小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/04/06 0:39:55|先週の礼拝から
悲しみから喜びへ
私の妻春子の葬儀に際し、御協力と共にお花料などのお心遣いをいただきありがとうございます。
また、生前の御厚情に感謝申し上げます。

妻の“死”、それは悲しみでした。
今後を思って苦しみました。
私も男泣きに泣いて、泣いて涙も枯れる程です。
ひと時、妻の死と、妻が助けてくれた事の大きさしか見えませんでした。

でも今日のタイトルは 「悲しみから喜びへ」 です。
逆転の救いですね。
全てはキリストの復活に関わりがありますが、この喜びを三つに分けてお話します。

T列王18章22節〜では、エリヤは主の名を呼び、たった一人で450人のバアルの預言者と対決し大勝利したのに、19章4節では死を願う程に絶望しています。
あの時のエリヤは、主による未来に気付きませんでした。

十字架の“死”に立ち会った弟子達は「しばらくするとわたしを見る。」と言われたことを理解できず思いだせず、主のよみがえりによる未来に気づきませんでした。

エリヤは主の新しい導きを得て大いに活躍します。
ヨハネ16章20節、弟子達はよみがえりのイエスを見る時、悲しみは喜びに変わります。
師の“死”という悲しみと絶望という苦しみを経験した後に、師お会いして、これからも会えるという希望を見出すのです。
だから喜ぶのです。
妻春子もそうです。

私たちはこの世にあって苦しみや悲しみがあります。
しかし喜びは、苦しみや悲しみを通してもたらされるのです。
だから今、主に在って苦しみ・悲しんでいる人は幸いです。

次に24節で、 「私の名によって・・・・求めなさい。そうすれば受ける」 と言って下さいました。
これは、13節の 「聞くままを話し、又、やがて起ころうとしている事をあなたがたに示す」 お方、即ち真理の御霊を、私たちが受ける事を指しているのです。

その真理とは喜びです。
求めれば受けるのです。
今、分からないことが分かるようになるのです。
必ず喜びに満ちたものになるという事です。

そして21節、これは新しい価値観が与えられるからです。
真理の御霊による事柄ですが、世の成功や出世などの価値とは異なるもので、キリストの喜びが溢れる時、私の喜びも溢れるという喜びの人に変えられます。
これがキリストにある新しい価値観です。

                                         ヨハネ16章12〜24節







2008/04/05 8:49:01|先週の礼拝から
復活の主
一戸 満 先生のお話から

本日はこの礼拝の後、福富隆兄の洗礼式がございます。
感謝ですね。

さて、初代教会の中心テーマは 「あなたがたがあの十字架につけて殺したイエスは、よみがえられて今ここにいます。
主はよみがえられました。」 です。
このメッセージをたずさえて迫害の中をすすんで教会は驚くべき成長をとげました。

先週は受難週でしたが、イエスの死に続くよみがえりによって人々の心は逆転しました。
野球で言えば9回裏の大逆転、満塁ホームランのような出来事です。

墓の入り口は大きな石で封印されましたが、早朝に数人の女性達が墓に来た時、大きな石は取り除けられていたのです。
しかし、イエスの体は消えていて女性達は途方に暮れました。

5節から7節で二つのポイントがあります。
第一は 「なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません。
よみがえられたのです。」と宣言されました。

第二は「思い出しなさい。
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」と諭されたことです。

主は今も私たちと共にいる。
これが神の目から見た現実です。
共におられるキリストと一日一日歩んでいく、これがクリスチャンの人生です。

しかし、私たちは忘れ易いのです。
だからあのパンと葡萄液による聖餐式を繰り返し行なうのです。

申命記6章では、愛の神を愛することを忘れず心に刻みつけるために、どんな時でも言葉をとなえ、書き記せと命じています。

私たちも、主がよみがえられたことを心に刻みつけましょう。

芳賀先生の奥さんも天国で大きな声で叫んでいます。
自分は死んだのではない。
天国でよみがえっている。
いま新しい人生を主と共に始めています。

復活の主が、私たち一人一人を力づけてくださっているのです。主はよみがえりました。主は私たちと共におられ、一人一人を喜んで下さるのです。  文責 H&K

                                              ルカ24章1〜12節







2008/04/04 8:38:35|先週の礼拝から
互いに愛し合いなさい
栃木いこいの泉チャーチがスタートしました。
そして、ここに掲げたみ言葉です。
「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)、このみ言葉が、私たちを後押しして下さいました。

これはイエス様ご自身の十字架の血によって、全く新しい自己犠牲的な愛を生み出した新しい契約の新しい戒めということができます。
私たちは今後も、このみ言葉の導きに沿って、神の愛によって愛し合う教会、愛のある教会を建て上げたいのです。

そして、イエス様が十字架にかかる前の遺言のような言葉です。
続く35節 「あなたがたの互いにの間にあ愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」 と言われました。
その戒めに従う者たちが、イエスの弟子集団であるということを、世の全ての人に認めさせる目印だと言います。

しかし、現実は簡単ではありません。マタイ24章3節で弟子達が 「世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」 と質問しましたが、その予兆は、12節に 「愛は冷たくなり」 、10節に 「互いに裏切り、憎み合い」 21節に 「ひどい苦難がある」 というのです。それは愛が冷えて憎み合うから 「苦難があります」。
憎み合うことで憎しみが無限に広がります。
ヨハネ15章13節で、イエス様は 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」 と語られました。
これが十字架によって現わされた神の愛なのです。

イエスを仰ぎつつ走ろう。

                                              ヨハネ13章34〜35節







2008/04/03 6:54:40|先週の礼拝から
聖霊の不思議な力
ホーリネス栃木教会の枝として、2年間の伝道活動をしてきましたが、いよいよ自立教会としてスタートします。

今日は、自立直前の礼拝ですので、私達の立場に近い、使徒8章から原始教会の様子を見ましょう。
4節は、迫害によって散らされた人達の行動を 「御言葉を宣べながら、巡り歩いた。」 5節には、 「キリストを宣べ伝えた。」 と伝えている。
迫害が福音拡大の要因になっているのは聖霊の不思議な導きです。

更に7〜8節では、聖霊の不思議な力が宣教を後押しして下さっています。
迫害者パウロも 「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。」 と叫びます。

この散らされた人々をTペテロ1章1〜2節では、 「選ばれた人々、すなわち・・・・・・・イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々」 と呼んだのです。

どんな人々だったのか、パウロの言葉を借りよう。
Tコリント1章23節「知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです」。
散らされた人々とはこのような人達だったのです。

私はこのみ言葉が大好きです。
私たちの群れも散らされた群れの様に、取るに足りない者達でこの開拓を始めました。
私個人は、人に言えないような営業をやってきて、学もなく罪まみれの人間でした。
無きに等しい者の代表のような男が、神の憐みによって召しを受けたのです。

こんな素晴らしいことがあるでしょうか。
私は毎日が喜びで満たされているのです。
この喜びを一人でも多くの人に語りたいという思いで自立致します。
聖霊の後押しを期待しつつ、皆さんと共に前進していきたいと願っております。
弱い者のためにお祈りください。

                                          使徒8章1〜8節







2008/04/02 6:30:22|先週の礼拝から
ゆだねきる、ささげきる
三谷 君子 師のお話から

エレミヤ29章13に 「心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つける」 という言葉があります。

私は女学生の頃から、熱心に祈れば神に出会えると思っていました。
地方の弁論大会を前に、祈って一位になり、群大会でも一位になりました。
この時期に祈る生活に芽生えたのです。

幼稚園児の長男が遊んでいた時、突然、灯篭が倒れて息子の頭に当たり、意識不明の危篤状態になりましたが、主に助けを求めて泣きました。
そうして・・・・あなたにとっても我が子は可愛いだろう。
私にとってイエスはひとり児です。
そのひとり児をあなたの罪の赦しと救いのために残酷な十字架の刑につけ、朝9時から午後3時まで、私は天から見届けたのだ。・・・・ と心の内に示されたのです。

私は神の愛に触れ絶句して泣きました。
その愛の深さを本当に知らされ、自分で握り締めていた我が子を心から主にささげ、ゆだねきることができたのです。
主にゆだねてから子供は退院し、わたし自身が変えられているのを驚きました。

洗礼を受けた後に、ひとりの婦人を赦せないでいる自分に気づきました。
「主よ、どうして愛せないのか助けてください。」 と祈りました。
牧師から 「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた(ロマ6章6節)のに、あなたが死んでいないからあなたの古き人が邪魔をしているのだと言われ、次の日には・・・・私が2000年前に古き三谷君子のために代わって死んだのだ。
主なる私に、握っている自分を捧げなさい・・・・と示されました。
こうして、自分の全てをささげきって、その婦人を赦せました。

「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」(ガラテヤ2章20節)。
パウロの様に全てをゆだね、私たちのからだを聖い、生きた供え物としてささげよう。 

                                   ローマ12章1節      文責 H & K