小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/05/28 7:58:01|その他
お知らせ
いつもお立ち寄り下さいまして、ありがとうございます。

すでにお気づきの事と思いますが、 「先週の礼拝から」 に書かれた文章は、私どもの教会が始まって以来、語られ、要約の文章化されたものを、ほヾ毎日投稿してきたものです。

週に一度だけ語られるものを、毎日投稿し続けることなど、できるわけがありませんね。
現実に、昨日の文章を以って蓄えがなくなりました。^^

そういう訳で、今週からは実際の 「先週の礼拝から」 になりますので、週に一度しか投稿できなくなりました。
御承知くださいますようお願いいたします。

聖書の言葉に関心を持たれている方々に、主の祝福がありますように。
小さな教会を応援してくださっている方々に、心からお礼申し上げます。

管理者







2007/05/27 7:26:56|先週の礼拝から
イエス様を迎えたザーカイ
先週は賛美礼拝でした。
先々週の礼拝のお話です。

ザーカイという名の収税人が、イエスに会って変えられた時の様子です。

御存知のようにザーカイさんは、背が低かったので、その劣等感を持っていました。

その日は、エリコの町にイエスが来たので見たいと思っていましたが、道端は、すでに人垣ができていて、うしろから通る人が見えません。
前に入れてくれないかと頼みたいのですが、嫌われているので頼むこともできません。

それで、イエスが通り過ぎようとしていた所の、いちじく桑の木まで走って行って、それに登ったのです。

一息ついて下を見ると、イエス様が自分を見つめているではありませんか。
そして、「ザアカイ。急いで降りてきなさい。今日は、あなたの家に泊まることにしてあるから。」 と言われたのです。

何と名誉なことでしょう。
大喜びでイエスを家に迎えました。

食事のために座っていた時でしょうか。
ザアカイは、うれしくてじっとしていられません。

いきなり立ち上がって 「私の財産の半分を貧しい人たちに施します。」 と言いました。
他人に対する冷たい心は、温かい心に変えられていました。

更に、騙し取ったお金を思い出したのでしょう。 「私が騙し取ったものは、4倍にして返します。」 と宣言し、生活の態度を改めたのです。

この変化は、ザーカイが決心したように見えますが、神の愛と恵みが、ザーカイを卑屈さから開放したからです。
彼は愛の人になれたのです。

それで、イエスは 「きょう、救いがこの家に来ました。」 と宣言されたのです。

イエス様を、心に迎え入れることが出来た人は、幸いですね。

          ルカによる福音書 19章1〜10節







2007/05/26 5:43:10|先週の礼拝から
一人ひとりを愛するイエス
五月の連休も今日で終わりです。

私たちは復活されたイエス・キリストの恵と御業を、もう一度思い出しながら、私たち一人ひとりを顧みてくださるお方を、今朝も礼拝したいと思います。

ルカ4章の38節以降を見ると、イエスは、安息日の集会が終わってシモンの家に入り、シモンの姑をいやします。

「イエスがその枕元に来て、熱をしかりつけられると、熱が引き、彼女はすぐに立ち上がって彼らをもてなし始めた」 のです。
そして 「日が暮れる(安息日が終わる)といろいろな病気で弱っている者をかかえたひとたちが・・・・・イエスは、一人ひとりに手を置いていやされれた。」 と書かれています。

悪霊を追い出して頂いた人たちもそうでしょう。
大勢の中の一人に目を留めて愛され、苦しみから開放しておられたのです。

これらの記事以外にも、一人ひとりに声をかけ、一人ひとりに触れられて、苦しみから開放された例が、多数あります。

42節では 「イエスは寂しいところに出て行かれた」 ので、群衆がイエスを探し回って、自分達から離れて行かないようにしようとしたのです。
それ程に、一人ひとりを愛されたのです。

ところがここで、イエスは群衆の願いを理解できましたが、その願いをうけいれません。

「ほかの町々にも、どうしても神の国の福音を宣べ伝えなければなりません。私はそのために遣わされたのですから。」 と言われたのです。

イエスにとって、人々の病気を癒すことが最終目的ではなかったからです。

福音の宣教によって、全ての一人ひとりに、神の救いを手渡し、平案と喜びに生きることを手渡すことが目的だったのです。

私たちも、そのことに目を留め続けられるように祈ろう。

                         ルカ4章38〜44







2007/05/25 5:45:52|先週の礼拝から
多く愛する者
東京駅の丸の内広場にある一つの銅像に、ギリシャ語で 「アガペー」 という文字が刻まれています。

日本語では 「愛」 と訳されますが、愛と訳されるギリシャ語は、四つあります。
エロース、フィリア、ストルゲー、それに今日の主題の 「アガペー」 です。

この 「アガペー」 は、神が人に示されているもので、犠牲を負いながら、教えて、慰めて、助け続ける行動です。
日本語では 「愛とは何か」 等と名詞的な使い方が多いのですが、 「愛しています。」 という動詞です。

第一ヨハネ4章7節では、 「互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。」 と行動をともなう表現が含まれています。

キリストが私の罪を背負い、十字架の上で死んでくださったという行動なのです。

ルカ7章37節以降を見ると 「罪深い女」 の行動が書かれています。

彼女は、自分の罪深い性質を知ったのでしょう。
誰かが、イエスによって赦されるのを見て、自分も愛され、多くの罪も赦されることがわかったのでしょう。
イエスを愛し始めていたのです。

「香油の入った石膏のつぼを持ってきて、
泣きながら、
イエスのうしろで・・・・涙で御足をぬらし始め、
髪の毛でぬぐい、
御足に口づけして、
香油を塗った」 のです。

それで、 「あなたの罪は赦されています。」 という宣言を頂いたのです。

マザーテレサの行動にノーベル賞が授与されました。
ある記者の質問に、 「私はキリストの大きな愛に応えているのです。 福祉やヒューマニズムではありません。 私みたいな者がキリストによって罪が赦されたのです。 その事への信仰とイエスに対する償いです。」 と答えたそうです。

彼女も自分の多くの罪が赦されていると、わかったので、多くの愛するエネルギーをいただいたのでしょう。

                   ルカ7章46〜48節







2007/05/24 6:57:46|先週の礼拝から
神が共におられる人生−2
創世記は旧約聖書の冒頭にある書物ですが、神が人と共におられて、個人の人生に干渉した様子を記しています。
ヨセフもその一人で、先月も取り上げましたが、少し別の角度から見て行きましょう。

前回は、神が共におられたので、誰もが信じがたいと思うほどに成功したことが、語られました。

ヨセフは兄弟たちの誰よりも父の愛を受けました。
それが兄弟たちのねたみを生み、穴に落とされ、売られ、エジプトにつれて行かれ、エジプトで働きました。
兄弟たちのねたみが、ヨセフを困難な環境に追いやったように見えます。

しかし、ヨセフは、父から受け継いだであろう信仰と祈りによって、神の知恵を受け、困難を克服しました。
同時に、その困難と神との交わりは、彼の人柄を変え、人格形成に大いに役立ったのです。
主人の信用を得て、全財産を任される程になったのです。

主人の妻の嘘による誤解も、牢獄で暮らすようになったヨセフを苦しめたでしょう。
しかし、パロ王が見た夢の謎解きという神の助けによって、エジプトの王に認められ、更に高い地位に就く引き金になったのです。

ねたみや誤解さえも、神が共におられる人にとっては、他の人からねたみの原因とされる程の、益だと言えそうです。

神が共におられる人は神に喜ばれ、その人にとっては、計算外で計画外の成果を与えていただけるのです。

神の計画があることを覚えつつ、日毎の生活に励もう。
                    創世記 39章 4〜6節