小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/09/11 21:13:07|先週の礼拝から
人生の重荷をおろそう
み言葉を彫りこんだ石の板が、チャペルの正面玄関脇に設置されました。

すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
わたしがあなたがたを休ませてあげます。


マタイ11:28ですが、この言葉で前進しなさいと神から無償で与えられたのです。

今日はこの永遠に朽ちることがないみことばを考えて見ましょう。
私個人が若かった頃に仕事で感じた重荷を思い起こしますと、成果主義からくる営業ノルマ、目標、取り越し苦労、取引の心配といった類でした。

しかし、イエス様が言われたのは何でしょう。心や魂の重荷です。
第一は孤独。
米国で9年間の調査によると、一人ぼっちだと思っていた人の死亡率が最も高かったそうです。
集団の中にいるのに孤立するのは大変な重荷なのです。

第二は空しさ。
人生の意味や目的を把握できないと、なぜ生きているのだろうという疑問が起きたとき乗り越えられない場合があって苦しみます。

第三は罪責感。
これは大変な重荷です。

第四は死の問題。
一般的に死は誰も避けたいようです。
日本人は同じ発音の“4”を嫌がります。
死が重荷だからです。

これらの重荷をおろすためには、少なくとも一つの重荷を自覚してキリストの元に行き、神の招きに応えるだけでよいのです。
イエスは、孤独、空しさ、罪責感、死の恐れ等から開放するため、人類のすべての罪を十字架上で負い、よみがえってくださったのです。

赦された者として歩み続けられるようにしていただきましょう。

マタイ11章28〜29節







2007/09/05 5:39:16|先週の礼拝から
主の御手の中で
今日は、5000人の給食の記事のところですが、そのストーリーは多くの方が御存知です。

それで、何故それが起こされたのかを考えて見たい。
この物語は、重大な事件だった事を物語るように、四つの福音書の全てに書かれている。

先ず、イエスは弟子たちに「あなたがたで、何か食べる物を上げなさい。」と言ったのですが、弟子たちの戸惑った様子が書かれています。

男だけでおよそ5000人もいて、人里離れた所だ。
買いに行くにも遠いし、お金も足りない。
手元には五つのパンと二匹の魚しかない。

1万人を超す人の腹を満足させる方法など思い浮かばない。
だから先程、解散させてくださいと申し上げたのだ。
無理だ。
できない。
弟子たちには、優しさが足りないのです。

イエスの御心は人々が「羊飼いのいない羊」のように見えて、「哀れみ」に満ちていました。

このイエスの心を信仰者が受け継がない限り、この不思議が現された意味が無くなる。
今、この不思議を受動的に知りすぎている為なのだが、イエスの「哀れみの心」の裏返し状態にあるのだと気付かない限り、心は冷え、救いが伝わりません。

五つのパンと二匹の魚にも満たない様な私達ですが、それを捧げる時、主の御手の中で大きく広がると信じます。
例えば、何かしてあげることができませんかと、イエスに願う事から始めませんか。

キリストは、私たちにできることを示してくださり、その事を実行することを期待しておられでしょう。

そのために、この給食の不思議を現されたのではないだろうか。

.           ルカ 9章10〜17節







2007/09/02 23:15:54|先週の礼拝から
恐れないで語り続けなさい
有田貞一師のお話から

栃木市には初めて来ました。
私は兵庫県西宮市出身ですが、自宅近くの集会で、S58年11月34歳で救いを経験し、御茶ノ水聖書学院で学び、現在、相模原古淵伝道所の牧師をしています。

さて、パウロは3回の伝道旅行と囚人としてローマへの旅行をしています。

今日のテキスト、使徒18章は第二次伝道旅行でルステラ、ピリピ、テサロニケ、そしてアテネを経由してコリントに来たときのことです。
コリントの町は、ギリシャの重要な商業都市ですが、当時不品行の代名詞となるほど偶像礼拝が氾濫欄している所でした。

パウロは安息日ごとに会堂で論じ、福音を伝えたが、6節には、「彼ら(ユダヤ人たち)が反抗して暴言を吐いた」と書かれているように、ユダヤ人たちの福音拒否は激しいものでした。

9節を見ると、主は幻によって「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。」とパウロに言います。

パウロは何を恐れていたのだろうか。
第一は、ユダヤ人に対するものだ。
14章でパウロは石打の刑を受けたのだ。

第二は、過去の自分自身に対する恐れだ。
パウロは迫害者だったので、福音はムシが良すぎないかと。

第三は、初めて行くヨーロッパの、福音への無関心と軽蔑です。

こうした恐れを感じていたパウロの心を励ますため、主は「語れ。」「黙ってはいけない。」と言われたのです。

この小さな教会で、小さな集まりで、恐れを感じることがあっても、ともにおられるイエスに従って語り続けよう。

                   
使徒18章1〜17節  文責 芳賀、柿沼







2007/08/29 7:42:48|先週の礼拝から
もう一人の息子
放蕩息子の例えには息子が二人登場します。

先週は弟の道楽息子でしたが、今日は兄です。
パリサイ人や律法学者がこの兄に近いのですが、一般的になぜ道楽息子を大切に出迎えるのかと思うでしょう。

この思いがパリサイ的思考です。
イエス様は兄息子の父に対する仕え方に光りを当てているのです。

兄は、弟を愛する父の行動が不満で怒りました。
それは、喜んで仕えたのではなく、29節の訴えに出ているように自分の欲求を我慢で抑え、奴隷が仕えるように仕えていたので、弟の放蕩(道楽)に嫉ましさを感じて赦せなかったのでしょう。

読者の皆さんはどうでしょう。
自己中心的な思いでは、喜んで奉仕出来ません。

仕方がないからするとなりがちなのは、人間の自己保身という罪から来る弱さですが、律法を守ることに専念した兄息子の内側と同じになるのです。

父は兄息子に対して、「おまえはいつも私といっしょにいる。
私のものは、全部おまえのものだ。」と言う。

神と共に生きる信仰には、いのちの喜びがともないます。
神と交わりを続けるので、光と祝福があり、霊的成長と人格的成長を伴なうのです。

28節に戻ると、『父が出てきて』と書いてあるように、わざわざ出てきて兄息子をなだめ、弟息子を愛する理由も教えてくださるのです。

弟息子のとき『走り寄り』ましたが、兄息子に対しても 『わざわざ出てきた』 という行動を起こしているのです。
これがイエス様の性格なのです。

イエスの心を感じながら、神との交わりを喜びましょう。

ルカ 15章25〜32節







2007/08/27 16:38:34|先週の礼拝から
走りよる神
放蕩息子の例えと呼ばれる部分です。
ここで放蕩を道楽と言い換えると分かり易いかもしれません。

道楽息子の次男と父の話です。
父の財産を生前贈与の形で頂きたいと次男が申し出る事から始まり、父はそれを了承します。

すると次男は、父の家畜や不動産などの三分の一を自分が受け取る分として現金化し、家から遠く離れてしまったのです。
受け取るのが当然だと思っていたからです。

そして、お金と暇を得た彼は道楽を始め、父から得た財産を湯水のようにして使い果たしてしまいました。
生きる為に豚飼いの仕事さえ手伝ったが、その国に大飢饉が襲っていたため彼の食べ物が少なく、豚の餌を食べたいほどになったという。

現実の世ならどうだろう。
生前贈与として受けた財産を、道楽で失った者なら勘当されます。
家には帰れないし、良い仕事はないし、以前の友人達は近寄らない。

自殺寸前の彼は自分を見つめ、父(神)の心を無視した(罪)自分、わがままな自分、誘惑に弱い自分に気付いたのです。
そして彼は、父(神)の使用人にしてもらおうと家路に着いたのです。

そして 「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」 と語られたのです。

神は、神に帰ろうとする私たちを遠くから私たちを見つけて、走ってきてくださるようなお方なのです。

                 ルカによる福音書15章11〜24節