小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/10/15 8:51:43|先週の礼拝から
どこへ行くのか、知らずして
三浦喜代子師のお話から

 前回こちらに伺ったのは、昨年9月に H さんのお住まいで持たれた集会でしたが、こうして会堂が与えられているのを見ますと、神のダイナミックな御業を見るようで驚きます。

さて、カランの町の人々は、この世の価値観で生きていたが、主はその中のアブラハム(この時はアブラム)を選び 「私が示す地に行きなさい。そうすれば、私はあなたを祝福し・・」 と彼の心に語りかけられた。

75歳の彼をなぜ選んだのか分らない。
彼は妻のサライと甥のロトと関係者を伴ない、心に語りかける言葉を頼りに出発したのです。
旅と行く先でどんな生活があるのか知らないままなのだ。
ヘブル書11:8に 「どこに行くのかを知らないで」 と書かれている様に出かけたのだ。

これは私たちの信仰のスタートでもあろう。
私も 「15歳の時、教会に導かれ」 3ヶ月後には、 「罪とその赦し」 を知り洗礼を受けた。

さて、アブラハムはカナン地方に入るが、飢きんのためエジプトへ行き、妻を妹だと嘘をついて失敗を起こすが主は彼を守られる。
また、彼と甥ロトのしもべ同士が争いを起こしたり、周囲の王達との戦争が起きたりしたが、主は彼を守られた。

これらの後、15章で相続財産が何かを教えられる。
まだ話の半分だが終わりの時刻だ。
私たちも未来がわからなくても、先頭に立つイエスにどこまでもついていこう。 
                                         創世記12章1節  文責 H&K







2007/10/10 23:20:38|先週の礼拝から
むなしい日々から喜びと感謝の日々へ
H婦人の体験談から

私は戦災に遭い貧しい生活の中で育ちました。
成人した頃には空しさに襲われ生きる目的を失っていた時でしたが、羽仁もと子の信仰篇を読む機会が与えられ、創造主なる神と出合った。

そこで自分の罪を教えられキリストの十字架による身代りの救いを信じて罪赦され、新しく生まれる変わる体験をした。
私は生きる目的を見出して喜びに満ちた経験をする。

続いて 「神の国とその義とを求めよ。そうすればすべてのものは添えて与えられる。」 とのみ言葉に生きるように教えられて励んでいたが、ある誤解から苦しい日々を送るようになった。

神様と取っ組合いのような祈りの末、私が降伏した。
人を愛せない自分を見たのである。
もう一度悔い改めて新しくされ、晴々とした思いになった。

それ以後、今まで気付かなかった罪を次々と教えられ、自分がどんなに罪深いかを気付かされた。

その後、神さまは恵みのわざを現し始められたのだ。
先ず、誤解が消え、祈りの課題に光が当てられ 「主の手は短かろうか、あなたは私の言葉が成るかどうか見るであろう」 と迫って下さり、信じて祈り続けた時、子供達を救い献身へと導き、主人に驚くべき愛の業を成して下さり、私の姉や主人の両親を救いに導いて下さった。

長い間の 「祈りという水」 を汲み続けた私には、これらが主のみ業である事がわかるのです。

まことに主は真実で素晴らしいお方です。感謝!
                            ヨハネ14章6節       文責 管理者







2007/10/01 11:35:34|先週の礼拝から
罪の赦しを宣言するイエス
今日は、「友よ。あなたの罪は赦されました。」(20節)が出来事の中心テーマです。
同時にルカ伝全体の最も重要な位置を占めているところです。

さて、イエス様が病気を直し、神の国の福音を教えておられたが、イエス様の前に、中風の男が、寝床に乗せられたまま、つり降ろされました。
それを見たイエス様が、冒頭の言葉を言われたのです。

聖書を読んでいくと、男達は、罪を赦してくださいとは言わず、中風の者を助けたかったのです。

しかしイエス様は、罪の赦しを宣言したのです。
なぜ中風のいやしを先に行なわなかったのだろうか。
イエス様が来られたのは、病を癒すことが目的ではなく、人々を神に引き戻し、祝福を与えることにあったからです。
医者の役割は二次的なことなのです。

動機が何であれ、信頼して熱心に近づく者に対して、罪の赦しを宣言するのです。

旧約時代のダビデ王は、不倫と殺人という悪事を行いましたが、神を見失っていた罪を悔いたので赦されました。
石打の刑を受けるべき姦淫の女に対しても、イエスは「私もあなたを罰しない。」と宣言したのです。

そのために、ご自身が十字架に架かり、人々の罪を御自分が負って、和解の道を完成されたのです。

神との和解を通して愛されることを学び、人々との和解が進められるために、共に歩んでくださるイエスを見上げて生きたい。この恵を受け止め続け、主を喜ぶ賛美をしよう。            ルカ5章17〜26節







2007/09/25 7:36:19|先週の礼拝から
新たに生まれ変わらなければ
このところに登場するのは、ニコデモという名のユダヤ人の指導者(サンヘドリンの議員)とイエスです。

ニコデモはパリサイ人なのに、夜、こっそりイエス様の所に来て、彼の信仰を告白したのです。
イエス様のなさる不思議を見聞きして神の力を感じていたからです。

そこでイエスが 「人は、新しく生まれなければ、神の国を見る事はできません。」 と教えたので、ニコデモが「もう一度、母の胎に入って?」と聞き返したのです。
まるで掛け合い漫才のボケ役のようです。

イエスは更に、 「肉によって生まれたものは肉です。」 と教えました。
肉によって生まれた人が努力して真面目に生きても、永遠のいのちなる霊を、獲得できないことを教えようとされたのです。
御霊によって生まれる必要を教えたかったのですが、もう一度生まれ直すと誤解したのです。

新しく生まれるとは、“聖霊”の働きであって、イエスのいのちが内側に与えられ、新しい生き方を始めるのです。

5節の“水”とは死を意味します。
パウロは、ガラテヤ書6章14節で「この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまった。(口語訳)」と言っています。
以前の自分が死に、上からの霊によって生きているというのです。

聖霊による新しい創造とその実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、柔和、自制です。これらから目を逸らさないように生き続けたい。
                           ヨハネ3章3節







2007/09/20 16:28:12|先週の礼拝から
向こう岸に行く信仰者
藤田 光一 師のお話から

 キリストの教会を現すシンボルには、十字架のほかに魚、舟があります。

今日のテキストで、イエスは弟子たちを舟に乗せて、向こう岸に行きなさいといわれた。
陸からかなり遠くなっていて逆風と大波によって漕ぎあぐねていたとき、イエスが水の上を歩いて来られたというお話です。

向こう岸には、多くの悩む人、病む人、苦しんでいる群集がいたので、イエスは神の国の福音を伝えようと思っておられたのでしょう。

ここでこの部分から、今の教会は何を汲み取れるのかを考えてみたい。
後に、大伝道者となるペテロが登場しますが、おそらくこの物語を群衆に向かって語ったのは、ペテロ自身だったでしょう。
主は 「湖を歩いてこられ私を助けて下さったのだよ。」 と語り、 「その時は、イエス様に『信仰の薄い人だな。』と言われました。」 と告白したのでしょう。

現在、この教会も、小さな舟のような存在で、私たちは向こう岸に行くように言われて送りだされた信仰者だと言えるでしょう。

世の激変に弱さを覚える時、 「わたしだ、恐れるな。」 との声を思い起こし、無関心という逆風の時、イエス様を仰いで平安をいただきましょう。
イエス様は、湖の上を歩み寄って下さるのです。
それは聖霊なるお方による恵みなのです。

主を仰ぎ、舟にお迎えし前進する者とさせ続けててくださいますように。
                 マタイ14章22〜33節    文責  芳賀、柿沼