小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/05/23 6:23:08|先週の礼拝から
あふれる優しさ
教会といえば十字架と聖書が主体ですが、十字架はネックレスなどのアクセサリーや千差万別の飾り物になっています。

私が初めて教会に行った時、聖書の知識としては何があっただろうか。
アーメンとハレルヤだけで、 「雨が降ってもハレルヤ」 で 「晴天でもアーメン」 かぁ、程度の知識でした。

そんな状態でも一番の感動は祈りでした。
あなたにも祈れると言われて 「天の神様」 ・・・ 「ハジメマシテ」 と言って笑われた。

その私が聖書を一度読んで感じたことは、イエスは、なぜこれほど優しいのだろうということです。
マタイ11章29節に 「私は心優しく」 とあるとおりです。
多くの方々がこの言葉で九死に一生を得たことでしょう。

聖書とは何でしょう。
この聖書は世界180ケ国の言語に訳されています。
この しおり を見てください。
これは中学生に聖書を配るとき用いるものです。

第一に、聖書は全ての本の中で大ベストセラーだという事です。
今までに、1億冊以上です。

第2に、人生のマニュアルです。
人間の究極の目的を示しています。

第3に、聖書は真実の愛を語ります。
聖書の言葉に触れて自殺を留まった人は数え切れません。

今日、初めて教会に出席された H・T さんは私と机を並べていた営業マンです。
彼も私と同じように世の嵐にもまれて、自分の非力を思い知らされてきた一人でしょう。

今日、キリストの優しさに触れ、その愛に気付いて欲しい。
一緒にイエスについていこう。
                     マタイ11:28〜29







2007/05/22 6:01:29|先週の礼拝から
失望から希望へ
イースターおめでとうございます。

今日、覚えていただきたい事が一つあります。
「イースターって何」と聞かれたら、どう答えますか。
「十字架と復活です。」と答えましょう。

十字架だけでも復活だけでも不十分です。
セットなのです。
十字架の死と復活のいのちです。

私達の信仰が十字架だけで終わっていたら、イエス様は見捨てられた一死刑囚に過ぎず、神の子でも救い主でもなく、無意味に死んだ一人の宗教家です。
十字架は失望であり、その死は絶望です。

しかし、イエスはよみがえるのです。
希望に移されるのです。
週の初めの日の明け方、女性達が墓へ行ってみると、主の使いがおられて「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。」 と言われるのです。

リアルに描かれていますね。
「恐ろしくはあったが大喜びで」 と続きます。
悲嘆に沈み込んでいた彼女達の心に、恐ろしさと喜びが同居したのです。
そして、墓は死の象徴ですが 「墓を離れ」 て、死から決別したのです。

失望から希望の人生に移ったのです。
そして、 「知らせに走っていった」 のです。
このビッグニュースを全世界に知らせるためです。
「するとイエスが彼女達に出会って」と続いたのです。

私たちのイースターは、この復活のイエス様に出会うための人生だったのです。
私たちの過去の人生はイエスに会うための準備のようです。
彼女たちは喜びに浸りながら 「イエスを拝んだ。」 のです。

喜びにひたりながら。

                      マタイ28章8〜9節
                      4月8日に話された要点です。







2007/05/21 21:26:25|聖書
WEB上で聖書を読む
聖書をお持ちでない方、あるいは、聖書が身近にないときに聖書が読みたくなったら、次のサイトをどうぞのぞいてください。

新しい発見があると思います。


財団法人 日本聖書協会 のページ
 「聖書を読む」というアイコンがあります。
 
http://www.bible.or.jp/read/index.html


私たちの 「小さな教会」 で使っている聖書は 「日本聖書刊行会」 で発行している 「新改訳聖書」 です。

日本聖書刊行会 のページは次のURL です。

http://www.wlpm.or.jp/seisyo/







2007/05/21 19:32:15|教会イベント
賛美歌コンサート報告
賛美歌コンサート楽しかったなぁ〜

歌い手 & 伴奏者が 自由でのびのびと・・・。
聴衆は、身体を揺らす人、手を動かす人、涙ぐむ人、微笑む人、etc、それぞれに神様の恵みと憐みを味わうひと時になりました。

小さな建物ですから、家庭的なコンサートになってよかったかも。

心配していた参加者が多すぎでどうなるのか・・・結果は。
参加したいと言っておられたグループの方が、急に都合が悪くなってキャンセル(寂しい)がありまして、用意した椅子がわずか余りました。

「神様のご計画かな」 なんて言っちゃって。

時間帯が、いつもの礼拝時刻でしたので、プログラムの形式は礼拝式の形式をとりましたが、参加者の違和感はなかったようです。    ほっ!

終了後の 軽食タイムがまた楽しかったぞ。

会員が持ち寄った食事と飲み物を、バイキング形式で自由に食べました。
美味しかったなぁ。

思い出せるメニュー??
寿司、 赤飯、 サンドイッチ、 ポテトサラダ、 野菜サラダ、 山盛りフルーツ、名前がわからない料理もあったよ。

会話が弾みましたね。
ニコニコ笑顔と爆笑と。
1時間以上経っても、誰も帰ろうとしないのは、チョッピリうれしい予定外?かな。

記念写真の撮影までしちゃって。
神様ありがとうございました。

また、いつかできるかな。







2007/05/21 6:05:35|先週の礼拝から
受難週 「イエスの祈り」
 受難週 「イエスの祈り」

今日から受難週です。

イエスは多くの苦しみを受け、殺され、・・・ねばならないのを知っていました。
それでイエスは、処刑される30時間ほど前に、ゲッセマネという所で祈られます。

初めの祈りは、死を前にした 「苦しみの祈り」 と言われ、壮絶な苦しみに対する解決を祈ったのです。
神から裁きを受けるという杯を取り去ってくださいと祈ります。

次は苦難の祈りです。「イエスは、苦しみもだえ、切に祈られ、汗が血のしずくのように地に落ちた。」と書いてあります。

「血のしずくが流れる」 とは死を意味します。
これから起こる十字架の死です。

何の罪も無いのに罪人として処刑され、天の父との断絶という死
に向かう苦しみです。
全人類の罪を一身に負い、世の罪を除く神の子羊としての、身代わりの血を流すためだからです。
この苦しみは、他の誰も経験しなかった苦しみです。

私自身は、このイエスの御心を伝える力がありません。
あるとすれば、自殺を考えていた私のために死なれたと気付き、 「そうでしたすみません」 と受け取った時から、少しずつ増えていった感謝だけです。

思い起こす度に、祈らずにいられないのです。
「わたしの願いではなく、みこころのとおりに」 というイエスの祈りは、神への従順です。
私達には、神が用意している人生計画をそのまま受け取って、輝くことが求められているのだと思います。

          ルカ 22章39〜46節


2007年4月1日の礼拝式で語られたものの概要です。