小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/07/02 16:44:42|先週の礼拝から
新しい道
  岡田信常師のお話から      使徒の働き16章

人生の大半は、備えられた道ですが、予想しなかった新しい展開が起こされることがあります。
使徒の働き16章から 「新しい道」 が不思議なように開かれる様子を見ていきましょう。

6〜7節を見ると伝道を止められています。
そして、9〜10節では、来て助けてくださいと懇願されるまぼろしを見、それで、パウロたちは、ルデヤという女とその家族の救いを見たのです。

更に占いの霊につかれた女奴隷から、占いの霊を追い出したことをきっかけに、22節で群衆の拒否に会い、傷つけられました。

24節を人間的に見ると、伝道停止で落胆するところですが、こうした困難の時こそ、祝福があることの証明なのです。

パウロとシラスは天国の喜びを味わっていたのでしょうか。
26節で明確な神の介入があって、皆の鎖が解け、
31〜32節で看守と家の者全部が救われ、二人の傷が洗われ、救いの喜びが現されたのです。

キリストが十字架につかれ、死んでよみがえられたのは、神の全人類に対する最大の介入です。

神が道を閉ざし、神が道を開き、神が懇願を聞かせたのです。
神は、困難の中で祝福を与えます。

いこいの泉チャペルの集まりに新しい道を開いて導き、祝福されるのは神です。
決して誰かの頑張りではなく、神が共にいて祝福してくださり、神が教会を建てあげてくださるのです。
困難があっても、天の御国と祝福が見える事を覚えて、導きに従おう。     文責 柿沼








2007/06/24 21:10:06|先週の礼拝から
さあ、起きなさい
ナインという町の出来事です。
『やもめとなった母親のひとり息子が、死んで』と書かれ、先に夫を失い、今も息子を失って一人になった女の悲しみと絶望の情景が読み取れます。

イエス様は母親に向かって「泣かなくてもよい。」と言われました。
これに続く記事は、イエスの死と復活の序章であるかのように不思議が書かれています。

イエス様が棺に手をかけられた時の母親の心は、まだ一人息子の中に留まっていたでしょう。
だから、イエス様が青年に「起きなさい。」と言われた時の母親は、自分に語られたように感じたでしょう。

そして、ものを言い始めた息子を返していただきました。
「起きなさい。」という言葉は、母の心にも、周囲にいた人々の心にも語られ、その後の生き方を変えたのです。

絶望の中で聞いた「泣かなくてもよい。」や「起きなさい。」の言葉の中に、いのちがあるのです。
神は、馬小屋の飼葉桶に来てくださり、十字架上では隣の罪人に希望を与え、ご自身が死んでよみがえられ、女たちに「おはよう」と言われた(マタイ28:9)のに似ています。

今も私たちと共にいてくださるイエスご自身が、今も、「泣かなくてもよい。」、「起きなさい。」と言って下さるのです。
これは福音の現われです。

悲しみの涙が、喜びの涙に変えられるのです。

彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします。
                       詩篇84篇6節

                   ルカによる福音書 7章11〜17節







2007/06/17 20:14:18|先週の礼拝から
幼子を受け入れるイエス
通常、教会はどんな人でも受け入れます。
なぜなら、教会はどんな人でも受け入れるイエス・キリストを中心にしているからです。
キリストが中心にいない教会は受け入れないことがあるかもしれません。

私たちは、今の自分が存在すること事態が、神に受け入れられているのです。
そして、私たちが救われるのは、教えが理解できたらではなく、イエス様が受け入れられるからなのです。

今日の聖書を見ると、弟子たちとイエス様の心は異なっています。
弟子たちの間では、誰が一番偉いかという議論が始まっていたのです。
他の人に対して偉くないという評価をする心は、その人をみくびる心であり、幼子など対象外という心なのです。

その時の弟子たちの心は、イエス様が人に与えたいと願う、愛する心や、優しさによって幼子を受け入れる事など、想定外だったでしょう。

一方、イエス様の心は、誰でも受け入れる心です。
幼子とは、全く役に立たない、生産的ではない人の代表だと思います。
その無価値と見える幼子の手を取り、「このような者を私の名のゆえに受け入れる者」と言われたのです。
「受け入れる」とは、歓迎するという意味です。

あなたにどれほどの罪や、失敗や、欠点があっても、何もできなくても、幼子のように、イエス様を拒否しない心さえあれば、神は全てを赦し、受け入れ続け、完成へと導いてくださいます。

そして、イエス様と信仰の先輩の助けによって、自分が変えられたと気付くようになることでしょう。

なぜなら、神は愛だからです。
                      ルカによる福音書9章46〜48節







2007/06/10 14:33:49|先週の礼拝から
イエスからの八つの幸せ
中島総一郎師のお話から

マタイによる福音書の5章を読むと戸惑います。
イエス様は
「心の貧しい者」と表現しましたが、自分を支えるだろうと思う事柄(財産や健康や自慢の職業など)を、持っていなかったか、失うか、イエスのために捨てたか、心がこの世の富で満たされていない者は幸いだと言ったのです。

なぜなら、その様な人は、話している私(イエス)によって天の御国を喜んで迎え入れるからだと言われたのです。

「悲しむ者」とは、自分が罪深い者であることを自覚し、深く嘆く悲しみです。
正しいと思う行いができず、悪いと思うことを行なってしまう自分の弱さを知って、悲しむことを指します。

そのような人は、私(イエス)を見続けることによって慰められるというのです。

柔和な者、
義に飢え渇いている者、
あわれみ深い者、
心のきよい者、
平和をつくる者、
義のために迫害されている者  まで、八つの幸いが語られました。

(詳しくは中島師の著書「知恵に生きる」を、お読みください。)
イエスの十字架の愛を受け止めて従っていくと、「イエスが共におられる時、常に幸いである」 事が分かってくると語られた。

最後に、私(中島師)が今、生きていて、この話ができるのは、イエス様が私の罪を負って、あの十字架の上で贖いを完成して下さったからだと述懐しつつ感謝をささげられた。
                 マタイ五章3〜12節             文責 管理者







2007/06/03 17:15:36|先週の礼拝から
神が与えるもの
今日はペンテコステです。
クリスマス、イースターと合せ、キリスト教会の三大行事です。

イエス様は、過越祭の初日にご自身の身体を人々に渡され、十字架で死なれ、三日目の朝から四十日の間、よみがえりの姿を人々に示されて天に帰られました。

過越祭から五十日目、ギリシャ語でペンテコステ、和訳では五旬節の日に聖霊が激しく注がれたのです。

使徒2章を見てください。「みなが集まっていた。すると突然」という表現から始まります。
よみがえられたイエス様に出会い、天に上げられたイエス様を見た人たちが集まっていたのです。
すると突然、家全体が響いたのです。

どんな響きでしょう。
「激しい風が吹いて来るような響き」と書いてあり、「炎のような分かれた舌が現われて」と続きます。
「風のような響き」は神の息を、「炎のような舌」は、神による言葉と受取れます。
いろいろな国の言葉を話すように、弟子たちを変えたのでしょう。

14〜40節では、ペテロの態度が一変して、大胆に説教をし、三千人ほど弟子に加えられた様子が書かれています。
約束された聖霊が注がれて変わったのです。
こうして世界で最初の教会がスタートしました。

神は、信じて悔い、改めた人を、今も赦してくださいます。
それだけでなく、その一人ひとりに聖霊を贈られます。
そして、最もその人らしく生きるように変えてくださいます。

私たちも感謝して聖霊を心に受け入れ続けましょう。
                       使徒の働き2章1〜8節