小さな教会

プロテスタントの開拓教会です。 私たちは、エホバの証人、モルモン教、統一教会とは、一切関係ありません。
 
2008/05/15 6:52:20|先週の礼拝から
我が家を救った御言葉
先日、妻春子の納骨式の中で触れた民数記11章23節の言葉 「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」 は、春子姉が信じきって我が家族を亡びから救った御言葉で、墓石に刻んだものです。

ここで 「手」 は、現実的な救いの手ですが、聖書時代と今の時代と将来の三つの視点に分けて話そうとしています。

第一は、詩篇31篇15節 「私の時は、御手の中にあります。」 にある 「御手」 ですが、 「私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」 と続きます。

使徒16章24〜26節に書かれたパウロは牢獄の中にいて、重りを付けた鎖を足に付けられて動けない時に、地震が起き伝道生涯が終わろうかという状況でした。
しかし、牢獄の扉が開き、鎖は解け、看守家族が救いを受けました。
伝道者への迫害を通して、主がが伝道を推進させたのです。

第二は、苦難の時の御手です。1988年7月8日、私は仕事の失敗によって自殺願望に落ち込み、家族ぐるみで生死の中をさまようのかと思われる立場なったのに、その窮状の時も、 「主の手は短いのだろうか。」 と語り続けるお方が妻を支え、家族を護って下さいました。

振り返ってみれば、私が結婚した時、信仰者は妻一人でした。
しかし、使徒16章31節 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 の通り、家族全員と実家の祖父母、妻の姉まで救われ、正月などには5人の牧師に囲まれる家族に変えられているのです。

これは妻の涙の祈りと約束の成就です。
だから、生涯の御言葉として 「主の手は短いのだろうか。(中略)今わかる。」 と墓石に刻んだのです。
それは、この世に対する私たちの証しのしるしですが、我が家族の救いと信仰の継承と、出34章7節、 「恵みを千代も保ち・・・・」 との約束を信じていくためのものでもあります。

第三は、十字架の最後のことば、ルカ23章46節 「父よ、我が霊を御手にゆだねます。」 は、福音を完成され、私たちが永遠のいのちと復活の望みによって生きるようにされたので、私たちも 「御手」 にゆだねれば最善に導かれ、永遠のいのちに至るのです。

現実生活をゆだねて生きよう。
                                           民数記11章23節







2008/05/05 5:12:51|先週の礼拝から
クリスチャンの人生観
春子姉の記念会も終わり、ようやく落ち着いたでしょうか。
私は本当に愛する者を失い “死”と直接向き合いました。
悲しみも苦しみもあり、自分の自律神経も停止してしまうような状態を感じました。
そんな時、これまでに育まれていた信仰が私を支え、信仰を通して主が危機管理をされたものと思います。

詩篇31章15節は 「私の時(人生)は、御手の中にあります。」 と告白します。
私たちの計画もおのずから主に任せて生きる人生なのです。
そして復活したキリストと共に、向こう側に凱旋することがゴールインなのです。

今日は、詩篇39章の告白を三つの見本として人生を観察してみましょう。

第一は5節、筆者は自分と死との間には手幅ほどの隔たりしかないと感じ、 「私の日(人生)を手幅ほどにされました。」 と告白しました。
人生の短さと空しさです。
天地の永遠に比べて人生のはかなさを知ったら、早く永遠を掴めと聖書は言っています。
伝道の書が12章1節で 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。」 と呼びかける通りです。

第二は6節、一体何のためにこんなはかない中を人は忙しく騒ぎまわり蓄えるのかという。
イエスはルカ12章で、大金持ちのたとえ話をされました。
「神は彼に 『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったい誰のものになるのか。』と言われ、自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」と。

第三は12節、 「私はこの世を旅している者で、この世に寄留している者だ」 と言うのです。
人生の旅はどこへ行く旅なのでしょうか。
どこへ行くのかわからない旅の人生、辛さの根本はそこにあるのです。
私たちは、たとえ苦しく、わびしく見える旅でも、行く先を知らない旅ではないのです。
パウロは 「私たちの国籍は天にあります。」 と言い、ピリピ3章13節で 「神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」 と言います。
彼の生涯は、目的が明確で使命感に満ちていました。

絶えず祈り、目標を見失わないようにしましょう。
                                   ピリピ3章13〜14節







2008/04/27 15:29:13|先週の礼拝から
納骨式より
栃木聖地公園において春子姉の納骨式が済みました。
当日は、キリスト者の納骨に初めて立ち会う方々が途中で大勢合流されるハプニングで、お話の予定を急遽変更させていただきました。

さて、私たちキリスト者が、この世における任務を終えて天に召され、葬られた時、キリスト者は墓の中におりません。
墓にあるのは残った地のチリがあるだけです。

ピリピ3章5節でパウロが「私たちの国籍は天にあります。」と言っているように、その霊は希望の国に行っているからです。
ですから墓は人生の最終ゴールではありません。

墓は何を意味するでしょうか。
墓の表面に 「私が道であり、真理であり、いのちなのです。」 と刻印されてあります。
これは、先に天に召された者が、かつてそうであった様に今も、キリスト・イエスを紹介しているかの様です。
この世にある間、キリスト者として生きた証しです。
この墓の脇の衝立には 「主の手は短かろうか。今わたしの言葉が実現するかどうか見るであろう」 (民11章23節) と刻印されています。
これは主の言葉を徹底して信じた信仰者の証しです。
このような想い出は、刻印されていない言葉までも思い起こさせ 「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」 と、主の言葉さえ聞かされます。
召された方が天に帰っても地上に残したメッセージなのです。

繰り返しになりますが、墓がゴールではないのです。
キリスト・イエスが待つ天の御国が永遠のゴールなのです。
だから私たちは死に対する恐れがありません。
死の先に見える墓をのり越えて、未来の国、キリストと共にある永遠の都に住むのです。
これらの普遍的テーマが、この墓に込められています。
                                              ピリピ3章5節







2008/04/20 8:13:02|先週の礼拝から
もっと先を見ていたイエス
先日の、妻の告別式に出席して下さった牧師から一通の週報が届きました。
説教のタイトルが 「ハルチャンバンザイ」 でした。
親族挨拶の時の、私の締めくくりの言葉と同じです。

これは、日本流に言って 「バンザーイ」 でしたが、ホサナ、ハレルヤ祝福あれ、つまり永遠の都への凱旋を信じて、妻への愛の告白と信仰告白のつもりでした。
今日の話は、ここから与えられたものです。

二人の弟子がエマオという村へ行く途中の出来事です。
二人が歩きながら論じていた事はイエスの十字架事件と復活報告の事でした。

イエスが近づき、一緒に歩き、聖書の説明をなさっていた時、二人の弟子はその方がイエスだと気付かなかったのです。
自分達の師であるキリストが分からない。
何と愚かしいことか。

それは弟子達だけではない。実はかつて一緒に生活していた時からイエスのことを分かっていなかった。
厳しい言い方をすれば、最初からイエスを認めていなかった。
それは復活という不思議な出来事、つまり現象自体を延々と論じ合っていたからです。

論じるよりもイエスが共にいることを知り主に従う道を歩むことが大切です。
更に、分からせようとして、聖書を説き明かされたのに気付けない弟子たちでした。

やがて弟子たちの目的地であるエマオに到着したが、 「イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。」 と記述してあるように、そこはイエスが目指したものと全く違うものです。
イエスの目的はエマオを越えて進んでいく道、永遠の都へと続く道だったのです。

そして彼らが 「一緒に泊って下さい」 と無理に願ったので中に入り・・・・食卓につかれたのです。
そしてイエスがパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された時、彼らの目が開かれ、イエスだとわかり、その姿は見えなくなりました。

よみがえりの主とは何か。
それは、二人の弟子が 「私たちの心はうちに燃えていたではないか。」 と言っている事から推察されるように、キリストを中心にした交わりが生まれる事です。
それは同時に、私たちが新たな生き方へと踏み出す力なのです。
                                            ルカ24章27〜28節







2008/04/13 8:36:51|先週の礼拝から
新しい天地
佐野謙次兄のお話から

イエスは、ヨハネ11章で 「わたしは復活であり、命である。
わたしを信じる者は死んでも生きる。
生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。
このことを信じるか。」 と言われ、イエスを信頼する事によって、永遠の命を経験できることを示されました。

イエスの死(十字架)を信じる者が、等しく地上の友の栄光の死を信じる事の大切さを教えられます。

ヨハネは、黙示21章1節で 「新しい天と新しい地を見た」 と記しました。
先の天地が多くの試練を越え、最後の審判を経て消え去り、新しく造られた天と地が神によって与えられたと告げたのです。

救われた者の永遠の祝福です。

神の恵みの計画であり予言(イザヤ65章17節)の成就です。

死に直面している信徒を励まし慰めます。
(マルコ13章31節) 「天地は滅びるがわたしの言葉は決して滅びない。」
(イザヤ66章22節)わたしの造る新しい天と新しい地がわたしの前に永く続くように。
あなたたちの子孫とあなたたちの名も永く続くと主は言われる。

黙示21章3〜4節では、御座から大いなる声を聞きました。
「見よ。神の幕屋が人と共にあり、神は人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全く拭い取ってくださる。
もはや死もなく悲しみも叫びも痛みもない。21章5節、玉座に座っておられる方が「見よ。わたしは万物を新しくすると言われ、又これらの言葉は信頼でき、又真実である。」 と宣言しました。

21章8節で、 「臆病な者に始まり全て偽りを言う者に至る8節に列挙された者が受ける報いは、死と硫黄の燃えている池です。」 と第2の死の警告をします。
そして、この中から最後の人が救われたら主が来られ地球最後の日は喜びの日となります。

黙示録は多くの警告と慰めを私たちに与えています。
イエスさまの前に立って新しい都の住民とされた時、ヨハネ21章は想像もできないほど素晴らしい栄光に富んだものとなる固い約束でありましょう。

                                        黙示録21章1〜5節  文責 H&K