られる。

ヨセフは罪を避けるため、奥さんを避けたのに、奥さんの嘘によって監獄に入れられてしまう。
だが、不思議な出来事を経てエジプトの宰相になる。

主はポティファルの家で、働く時も、監獄の中でも、エジプトの宰相になっても、ヨセフと共におられたのです。

主が共におられたので、行なう事が成功し、主が共におられたので、人柄が良くなり、人格が形成され、愛に満ちた性質になっていったのです。

主が共におられたので、人生までも主(イエス)に似たものにつくられていったのです。

第Uペテロ1章4節 に 「神のご性質にあずかる者となるためです。」 と書いてありますが、その通りになっていったのです。

私達も、絶えず祈りと聖書を通して、主に近付いて頂こう。
                       創世記39章1〜5節







2007/05/19 8:35:17|先週の礼拝から
死の備えとは何か
金井 浜夫 師のお話から

昔のカトリック修道院での挨拶に、死を覚えよという意味の 「メメントモリ」 という言葉が使われました。

今の日本はどうだろう。毎日のように災害で、事故で、死が報道されます。
ニュースを見ていると、肉体の死は、当事者にとって突然起きています。
肉体の死の時は、予測できないのです。

修道僧たちは 「メメントモリ」と声を掛け合いながら突然やってくる 「肉体の死」 を意識し、その備えをするような心掛けを持ちながら、今日を生きましょうと励ましあったのだろう。

では突然やってくる死への備えをどうすればよいのか。
人間にとって死の備えとは何か。

一般日本人の死生観は 「死ねばあの世へ行く」 のでしょう。
そして死者の魂は、自分達生存者に影響を与えるとされていて、苦しんだ死者とうかばれない死者からは、たたりという悪い影響があるというのです。

ですから神道ではお祓いをします。
仏教では念仏を読んで供養をします。

では、聖書の死生観はどうか。
個人の誕生は創造に、死は終末に対比されて書かれています。

ヘブル書9章7節に 「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」 と書いてあるように、肉体の死がある事と、世の終わりのさばきは別なのです。

どのように生きたかを問われるのです。
神が創られた一人ひとりはすべて尊いのです。
神の栄光を現すために創られたからです。

マタイ10:28も見て下さい。
『からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。』
と告げています。

イエスの憐みによって、第2の死から護られる魂は、喜ぶ事でしょう。

イエスを信じ続けて栄光の身体を戴きたいですね。

      ヨハネ11章17〜27、 39〜44節
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2007/05/18 8:31:47|先週の礼拝から
天国に国籍を持つ幸福
藤田 光一 師のお話から

私達の生活の過程には、思い煩いや心配事の原因になる事柄がたくさんあります。

それらに出会う時、 
「恐れるな。案ずることはない。
いつも、あなたがたと共にいます。」
と語ってくださる方を見上げて、事に当たりたいものです。

葬儀の時や、故人の記念会で読まれる言葉があります。
「私たちの国籍は天にあります。
そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」
という言葉です。

昨年、中田冨美子姉を天に送り、共に主を仰ぎました。
そして今も、共に礼拝をささげています。
神の平安があることを、絶えず覚えつつ、この地上の生活を歩ませていただきたいのです。

鮭や渡り鳥は、帰巣本能を持っていて、必ず生まれたところに帰ります。
人間にはそういうものが失われているようです。

何十年も離れていた生家に帰った時、 「ただ今」 と言って帰るのが自然ですね。
故郷という自分達の出てきたところ、いのちを得たところは懐かしさを感じるのが普通なのです。

それは、私達の潜在意識の中に、生まれる前から「何処から来て何処へ行く」という思いがあり、そして人間を超えた存在に対する畏敬の念をもって歩む宗教心があるところに現われているでしょうか。

アウグスチヌスは 「人は神によって創られたので、神の元に憩うときに、本当の平安と充足を得ることができるのです。」 と言います。

イエス・キリストが導く憩いを目指しつつ歩もう。

              ピリピ3章17〜21節
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2007/05/17 19:42:01|先週の礼拝から
喜びは力
古谷 晃 師のお話から

紹介するのは、事実を基に製作した映画だそうです。
ある女性が都会の大学寮で生活する過程で、サタンに傷つけられ、周囲に迷惑をかけ、田舎に帰る。

田舎の教会の神父を訪ねて、サタンからの開放を願ったがダメだった。
そして症状が悪化した。
幻をみたのだろうか、マリアが彼女の手を取って 「辛かったでしょう。天国に帰りましょうか?」 と問う。

更に 「あなたをこんなに苦しめているのは、世の中の人々がサタンの存在を軽視しているので、あなたを通して知らせようとなさっているのです。
それがあなたの役目なのですよ。
でも、辛かったなら天国に帰ってもいいのですよ。」 と付け加えたという。

彼女は、自分の辛い生活がそのまま役立つことを聞いて喜び、勇気を得て地上に残る決意をしたそうです。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」 
彼女は喜びを得て、自分を捨てる勇気を得たのだろう。

ネヘミヤの時代に、エルサレムの城壁再建が完成した時、律法を聞いて自分達の愚かさに気付いた民は悲しんだが、 「あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」 と聞いて、愚かな過去に悲しみに沈んだ自分達の力でさえ喜んで下さる主に感謝し、自分達も大いに喜んだ。

そして、町の再建に前進できたのだ。主から喜びを戴いて、置かれた所で最善を尽くして生きよう。

            ネヘミヤ8章9〜12節    ルカ9章18〜25節
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2007/05/16 7:51:37|先週の礼拝から
イエス様のために人間を釣る
デービット師のお話から
今日のメッセージは 「イエスのために人間を釣る」 というタイトルです。
アメリカのある伝道者の話を紹介することから始めます。

彼は 『毎日誰かにイエス様のことを伝える』 という目標をつくりました。
ある寒い夜、彼は寝床に入ったのですが、イエス様に 「あなたは今日、誰かにイエスのことを伝えましたか。」 と問われました。

「今日は疲れた。外は寒いのでカンベンしてください。」 と答え、眠ろうとしましたが、罪責感で眠れません。
それで、仕方なく伝道に出かけました。

ホームレスの人に出会い、 「あなたにはイエス様が必要です。」 と伝えました。
突然でしたから 「イエスは要らない」 と回答されましたが、彼が家に帰っておよそ1時間ほど経って、ドアをノックする音がします。

彼が行って見ると、先ほどのホームレスの人でした。
そして、 「私にはイエスが必要です。」 と言うのです。
伝道者は、喜んで福音を伝えました。

その伝道者は、神学校で学んだ牧師ではなく、普通の営業マンでした。
高校にも行かず、多くの人にイエスを伝えました。

イエスは、普通の人々 (普通の漁師) を呼んで、 「人間をとるようになるのです。」 と言って弟子にしたのです。

人々をイエスのもとに導くのが役目なのです。
人々はイエスのもとにある希望を知らずにいるからです。

福音を伝えよう。
祈ることから初めよう。
イエス様の感動の涙をもらおう。

イエスは人々が滅びるのを悲んでいるからです。

                       ルカ5章1〜11節
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