小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2007/11/26 16:50:54|先週の礼拝から
人生の転機
久保 昌子 師のお話から

私の三つの人生の転機を、エペソ2章を見ながら振り返って見ようと思います。

先ず1〜3節。
私は、世間一般のダンスとコーラスを楽しみ、不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいたので、良い事をしようと思うのにさせない力が自分の中に働いていました。

自分の肉と心の望むままを行ない、優越感と劣等感に振り回され、妬みや競争意識が強い者だった。

その頃、小学5年の妹が 「教会に行こう」 と言う。
歌が好きだからです。
牧師の説教の印象は何故か 「神は生きておられる」 という事でした。
そして「信じる者は永遠の命が得られる」と聞き、心に賛美が聞こえました。

次に4〜7節、4節の 「しかし」 以下の言葉で私の人生はなんと汚れているかと思わされ、それが罪だと分かったのでした。

更に、ある方のバイエルを持ってきちゃったのを思い出し、謝罪して返しました。

この後、汚れた私のために、十字架で死んで下さった方による喜びがあふれ、人生が変わりました。
これは聖霊による恵みでした。
自分自身から出たことではなく、神からの賜物でしたから誇れないことです。

そしてゴールは6節、 「キリスト・イエスにおいてともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせていただく」 ことです。

ルカ22:39〜40に 「いつものように」 「いつもの場所で」 とありますが、それは何ものにも代えがたい恵みであり平安なのです。
感謝。   
                 エペソ2章1〜10節   文責 芳賀、柿沼







2007/11/20 7:39:10|先週の礼拝から
生きるための力
今日は、山上の説教の最初の御言葉です。
イエスさまは、心の貧しい者は幸いですと言われました。

私はこの御言葉の中身を知りませんでした。
いろんな解釈をする人がおります。
潤いがなくとげとげしい心で、心が狭く自己中心の心。
謙遜な心などです。

しかしそのどちらでもなく、「心が、乞食である人は幸い」という意味です。
それも最低のランクで、朝、昼、夕食と誰かに恵んでもらわないと生きられない乞食のことです。
乞食は、自分の力では食べていけない、誰かにすがらなければ生きられない程に貧しい人です。

もう一つはワナワナと座り込んでしまう程、おびえきってしまって自分の力がなくなってしまう状態の人です。
その人は一日でも、ひと時たりとも神にすがらなければ生きられないのです。

さて、普通の幸いとは、原語でパップ、つまり偶然という意味で、ハッピーは偶然に左右されており、再び不幸がおそってきて青い鳥のように逃げさっていくのです。

しかし、聖書に記された幸いとは、神が与え、守り、導いて下さる祝福なのです。

信仰にもハプニングのように見える事があるが、それは神の摂理であって偶然ではありません。
イエスに対する信仰という土台のある生活は、試みの時も逆転の恵みに導いていただける幸いです。

これが貧しく生きる者の力です。
神によりすがらなければ生きていけない人は幸いです。
神の平安と安心の支配の中に入り、その祝福はその人のものとなるからです。
                       マタイ 5章1〜3節







2007/11/07 12:32:26|先週の礼拝から
最高の友だち
中林 篤朗 師のお話から

今日のテキストの部分で、イエスは長い言葉を費やして、喜びが満たされるため、わたしの戒めを守れ。
そして 「あなたがたは私の友である」 と言っている。
これは 「私も君達も仲良しでいいね。」 という事ではありません。

あなた方が私を愛しているかどうかは別にして 「あなた方は私の愛のうちにいるのです」。
私があなたがたを愛し、父の心をすべて知らせたので 「友」 なのです。
丁度、父がアブラハムにお語りになったように、隠していては水臭い、どうしても自分の考えを、その理由、その目的、意図等、何もかも打明けて、私と同じ理解とを持たせたかった。
すでにそうなっているので、友の関係に入れられている。」と言われたのです。

こう言って下さった時の信頼の程度は驚くべきものです。
13節で人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていませんと言われましたが、イエスは友である信じる者たちのために最大の愛を示されたのです。

イエスが命を捨てて下さった程の愛に包まれていると自覚した友は、今度は行って喜びを伝える仕事を与えられているのです。
神学校を出て、按手を受けて、聖なる職務に任じられている人だけでなく、イエスによって義と認められ、ご自分の命を捨てる程に愛されているクリスチャン(最高の友)が、この尊い任務のために立てられているのです。
                     ヨハネの福音書 15章9〜15節  文責 管理者







2007/10/31 14:58:11|先週の礼拝から
隣り人として歩む
平野信二師のお話から

ある律法学者が来て 「どうしたら永遠のいのちを得られるでしょうか。」 とたずねた。
彼はそれを得たいと願い、得られる確証が欲しかったのだ。

イエスは 「律法には何と書いてあるか。」 と言われ、彼は 「あなた自身のようにあなたの隣人を愛せよ。」 とありますと答えた。
それでイエスは 「その通りです。」 と言われたが、彼はその通りにしていますと言いたかったので、 「私の隣人とは誰でしょう。」 と返答した。

そこでイエスは聖書に書かれたように例え話をされ、 「怪我人の隣人になったのは誰か。」 と問う。

この例話が私たちにとってどのような意味を持つだろうか。
例話の「見て、可哀想に思い、近よる」がカギだ。
それが、怪我をした人の必要に応えたのだ。

気付くべき事は、隣人の状態が愛する心を生み出すのではなく、愛する心が隣人を生み出すのだ。

愛する心が「自分の命もかえりみず」必要なものを与える原動力だから。

可哀想とは「はらわた」という意味だ。
神は、人々を見てはらわたに痛み覚え、近よってご自身を与えたのだ。

もう一つの課題として、隣人とは誰か。
隣人には、あなたが近づいていく人と、あなたの近くにいる人と、あなたに近づいてくれる人と、あなたの隣人になってくれた人などがいる。

そして、隣人であるイエスに気付いて欲しいのだ。
同時に、自分では、律法の要求に応えられないという気付きを、イエスの前に出すことが大切です。

イエス様、私の隣人になって下さいと祈るなら、イエスはあなたの隣人であり続けるでしょう。
永遠のいのちは、私たちの生き方に現れるものです。
                 文責 芳賀、柿沼、             ルカ10:25〜37







2007/10/25 17:42:03|先週の礼拝から
人生観
今日の午後は中田姉冨美子姉の記念会がありますので、短いお話です。

さて、人にはそれぞれが意識するかしないかの違いがあるが、人生観がある。
先々週、プロゴルファー中島常幸氏の証をVTRで観ましたが、彼は独特の考え方をしている。

その言葉の中に 「人間的な枠を超えた驚くばかりの恵み」 とか 「(ゴルフの)試合は神を知る場だ」 と言っている。
風の変化等は打球の行方に影響するが、神の関与を感じるというのだ。

更に、 「プロはピンの位置から逆算して、今の目標点を決めて打つ」 とも言う。
中島さんは神の国というゴールを目指して、今をどう生きるかという人生観だと言うのです。

身体の“死”の到来という少し先の現実に、復活という希望を目指すのですが、それはパウロが言うところの 「信仰と希望と愛」 などに今を生きる事でしょう。

神の愛に生きる事の先に人生の幸いなゴールがあるからです。

ガラテヤ書5章に 「愛によって働く信仰だけが大事なのです。」 と書かれていますが、尊いのはキリストの愛によって働く信仰です。

今日は中田冨美子姉が召されて1年になります。
75歳の生涯でしたが、彼女はこの世に生まれてきて神の愛を知り、その愛にあずかった方でした。

私たちのために十字架で死に、復活されたイエスの御愛を受け止め、それにあずかり続ける事こそが幸いな人生観でしょう。                         コリントT 13:13