先日、妻春子の納骨式の中で触れた民数記11章23節の言葉 「主の手は短いのだろうか。わたしのことばが実現するかどうかは、今わかる。」 は、春子姉が信じきって我が家族を亡びから救った御言葉で、墓石に刻んだものです。
ここで 「手」 は、現実的な救いの手ですが、聖書時代と今の時代と将来の三つの視点に分けて話そうとしています。
第一は、詩篇31篇15節 「私の時は、御手の中にあります。」 にある 「御手」 ですが、 「私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。」 と続きます。
使徒16章24〜26節に書かれたパウロは牢獄の中にいて、重りを付けた鎖を足に付けられて動けない時に、地震が起き伝道生涯が終わろうかという状況でした。 しかし、牢獄の扉が開き、鎖は解け、看守家族が救いを受けました。 伝道者への迫害を通して、主がが伝道を推進させたのです。
第二は、苦難の時の御手です。1988年7月8日、私は仕事の失敗によって自殺願望に落ち込み、家族ぐるみで生死の中をさまようのかと思われる立場なったのに、その窮状の時も、 「主の手は短いのだろうか。」 と語り続けるお方が妻を支え、家族を護って下さいました。
振り返ってみれば、私が結婚した時、信仰者は妻一人でした。 しかし、使徒16章31節 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 の通り、家族全員と実家の祖父母、妻の姉まで救われ、正月などには5人の牧師に囲まれる家族に変えられているのです。
これは妻の涙の祈りと約束の成就です。 だから、生涯の御言葉として 「主の手は短いのだろうか。(中略)今わかる。」 と墓石に刻んだのです。 それは、この世に対する私たちの証しのしるしですが、我が家族の救いと信仰の継承と、出34章7節、 「恵みを千代も保ち・・・・」 との約束を信じていくためのものでもあります。
第三は、十字架の最後のことば、ルカ23章46節 「父よ、我が霊を御手にゆだねます。」 は、福音を完成され、私たちが永遠のいのちと復活の望みによって生きるようにされたので、私たちも 「御手」 にゆだねれば最善に導かれ、永遠のいのちに至るのです。
現実生活をゆだねて生きよう。 民数記11章23節 |