小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/08/07 8:42:22|先週の礼拝から
主の御名を誇る恵み
聖書が朗読されました。(詩篇20章7〜8節)
ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。
彼らは、ひざをつき、そして倒れた。しかし、私たちは、立ち上がり、まっすぐに立った。

中林篤朗師のお話から

 私は27歳の時にギデオンの聖書を頂き、書いてある内容が、私の生き方と違っている事に驚いたのが始まりでした。

今日の聖書の言葉もその一つですが、 「彼らは・・・倒れた。しかし、私たちは・・・立った。」 と書いてあります。

その頃、会社での仕事がうまくいかず、配置転換を願って職場も変わりました。
周りの人は親切でしたが、仕事の成果は上がりませんでした。
そんな折に酒席があって、お酒は好きでしたから多量に頂きました。
翌日、風邪の症状が出たので会社に電話し休暇を願い出ますと、上司は親切にゆっくり休むようにと言って下さいました。

風邪薬を多量に飲み休みましたが、目覚めた時は、幻覚症状に陥っていました。聖書の言葉が思い出されます。 「私たちは・・・主の御名を誇ろう」 「愛がないなら何の値打ちも・・・」 「愛を・・・」。

自分に愛が無く、罪の中に居ることを感じたのです。
近くの教会に行くようになり、イエスの十字架による赦しを信じて、楽しく積極的な生活を得ました。

それでも、戦いの道具や馬で表現された自分の能力を頼る生活をして、以前と同じ失敗をしたのです。

35歳で神学校に入りました。卒業後に失敗した時も、主は御名によって立ち上がらせて下さり、喜びと平安を返してくださいました。

「私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう。」                        文責 芳賀・柿沼







2007/07/31 23:04:54|先週の礼拝から
この福音に賭ける
イエス様がツロとシドンの地方に立ち退かれたとき、「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです。」と叫び声をあげるカナンの女に出会いました。

イエス様の噂を聞いていて、その方なら娘の病を癒して下さると信じていたのでしょう。
イエス様は女の願いを聞き入れて、その娘の病を癒されたのです。

さて、マタイはこの出来事を、女の信仰に焦点を合わせて書いています。

23節、イエス様は一言も答えないし、弟子達は女が叫びながらついてきて困るから帰してやってほしいと言っている。
そして、私はイスラエルの滅びた羊以外には、遣わされていないというイエス様の声が聞こえます。

それでも女は、イエスの前に来てひれ伏し、「主よ。私をお助けください。」と願ったのです。
すると、「子供たち(イスラエル人)のパンを取り上げて、子犬(異邦人)に投げてやるのは良くない」と言われました。

女は、自分が異邦人と呼ばれているのを知っていましたから、「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」と訴え、にじり寄れたのです。

女は、異邦人と呼んで自分達をさげすむような立場にあるイエスを前にしたのに、イエスの福音に賭けたのです。

つまり、あなたの恵を受ける資格などない者ですが、こぼれる恵を拾わせてくださいと心で答え、その謙虚さと熱心さがイエス様に「あなたの信仰は立派です。」と褒められたのです。そして願いが聞かれたのです。
マタイ15章21〜28節







2007/07/24 13:58:50|先週の礼拝から
金持ちとラザロ
先々週に続いて神の国の説明ですが、今日のお話は、死という問題にどう向き合うべきかが語られていて大切です。

金持ちは、自分の先祖がアブラハムだから、死後はアブラハムと同じ世界にいくという意識(選民意識)がありましたが、二つの問題がありました。

第一は快楽のために人生を費やしたこと、第二は門前に貧しいラザロがいて、助ける力があるのに無関心であったことです。
「斧もすでに木の根元に置かれています。(ルカ3章9節)」とヨハネが警告している対象でした。

イエスは、全身おできの貧乏人で寝ていたラザロが、死後はアブラハムに抱かれていたと言います。

死後の永遠の安息に入る人はどんな人でしょう。

第一に、ラザロは誇るものが何もなく、全身のおできを自分の罪によるものと感じたまま(当時の感じ方)、自分を神の前に出し、へりくだっていただけです。
へりくだるとは罪を認め悔い改めることです。

第二に、聖書の言葉に従う人です。
どんな奇跡が起きても聖書の言葉を信じない人に神の救いはないからです。

神は、生涯の節目となるような大事件(神の国)に直面した時も、み言葉どおり導いてくださるのです。

この世にあっては、辛く、苦しく、ぶかっこうなまま、神の恵みに飛び込んでいけばイエス様が抱きしめてくださいます。

死後の世界は、死んで復活したイエス様だけが御存知なのです。

                        ルカによる福音書16章19〜31節







2007/07/17 7:43:07|先週の礼拝から
信仰のスタート
佐野謙次兄のお話から

マタイによる福音書は 「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」 という言葉で始まる。

「彼(アブラム→後のアブラハム)は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。(創世15:6)」 と記されたアブラハムの信仰が、従順のイサク、策略のヤコブ、・・・と継承されます。

そして、預言者や王達といった、キリストを世に出すための長い信仰の連鎖を経て、ダビデの子孫イエス・キリストによる赦しの福音が明確に現されたのです。

その過程でイザヤは、来るべきメシアについて 「彼は主の前に若枝のように芽生え砂漠の地から出る根のように育った。(なのに)彼には私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」 と預言した(イザヤ53:2)のです。

マタイが書いた系図には、ユダヤの指導者たちの誰も気にしないような4人の女性が含まれていますが、信仰の人達でした。

私達もつまらない人間ですが、信仰の系図に入れられている限り、大きな責任と名誉を神から頂いています。

ホーリネス教団の柴又教会 (話をされた佐野さんの出身教会) も一人の女性の信仰を基にスタートし、車田師、本郷師などの支えを得て今日まで来ています。

いま、この地にある教会の意義を信じたい。(小さな教会の事)

より深くキリストを知ろうとする切実で敬虔な願いが必要ですが、主の恵を信じ、生涯を聖霊の働きに委ねていきたいと願います。
                  マタイ1章1〜17節                文責 管理者







2007/07/09 17:30:05|先週の礼拝から
神の国は心にある
「人は何の為に生きるのでしょうか」という質問は、大方の日本人にとって回答するのが難しいようです。

私が二十数年前にアメリカへ行った時、ホームステイ先の奥さんが 「あなたの人生のゴール(目標)は何ですか」 という質問に、教会に行っていたにもかかわらず答えられませんでした。

イエスは 「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」 (マタイ6:33)と言われました。
ここに目標があります。

神の国とは、神の支配下にあるということです。
神の国はいつ来るのかというパリサイ人の質問に、 「神の国は、あなた方のあなたがたのただ中にある」 と答えられました。

では、神の国に入れるのは誰か。
条件はありません。
どんな人でも入れます。
なぜなら神の国は、恵と愛で満ちているからです。

神の国に入っている人はどんな人か。
イエス様を信じ、 「どうか神の国に入れてください」 と願い求め、イエス様につながり続けることを決心した人です。

神の国に入った人はどうなるのでしょう。神が自分の全ての罪を赦して下さったことがわかるので、他の人の罪過を次第に赦せるように変えられます。
これを 「和解する」 といいます。こうして新しい交わりが生まれます。

あなたが求めるなら近くにあります。 「なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。」ローマ14:17節
 
                   ルカによる福音書 17:20〜21節